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青空隊  作者: 葱鮪命
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突撃、手負猪! 後編

 小林こばやし 鞠亜まりあは逆さの視界に、喚声を上げる五組の姿を映していた。


『五組の小林騎手、落馬しました! 同じく五組の夏凪なつなぎ騎手も_____彼女は落馬というか、飛び降りたと言った方が正しいでしょうか!? なんと彼女は今、騎手という役割を捨てて、仲間のクッションにジョブチェンジしたのです! 何たる神業! しかし、落馬扱いなので試合は終了です! 勝利したのは、一年一組!』


 鞠亜はまだ何が起きたのか分からなかった。背中が部分的に痛い。地面からは少し背が浮いているのだが、何によって浮いているのかは理解できない。ただ、人肌の温度が感じられる。


「あっぶねー、間に合った」

小空こそら?」

「鞠亜ちゃん、無理はいかんよ。騎馬が離れるってなったら、離れんと」

「何で……?」

「何かアクシデントがあった合図でもあるだろうからね。ねえ、伊丹いたみちゃん」


 鞠亜はそこでようやく体を起こした。小空の背中に、自分は仰向けで倒れていたのだ。遠くには、小空が乗っていたはずの騎馬たちが居る。かなりの距離がある。小空は自分の下に滑り込んできたらしい。馬を捨てて。


「頭打ってない? 鞠亜ちゃん」


 自分が乗っていた騎馬たちが心配げな表情をしている。その一人、峯岸みねぎし ゆいの姿がない事に、鞠亜は気が付いた。


「峯岸ちゃん、足挫いちゃって……さっき、それを伝えようと思ったんだけど……」


 騎馬の一人である伊丹 樹里じゅりが言いづらそうに口を開いた。鞠亜はハッとした。


「そう、だったんだ」

「まあ、騎手からじゃ騎馬の様子なんてなかなか見えんからね」


 小空が立ち上がりながら言った。彼女の体操着は、前面が茶色に染まっている。膝小僧には血が滲んでいて、鞠亜は目を見張った。


「落馬した子、怪我は?」

 ジャージに身を包んだ女性の体育教師が小走りでやって来る。鞠亜は自分が無事であることを伝え、それよりも、と小空の脚を指さした。小空は教師に連れられて医療テントに向かった。


「とりあえず、十点ゲッツ!! やりいっ!」


 鞠亜の前を通り過ぎる際、小空が何かを投げてきた。緑のハチマキが鞠亜の手の中に落ちた。ハチマキは一本で十点分なのだ。


「応援席、戻ろっか」


 他の女子がやって来て、そう言った。鞠亜はじっとハチマキを見たまま動かない。


「鞠亜ちゃん?」

「ごめん」


 顔を上げると皆目を丸くしている。


「一人で突き進もうとしてごめん」


「鞠亜ちゃん」


「勝ちたくて、周り……見えてなかったかも」


 目を伏せた時、弾けたように周りが笑い出した。驚いて目を上げると、小空の騎馬の一人だった久住くずみ 莉那りなが肩を激しく叩いてくる。


「あのねえ、鞠亜ちゃん。体育祭は女子捨ててなんぼよ」


 彼女はカラッとした笑顔で続けた。


「最高に大将してたよ、さっきの鞠亜ちゃん。相手のチーム、半泣きだった」

「ほんと?」

「ほんと。試合後の実況、聞いた?」


 鞠亜は首を横に振る。落馬のショックで周りのことなどほとんど気にしていなかったのだ。莉那は周りを見た。周りの女子も彼女と似た顔で笑っている。


「シキ高四十年の歴史、最も威勢ある女大将誕生の瞬間だ。我々は伝説が生まれた瞬間を目にしたのです_____だって」


 込み上げてくる笑いに、鞠亜は耐えられなかった。


 *****


「峯岸さん、足大丈夫?」


 小空は医療テントにて、脚の手当てを受けていた。テントのパイプ椅子には、峯岸 結が先に座っていた。足を冷やしているところだった。


「うん。軽く捻っただけだから。鞠亜ちゃん凄いね。伝説の大将だって」

「ほんとほんと。あの殺気で迫られたら相手ちびっちゃうね」


 小空がパイプ椅子の背もたれに背を預けて仰ぐと、視界にぬっと顔が入って来た。


「あれっ、らんちゃん」

「飲み物。スポドリか、お茶か」

「スポドリ」

「毎度」

「金取んのかいな」


 額によく冷えたスポーツドリンクのペットボトルを乗せられ、小空はそれを受け取った。キャップを開けながら、


「嵐ちゃん、保健委員だっけ」

 と、隣でしゃがんだ少年を見る。


「うん。終わったらお菓子貰える」

「そりゃ良いね」


 小空は喉にスポーツドリンクを流し込み、ぷはー、と口を離した。


「パン食い競争は今からだね。どうですか、自信のほどは」

「粒あん希望。ごま多め」

「選べるの?」

「知らない」


 嵐平らんぺいは小空の脚に目をやった。


「大勢の前で、力、使っちゃダメって雨斗あまと言ってた」

「いーの、人助けるためなんだから」

「じゃあ、パン食い競争でパン食べるときも、浮いて良いの?」

「それはダメだろ、人助けじゃないし」

「仲間を勝利に導くため」

「一秒でも早くあんぱん食いたいだけでしょうが」


 *****


 小空は結と共に、応援席に戻った。既に騎馬戦は決勝まで終わったようだ。勝利したのは、一組の女子だったらしい。


「いやあ、良い試合だったね」

「小空のまさかの落馬には驚いたけどな」

「お前って時々、突飛な行動に走るよな。鞠亜が怪我しなくて良かったけどさ。お前が怪我しちゃってんじゃん」

「峯岸は大丈夫なのか?」

「うん。軽い捻挫」


 鞠亜がそわそわとした様子だったので、結は明るいトーンで言った。


「かっこいい女大将の騎馬ができて、誇らしいよ」


 結の言葉に、鞠亜は安心したような笑みを見せた。


 *****


 パン食い競争は、四組が圧勝して終わった。というのも、四組にはシキ高で最も食べることが大好きな嵐平が居り、彼の食べ物に対する異常なまでの執着に、周りの選手が戦意を喪失したのである。

 小空に釘を刺されていたために、青空隊特有の空飛ぶ力は使われなかったものの、あんぱんが誰よりも早く彼の口に吸い込まれ、胃の腑の中に落とし込まれ、そして最もチームに貢献した者に送られる賞品「お菓子詰め合わせ」をゲットするために、ゴールテープが切られた。

 実況が他の選手の実況を放棄するほど、スポットライトは完璧なまでに嵐平に向けられていた。


「むふー」


 得点パネルが次々とひっくり返される様を満足げに見届けた彼は、自分のクラスの応援席に戻って来た。


「お前、マジで陸上部に来ないか」

「いいや、野球部だ。あの足の速さなら盗塁王になれる」

「その高身長と瞬発力を活かして、バスケ部なんてどうだ?」


 同じクラスのそれぞれの部活の勧誘を、彼は軽く流した。イスに座り、早弁用に買ってきた菓子パンの袋を開けて食べ始める。


「なあ、嵐平、まじで俺の部活に来い。お前ならエースの座を目指せる」

「美味しいものあるなら行く」

「美味しいものか……」

「くそ、顧問に言って専用の部費を用意してもらうしかないのか……」

「やめとけ。こいつは料理部の部費の大半を使った強者だ。入部させたその日に俺らの財布が空になる」

「優秀な貧乏神ってことか……」

「二つ名としては、かっこいいな」

「かっこいいか……?」


『それでは、これよりお昼休憩に入ります。体育祭実行委員は、三十分後に本部テントまでお集まりください』


 嵐平は菓子パンを麦茶ですっかり流し込んだ。早弁をしていた彼だが、本格的なランチタイムが始まるので目が輝き始める。彼は「一年四組のブラックホール」の異名を持つのだ。


「嵐ちゃん、飯だって」


 小空がやって来る。手には見慣れた弁当包み。嵐平も同じものを持っているのだ。


青咲せいさくお兄さん、今日何入れてたって?」

「からあげ。あとカツ丼」

「肉尽くしだね。てか、丼ものとから揚げって」


 小空は空きができた嵐平の組の椅子に腰かけ、弁当を開く。弁当スペースはそれぞれ自分の教室か、自分の応援席と決められていたが、ほとんどの生徒がルールに従うことなく、自由な場所を見つけて弁当をつついていたのだ。


 小空は弁当箱の蓋を持ち上げた。出てきたのは聞いていた通りのから揚げだ。二段弁当なので、ひとつはおかず、ひとつはご飯なのだが、ご飯の段を開いてみると、小空のものはのり弁になっていた。さすがに唐揚げと丼ものを一緒にはしなかったらしい。カロリー爆弾であることを分かっていたのだろう。小空は心の中で青咲に感謝した。


「三段弁当」

「まじか。何をそんなにもりもりにされてるのよ」

「一番上は唐揚げ。二段目はカツ丼。三段目はのり弁」

「うわあ、嵐ちゃんしか食えない組み合わせ」


 小空はのり弁に箸をつける。鰹節が海苔の下に敷かれている。出汁の染みた白米を楽しみながら、四組が圧倒的な差を広げた得点パネルを見上げた。


「いやあ、まさかパン食い競争で点数がひっくり返るとはね」

「美味しかった」

「競技終わった後菓子パンも食ってたよね? どんだけ食うのよ」


 四組が今のところ四十点ほどリードしている。次いで六組、一組、そして五組だ。騎馬戦の結果が思いのほか痛い。他の競技はかなり良い順位に食い込むことができたが、あと一打欲しいところである。


「やっぱり午後のリレーか」

 小空は口から箸を離した。


「小空、リレー出る?」

「出る出る」


 小空は唐揚げを拾い上げる。スパイシーな粉が振られている。青咲が最近はまっている味付けだ。


「一位狙っちゃいますか! 可愛い女の子たちに胴上げしてもらうんだあ」

「うん、一位取ってほしい。お菓子詰め合わせ」

「自分のチームに貢献しようって気にはならんの?」

「もちろん見込みがあれば貢献する」


 嵐平は特大のから揚げを口に詰め込んだ。


「なければ小空の組に賭ける」

「ひっでー」


 *****


『さあ、この体育祭もいよいよ大詰め! どの競技も素晴らしかった! ここで点数の確認をいたしましょう!』


 皆の目は、得点板に向かう。


『今一位を独走しているのは~……四組っ! 560ポイント! 過去の体育祭でもこんな高得点はなかなかなかったと、先生たちの昼休憩は盛り上がっていました! それと、今夜は何処で飲もうか、何処で食おうか……先生たち、最後まで気を抜かずに生徒の応援をお願いしますよ! 自分のクラスが勝ったら、それはそれは良い酒のつまみになりますからねえー!』


 教員席から笑い声が上がった。生徒も手を叩いてはやし立てる。


『暫定二位は一組! 六組は少し疾走気味か!? 三位に落ちてしまった! だが点差は十点! 一組、このまま逃げ切れるのだろうか!! さあ、四位の五組はまだ望みがありそうだ! 三位とは七点差! 二年の五色綱引きが良いポイント加算になったようだ!』


「やっぱ強いな、一組と六組」

「あいつらを倒さないと一位は遠いぞ」

「しかも、最後がリレーか……ただでさえ脳筋と文武両道の鬼たちがうようよ居るクラスだってのに」


 五組の応援席では、厳しい顔で得点板を見守る生徒たちの姿がある。五組が一位になるには、上の三つのクラスをどうにかする必要がある。三位、二位とは僅差だが、一位とはまだポイントの差が大きい。リレーで一位を取らなければ、勝利は厳しいだろう。


「で、このプレッシャーに耐えられない我がエースたち、と」


 伊丹 樹里は、自分の足元でしゃがみこんでいる数人の生徒を見下ろした。神崎かんざき 季子きこが顔を真っ青にして膝に顔を埋めている。その隣で、季子の背中を撫でる羽山はやま めい。彼女もまた顔が強張っている。


「こりゃ重傷だ」

「そりゃそうでしょ。此処で点数入れないと一位は無理だからね」

「そもそも一位を取るメリットとは……?」

「先生から高級なアイスの差し入れがある」

「まじか。いつの間に?」

「今買わせに行った。今月の給料を枯らす気持ちでお願いしますって頼んでおいた」

「やるな、伊丹」


『出場する選手の方は、第二トラックの入場門まで集合してください』


「ひいい!」

「うわっ! 季子!」

「無理、吐く、吐く」

「せめてあっちで吐こう! 最悪走りながら! 他の選手から闘志を奪い取ろう!」

「プレイ違反すぎる」

「スポーツマンシップの欠片も無いな」


 季子がめいに連れていかれる一方、


「小空は何処に行ったんだ?」

「さあ、お手洗いじゃない? 昼ごはん、各女子から弁当のおかずを恵んでもらってたし」

「あいつ、弁当持ってきてなかったのか?」

「持ってきてたよ。でも、各家庭の味付けに慣れておいて、将来困らないようにしたいんだとさ」

「全然わかんねえ」


「あれ、みんなは?」


 校舎から小空が走って来る。ハンカチを持っていないのか、濡れた手を必要以上に振りながら、水けをきっている。水は男子に飛んでいた。女子には一滴もかからない配慮っぷりである。


「もう入場門に行っちまったぞ。点呼取るんだろ。時間までに行かなかったら補欠の山吹やまぶきが出場することになるんだからな」

「それはあかん! これ以上嫌われるわけにゃいかん!」


 小空は慌てて走り去っていく。


「本当にあれがエースなのか?」


 白石しろいし 日向ひゅうがが小空を指して皆に問う。体力測定で、彼女の足の速さを知っているのは女子だけだ。


「びっくりなんだよね。女子で二番目に早いんだから」

「嘘だあ」


 そういえば、と誰かが、小空の椅子の上を見た。そこには、てんこ盛りにされたうちわ達の姿がある。全て一年五組の女子生徒に対して作られたものである。恐らく、十九個のうちわが椅子の上に乗せられているはずだが_____あと一つは、存在するのだろうか。


「あいつ、自分のうちわは作ってないのかな」


 *****


「頼んだぞ、羽山」


「うっひゃー、非常にプレッシャー」


 リレーは五組男子が総合順位三位という結果に終わった。ただし、一位を独占していた四組は、選手が転んだことによって六位となり、全ての組にとって大きすぎるチャンスになっている。それぞれのクラスは、声を枯らしながら熱い応援を送っていた。


 一年生女子のリレーが始まろうとしている。リレーは四人でバトンを繋ぐことになっており、それぞれの組にハチマキに応じたカラーのバトンが渡される。羽山 めいの手に配られたのは、青いバトン。


「羽山、マジで頼む。ほんとに頼む」

「だらしないなあ」


 男子の懇願する姿にめいは苦笑し、ハチマキが取れないように後ろの輪っかを両方に強く引っ張った。


「勝てば良いんでしょ、勝てば」

「かあっこいい!」

「めい様!」

「こっち向いて!」

「小空、お前いつの間にうちわ持ってきた!?」


 小空は選手の中に交じりながら、「めい」と書かれたうちわを振っている。剣道部であるめいは、防具や袴を意識したのか黒を基調としたデザインである。面がねの銀色が、うちわを縁取る銀のモールで表現されている。


「後でそれちょうだい、小空」

「もちろん!」


『それでは、選手は位置についてください』


 放送が聞こえ、めいは指定された場所に立った。一番内側のコーナーだ。めいはスニーカーのつま先をとんとんと地面につけて、しっかりと靴を足にフィットさせた。

 第一走者に求められる能力は、瞬発力。スタート合図を見極め、周りの雰囲気に呑まれず正しいタイミングで足を前に出さねばならない。男子の二年のリレーでは、何人かがそのスタートダッシュを失敗し、繰り返したことで退場になっていた。タイミングを見るのは、瞬発力を鍛えられる剣道部の得意技だ。


「位置について」


 体育教師がよく通る声を、校庭に響かせる。どの応援席も緊張の瞬間を、息を呑んで見守っている。さっきまで賑やかだった待機席も静かになった。


「よーい」


 クラウチングスタートの姿勢を取った。口笛の音がした。「小空だな」とめい。さっき、ここは女子生徒の膝裏が見られるベストポジションなのだと言って、周りの生徒をドン引きさせていたのである。


 パンッ! と激しいピストルの音を合図に、めいは走り出す。順調な走り出しだ。隣の四組のタイミングが遅れたのはラッキーだった。すぐに追いつく。その次に居た六組の背中も見えてきた。足がぐんぐんスピードを上げていく。


「めい、行けえ!!」

「追えー!」


 五組の応援席の前を通り過ぎた。凄い砂埃だ。めいはまっすぐ睨んだまま、埃の中を駆け抜けた。六組を抜くと、歓声が大きくなる。


「来てるぞ、羽山!」

「そのまま行ってくれ!」


 わかってる、と心の中で返す。後ろにはすぐに六組が居る。ゴールまで逃げ切るのは難しそうだ。このまま何とか場所をキープし続けたい。そうこうしているうちに、第二走者が見えてきた。次なる走者は神崎 季子。テイクオーバーゾーンの手前の方でめいを待っていた。他の組のバトンが渡り始める。


『三組、第二走者にバトンが渡りました! おっと、二組はバトンを落としてしまった! その間に一組、二位に躍り出た! 五組、バトンが渡った!』

「頼んだ、季子!」

「おっけ!」


 季子の声はすぐに遠くなった。場所を避けながら、めいは彼女の姿を目で追いかける。現在の五組の順位は三位。季子がすぐに二組を追い抜いたのである。バトンを落としたのは、大きなタイムロスだったのだ。季子は一組と三組の背中を必死に追っている。第三走者の小空がテイクオーバーゾーンに入ったのが見えた。うちわを持っていないが、それは補欠の山吹 円香まどかに持たせたらしい。やる気のなさそうにうちわを振っている円香の姿が見えた。


『さあ、三組、このまま逃げ切れるのか!? 今、第三走者にバトンが_____おっと、手前で転倒! 次ぐ二組も巻き込まれ転倒! 五組、このチャンスを逃すな! 今青いバトンが第三走者に_____渡った!』


「よしっ!」


 一位に躍り出た。めいはガッツポーズを決める。小空ならば、他の選手が転んだとなれば……そしてそれが女子であるならば、走るよりも先に救助を優先すると思っていたが_____きっと向こうで円香に釘を刺されていたのだろう。


「はっえー」


 相澤あいざわ 小麦こむぎが苦笑いを浮かべながら、テイクオーバーゾーンに入った。もたもたしている三組と二組を置いて、小空は一位独走状態だ。コーナーを曲がって直線に入る。ものすごい笑顔である。


「抱きつかれそうな勢いだけど」

「バトンだけ受け取って全力で逃げないとな」


 まさにそうする必要がありそうだ。小空は両腕を広げて迫って来た。バトンを前に突き出さねば意味がないだろうに。


「小麦ちゃーんっ!!」

「はいはい……」


 青いバトンが小空の手から小麦の手に渡る。が、


「あっ」

「あっ」


 両腕を広げてきた小空は、当然その腕を前方に伸ばし直さなければならなかった。目測を誤ったのだろう、それは小麦の手をすり抜けた。修正を図ろうとした小空の手の甲と、小麦の手がぶつかる。青いバトンが、くるくると縦に回転しながら青空の中に吸い込まれた。ぽかんと口を開けて空を見上げるしかなかった。めいも、小麦も、そして小空も。


『おっと、五組バトンパス失敗! バトンが宙を舞ったーっ!』

「あほーっ!!」

「ひい、ごめん!!」


 バトンは飛んで行って、職員テントの屋根に上がる。思いがけないハプニングに教師たちが慌ててテントの外に出て来るが、バトンは完全に屋根の上に乗ってしまった。その間にも他の組がやって来る。いつの間にか、六組が二位になっていたようだ。


「ちょっ、ちょっ、どうすんの!」

「とりあえず走る!?」

「バトン無いのに!?」


 教師たちは屋根からバトンを取るのに苦戦している。待っているのがあまりにももどかしい。その間にも、六組のバトンが渡った。


「ダメだ、走って、小麦!」

「了解!」


 小麦が手ぶらの状態で走り始める。小空が「やっちまった」と待機席にやってきた。めいは彼女の頭を軽く叩く。


「やってくれたね。エースさん」

「すみません……もうあっちに戻れない……」


 小空がちらりと見るトラックの反対側には、鬼の形相で此方を睨みつける円香の姿があった。今まで見たことが無い顔だ。般若だな、とめいは小空のために合掌した。


 パン、パン!


 ピストルが二回、響いた。ハッと目をやると、全員がゴールしていた。もう何位でも関係ない。とにかく、今は般若と化した友達のもとへ帰るという試練を乗り越えなければならないのである。


 *****


「すぅーみぃれちゃんっ」


 花村はなむら すみれは、荷物をまとめて帰る用意をしていた。ホームルームを終えたクラスは、互いに写真を取り合うクラスメイトと、その他のクラスから湧いて出てきたクラスメイトで溢れている。こんな土と汗の臭いのする空間には居たくはないと、彼女は一番にクラスを出ようと思っていたところだ。


 そんな彼女の行く手を阻む、一人の生徒の姿がある。


「夏凪さん……」


 五組の夏凪 小空である。まだハチマキを頭に巻いていて、ぼさぼさの髪は何故か湿っている。汗ではなさそうだ。


「何で濡れてるの?」

「ああ、これね」


 小空が頬を掻いた。


「友達怒らせちゃって。頭を冷やせって、冷水ぶっかけられちゃったんだあ」

 あまり反省している声色ではなかった。怒らせた原因は、あの伝説のバトンパスだろう。あの後の放送を、菫は思い出す。


『今年の五組は伝説祭りだー! 女子の騎馬戦、そして今度はリレーのバトンパス! 我々はこの伝説を次世代に語り継いでいかなければなりません!』


 語り継がなくて良い、あんなもの。


「それで、なんの用」

「一緒に写真撮ろう!」


 やっぱりその理由か、と菫は思った。周りの生徒を見ていると、体育祭のメインは此方なのではないかと思ってしまうほど、辺りはシャッター音で溢れている。憧れの先輩とツーショットを撮れただの、先生の姿を撮れただの。小空も、体育祭の途中で約束をして来た。


 あまり好ましくない風潮だが、小空のスマホにならば、一枚くらい自分の写真が入っていたって良い。


「良いけど……私より先に撮った方が良い人、たくさん居るでしょ」


 こういう冷たい反応をしてしまえば、普通の女子ならすぐに離れていく。しかし、目の前の彼女はそうではない。肩がぐっと持たれて、引き寄せられた。


「頑張った後のご褒美はすぐ欲しいタイプなんだな、私は!」


 向日葵のような笑みである。ご褒美と言われて嫌な気はしない。つくづく乗せられている気がする。こういう言葉を、他の女子にも吐いていることは分かっているのだが。


「五組、一位取れなかったね」

「まあね。でも二位なら上々!」


 一位は六組だった。二年、三年生がポイント泥棒となったのだ。小空のクラスは二位。四組は、四位だった。


「笑ってー!」


 スマホは内カメラになっていて、画面には満面の笑みの小空と、不機嫌そうな自分の顔が映りこんでいる。小空が「もっと、もっと!」と笑顔を強要してくるが、菫は表情を変えない。


「んもー、菫ちゃんの笑顔が見たいのに」

「じゃあ、あそこ見て」


 菫は、自分の席を指さした。小空の視線が其方に向かう。えっ、と口から声が漏れたのが聞こえた。机の上には、うちわが置いてある。真っ白で、まだほとんど装飾がされていないのだが_____そこには確かに「小空」の文字がある。「えええっ……!」と、うちわから目が離せなくなった小空の頬が、赤くなっていくのを菫は見た。素早く、スマホのカメラのボタンに手を伸ばす。


「はい、チーズ」

「ええええっ!!」


 小空が顔を戻した時には遅かった。シャッター音が流れ、画面下の小さなアルバムには、カメラから視線を大きく外したまま赤面する小空と、悪戯っぽく笑っている菫の姿がある。


「ちょっと、待って……えっ、私にうちわ作ってくれたん!?」

「さあ、どうでしょ」


 菫が笑って、小空の腕からするりと逃れた。そのまま自分の机に走る。うちわを手提げの鞄に押し込んで、彼女は教室を出た。小空がハッと我に返って、その後を追いかける。


「待って、菫ちゃん! 裏には!? 裏には何て書いた!?」


 うちわには二面あるのだ。小空が作っていたうちわには、片面が生徒の名前、もう片面がその生徒に対する一言メッセージを書いていた。菫が作ってくれたうちわにも、きっと何か書いてあるはずだ。


 しかし菫の足は驚くほど速い。群衆の中を縫うように進み、あっという間に階段に着いた。その足を止めることなく、彼女は階段を下りる。そして踊り場に足を着くと、くるんと振り返った。周りの賑やかさが彼女の声をかき消す。口が動いている。何と言っているのか聞き取れない。小空が「何て!?」と追いかけると、彼女は笑って逃げていく。


「秘密だもんね」


 少女の小さな声は、誰の耳に届くこともなく群衆の中に溶けて消えた。

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