二つ星の二重奏-9
草を踏む音が聞こえる。十時の方向。
溢美は廃屋の裏に身を顰める。コントローラーを持つ手にじっとりと汗が滲む。きっと、今廃屋の裏で銃を構えるこのキャラクターの手にも汗が滲んでいるのだろう。
溢美は匍匐前進を始めた。遠くにちらちらと動く影。あれがCrow。現実の世界でならば、彼は自分と相対する形で腰かけている。パソコンの画面を隔てた向こうで、余裕のない仏頂面を見せている。
大きな銃声。溢美はハッとした。廃屋の二階からだ。透真が撃ったのである。画面に表示された、Crowの体力ゲージがぐんと減った。ヘッドショットを狙ったようだが、外したらしい。透真の動きを読んでいたのだろう。
心理戦が始まる。誰がどう動くか。フラッグを触りに行くのも恐ろしい。此処は本当の戦場なのだから。死んだら最後、夢もプライドも捨てることになるのだ。
観客席には、母親が座っていた。実況が申し訳なさそうに機械トラブルのことについて話したので、会場がざわざわとした。母は不安げな表情を見せた。溢美は彼女に安心させるように笑みを向けるのだった。
自分たちはどんな状況にあろうが負けない。この機械トラブルは最高のステージを作り上げる素材となった。正々堂々戦えるフィールドに、強制的に転移させられたのだ。
さあ、どう来る。
大きな音がした。これは、支給品が届く音だ。
Crowはこの体力では、もう一度弾を食らえばゲームオーバーだ。旗にも到達できずに死ぬなど、彼のプライドが許せないだろう。それどころか、彼は優勝しかいらないのだ。誰かの踏み台になるなど絶対に許せないことに決まっている。
当然、Crowが動き出した。支給品を回収しに行くのだ。それを見て透真が動く音がした。彼のキャラクターは廃屋の二階から降りてくると、溢美にジェスチャーを送って来た。フラッグを取りに行け、というジェスチャーである。溢美は頷いて、透真と向かう方向を違えて動き出した。
激しい銃撃戦の音が始まる。画面に表示された透真とCrowの体力ゲージがじわじわと減っていく。溢美はそれを横目に、フラッグに向かう。
今、このヘッドフォンの外はどうなっているのか。観客席から聞こえるのは、歓声だろうか。それとも、どよめきだろうか。
溢美には、自分の世界の音しか聞こえない。キャラクターの息遣い、草を踏む音、透真とCrowの銃撃戦の音____。
突然、表示されていた体力ゲージのひとつがパッと消えた。それは、透真の体力ゲージだった。全身から変な汗が噴き出た。
透真がCrowに倒されたのだ。
思わずゲームの画面から顔を上げて、隣のディスプレイを覗き込んだ。透真の画面には「LOST」の文字が浮かんでいる。
溢美は自分の画面を見る。気づけばCrowの体力ゲージが全て回復していた。誰かの足音が近づいてきた。まずい。
溢美は画面の右上に表示されたデジタル数字を見る。残り三十秒。フラッグに到達するにも同じくらいの時間がかかる。戦うしかない。しかし、透真でさえ敗れた相手である。自分が倒すことなど可能なのか。
そうこうしているうちに、Crowはそこまで迫っていた。叢に体を潜めるが、場所は最初からバレていた。すかさず場所の移動を試みるが____。
爆風に、溢美は吹き飛ばされた。手榴弾だ。行く手を読まれていた。そっちがその気ならば、と溢美は銃を構える。Crowは岩陰に隠れた。後を追ったが、既にそこに彼は居ない。ハッと上を見上げると、銃口を自分に構えたCrowと目が合った。こうなったら。
溢美もまた銃口を上に向けた。太陽の光が眩しい。Crowは逆光でよく見えない。テレビのコマーシャルのワンシーンにありそうな美しい一コマだと溢美は思った。どんな性格でも、プロはプロだ。きちんと観客に魅せ方を分かっている。今、会場で響いているのは歓声に違いない。
照準を合わせる。
空中に居る敵ってのは、隙だらけだ。
透真の言葉が頭に浮かぶ。
重力に身を任せることしかできない。高いところから狙うのはかっこよく見えるだろうが____空をバックにして死体ができあがるだけだからな。
スティックを押し込む。照準が、Crowの顔にぴたりと合った。すかさずボタンを押す。あちらの銃口にも火花が散った。
二つの体力ゲージが、ぐんと減った。ひとつは「0」に。ひとつは「1」、残った。
*****
「すごく楽しかったです。すべての戦闘において、何かしら学ぶものがありました」
マイクに向かってしゃべる、一人の少女が居る。
「このゲーム、本当に奥が深いんです。私は、この世界でプロを目指します」
会場から歓声と拍手があがる。少女は照れ臭そうに笑う。手の中の小さなトロフィーが、夕焼け色に染められている。
「皆さんと戦えて本当に良かった。ひとつひとつの経験を武器にして、この決勝に立たせてくれた方たちに感謝して、これからも自分の道を信じて突き進みます」
マイクが少年に渡った。少年は受け取ろうとしなかったが、「佐倉井」とぐっと押し付けられ、渋々受け取った。会場の視線は全て彼に集まった。ため息の音をマイクが拾う。そして、
「……訳ありテディベア」
少年が片手に持っていたテディベアを掲げる。
「五百円から」
*****
「ありがとう」
日の落ちた会場で、溢美は透真に言った。透真は焼き芋が包まれたアルミホイルを外しながら「なにが」と問う。
「全部だよ。一緒に大会出てくれたこともそうだし、優勝まで連れて行ってくれたことも、全部」
「最後はお前の実力だろ」
ぱっかりと真ん中で綺麗に割れた焼き芋が、目の前に差し出される。受け取って口に運んだ。ずっと緊張していて腹が空いていた。こっくりとした甘さが口いっぱいに広がる。
「俺が手伝いできるのは此処までだからな」
透真も口に運ぶ。片手にスマホを出すが、既に充電は無いようだ。
「大学行くんだろ」
「うん」
優勝したことで、近づいた次の目標。大学に行って、専門的に学ぶのだ。堂々と腕を磨ける。
「勉強の面倒は見ないからな」
「私学年一位だもん」
「……」
じとっとした目を向けられて、溢美は笑った。
「佐倉井って、クラスで全然関わりなかったけど、面白いんだね」
「何を見てそう思うんだよ」
「全部」
はあ、と透真は眉を顰める。
次の瞬間、大砲のような大きな音が、秋祭りの会場全体に響いた。それと同時に、皆の顔が淡い色に照らされる。光の正体は、空に咲く大きな花火だった。
「今年は大赤字だな、この祭り」
透真がぼそりと呟く。
「そうかもね」
溢美は頷いた。
花火は次々と上がった。人々は足を止めて秋の空に咲く花々を見つめる。
きっと祭りの運営は、頭を抱えている頃だ。しかし、この祭りは一人の少女の人生の分岐点となったのである。
ぱん、と弾ける音がする。
それは試合終了の合図でもあり、始まりの音でもあった。




