二つ星の二重奏-4
次の日、溢美が学校に行くとまだ誰も居なかった。彼女は最近、家に帰ってから例のゲームしかしていない。遊んでいるのではなく、プロのゲーマーとなるための真剣な勉強だと思っている。ただ、それだけに精を出していては学校の勉強に遅れと取ってしまう。まだ誰にも言っていないのだから、怪しまれるのは避けたいところだ。
そこで早くに寝て早くに起き、学校に来て朝に勉強をするというのが、最近の彼女のルーティーンだった。
校内に入って階段を上っていくと、案外自分が思っていたような静けさが広がっているわけではないと彼女は気づかされた。
「ピアノ?」
溢美はその耳にたしかにピアノの音を聞いたのだ。この音は一体何処から聞こえてくるというのか。階段を上る足が速くなる。
音楽の先生は早く学校に来て練習をするとか、熱心な生徒が学校に早く来てこっそり練習をしているとか、考えられるが____聞いたこともない綺麗な曲である。クラシックはよく知らないが、素人が弾いているようには思えない。
溢美は音に誘われるようにして足を動かした。やってきたのは音楽室だ。音楽室は防音になっているが、扉が全開になっていた。音はそこから漏れ出ているのである。
「あ」
溢美が部屋の中を覗くと、そこに居たのはよく知る背中だった。
「佐倉井」
同じクラスの少年、そして、今の溢美の目標に最も近い人物である。溢美の声に、透真は気づいていないようだった。激しい音の曲だからか、演奏に集中しているからか、音は途切れない。
彼のことはゲームが得意な男子生徒、としか認識していなかった溢美だが、それ以外にも特技があったのだと驚いていた。まさか、ピアノが弾けるとは。しかし、あの弾き方は始めて数年と言うものには見えない。体全体で表現し、滑らかな音を生み出している。玄人はだしの弾き方に見える。
溢美は声をかけるのをやめて、静かに彼の演奏を聞いていた。もしかして、こんな朝早くからピアノを弾くために学校に来ているのだろうか。今までもそうだったのだろうか。溢美がこうして朝早い登校をするようになったのは最近のことだ。
曲が終わりそうだ。最後の最後まで気を抜かない。最後の一音をしっかりと響かせる。鍵盤からゆっくりと指が浮いた。彼は楽譜も何もない譜面台をじっと見つめている。
ようやく声をかけようと、溢美が口を開きかけると、
「昨日の話、受けても良いぞ」
彼の方が先に口を開いた。しかも、予想外なことを言った。溢美はぽかん、とその場に突っ立って彼を見つめる。彼は振り返った。
「どうすんだ」
「でも、佐倉井____あんなに参加したがらなかったのに」
一体どういう風の吹き回しだろう。
溢美の言葉に、彼は完全に座る向きを変える。
「何でも屋に頼んだんだろ」
「うん。でも、まだ返事来てないの」
溢美はスマホを取り出して、黒い画面を見つめる。その時だった。画面がパッと明るくなった。メールが入った。溢美は首を傾げてそれを開く。
『腕利きのゲーマーを用意しました。気難しい奴ですが、上手く使えば最高の相棒になるでしょう。ご武運を。』
溢美はまさか、とスマホから顔を上げた。透真は目を細める。軽く睨んでいるようだ、溢美の手の中にあるそのスマホを。
「いいか、俺は一位しか認めない」
溢美は目を見開いた。
「もしそれ以外の順位取ったら____ぶっとばす」
*****
「おはよー」
青空隊の朝食の席に、小空がやって来る。そろそろ衣替えの時期だが、まだ半袖でも良いくらいの日が続く。
「おはよう、小空。トースト何枚?」
エプロンをつけて台所に立つ青咲が、食パンが入った袋を手にして彼女に問う。
「一枚で良いや」
「一枚ね、分かった」
朝食の席には、小空の他に雨斗と嵐平が居る。雨斗は涼しい顔でみそ汁をすすり、嵐平は皿に山盛りになったサラダを黙々と片付けていた。
「透真は?」
小空は一つ空いている席をちらりと見る。
「昨日からずっとゲームしてるんだよね。声をかけても返事しないし……本当に秋祭りに出場するの、雨斗?」
青咲が答え、その目は雨斗を見た。雨斗はみそ汁のお椀の縁から口を離して、
「まあ、あいつなりに答えも出したみたいだしな」
「一位以外は認めないっていうね」
雨斗に小空が続いて、苦笑を浮かべた。
透真がクラスの女子生徒の依頼を受けたことは、雨斗の口から聞いている。秋祭りのゲーム大会で一位を獲得するのが彼らの目標のようだ。プライドの高い透真ならば、ゲームにおいて一位以外は認めないはずである。
「どのくらいガチの大会なんだろうね」
小空の前にトーストが一枚乗った皿が運ばれてくる。ダイニングテーブルの上に乗っているジャムを選びながら、彼女は雨斗に聞いてみた。
「さあな。エントリーの名簿を見る限り、それなりの実力者が集まっているようにも見えたけどな」
「え、どういうことよ」
「そのままの意味だ。透真レベルの奴がエントリーしてる。腕試しにこういう大会は打って付けなのかもな」
雨斗は再びみそ汁をすすった。
*****
「後ろに居るから、すぐ構えろ。馬鹿、照準がブレブレじゃねえか。しっかり構えてから相手探せ」
透真はマイクに向かって何度も繰り返す。目の前のパソコンでは、透真のキャラクターの他に、もう一人キャラクターが居る。そのキャラクターを操作しているのは同じクラスの羽野 溢美だ。
透真はインカムで彼女に指示を出していたが、彼女の声は透真には聞こえない。彼女はチャット上で透真に応答するのだ。周りに隠れてゲームをしている彼女は、部屋で一人で喋るわけにはいかないのである。チャットならば必要最低限の時にしか言葉を発しないので、声を出すことなく、効率よくゲームが進められる。
「十字の方向に三人。そこじゃ丸見えだろ。あそこの木の陰に行け。あほ、そっちじゃねえ」
透真の声に苛立ちが目立つ。彼が追いかけるキャラクターは、まだ操作が不慣れである。素人からすればそうでもないのだが、世界レベルの透真からすればひよこのようなものだ。自分の指示通りになかなか動かない溢美に腹が立っているらしい。
「あのな、お前もう少し周りを見ろよ。敵を見つけたら、何処のポイントが相応しいかとか、何処からなら狙撃できるとか考えろよ。プロ目指すなら初歩だろ」
チャットはさっきから動かない。部屋に入った時に「お願いします」と打って来たきり、何も返ってこない。文字を打っている暇があれば頭を使って動け、という透真の指示が序盤に出ていた。
部屋にノックが響いた。透真はインカムのミュートのボタンをオンにした。振り返ると、嵐平が立っている。
「なんだよ」
「学校、そろそろ行かないと遅刻するって、青咲が」
「ああ、もうそんな時間か」
透真は壁の時計に目をやる。いつもならばとっくに家を出ている時間である。
嵐平が居なくなった後で、透真はインカムのミュートを解除した。画面で透真の指示を待って固まっている溢美に声をかける。
「お前、家出ないと間に合わねえぞ。俺もそろそろ出るから」
溢美のキャラクターは止まったままだ。チャットを打っているらしい。
『わかった。ありがとう。また学校で』
チャットにそう浮かび上がった。
*****
透真が学校に行くと、既に溢美は登校していた。女子の渦の中で、明るい笑顔を見せている。一瞬だけ目が合ったが、透真はすぐに目を逸らした。学校ではゲーマーであることは隠すようだ。
「透真、はよー。何か今日遅かったな。寝坊でもしたのか?」
「お前じゃあるまいし」
透真が席に向かうと、男子生徒が数人声をかけてきた。透真はそれに適当に返しながら席に着く。
「最近妙に眠そうだしよ。ちゃん寝てるんだろうな?」
「うるせえな。関係ないだろ」
透真は言って、スマホを取り出した。パソコンでプレイしているものとはまた違うゲームだ。ログインボーナスは逃すわけにはいかない。
ゲームのホーム画面には、これまたランキングが表示されていた。此方のゲームでは、彼は世界ランキング三位である。一位と二位とは僅差だ。四位とはまだ距離を保っているが、いよいよ抜かれそうな兆しが見えてきた。
「あ、今日も絶好調じゃないですか、佐倉井さん」
男子生徒が透真の画面をのぞき込んできてニヤニヤと笑う。「うるせ」と透真は返して、ゲームを始めた。
間もなくしてチャイムが鳴ると、皆が席に戻っていく。透真は顔も上げずにゲームをしていたが、ふと人の気配を感じて目線を其方に向けた。溢美が机の隣に立っている。
「今日、部活早く終わるから。終わったらすぐ家に帰って、続きする」
透真は「おう」と短く言って、ゲームに集中する。終わってホームに戻ると、ランキングが二位に上がっていた。
彼はそこで、ようやくスマホをしまった。担任がHRを締めるところだった。




