桜手招く入学式 前編
「あーーー」
洗面台の前にひとりの少女が立っている。
まだ袖の大きいブカブカの制服、履き慣れない紺色のスカート、そして彼女は今、ネクタイというものに大苦戦していた。
横に置かれたスマホには、ネクタイの結び方がイラストで説明された画面が写っている。
「おいおい、これ毎朝やんのかよ。遅刻魔になっちゃうじゃん」
何とかそれらしい形に持っていけたので、少女はスマホを持ってその場を後にした。
が、一瞬だけ鏡を振り返り、後ろでちょこんと結んだ髪を触る。
見慣れない制服を着た自分にくすぐったい気持ちになって、少女は今度こそその場を後にした。
廊下に出ると朝食を作っている者がいるのか、香ばしいトーストの香りや、味噌汁の香りがした。少女は匂いが漂ってくる方向に歩いていく。辿り着いたのはキッチンだった。
コンロ前にて青いチェックのエプロンを着けた背中が振り返らずに、
「おはよう小空。トースターにトースト二枚あるから取ってって」
そう言った。
少女_____小空は「はいはい」と言いながら、食器棚から白いプレートを取り出した。トースターを開けるとこんがりと焼き目のついたトーストが二枚、綺麗に並んで収まっていた。彼女はそれを熱いトレーに触れぬように慎重に取り出す。
「って、ちょっと小空。ネクタイの形、変じゃない?」
トーストを取り出し終えたので食卓に向かっていた小空だったが、行く手を塞がれてしまった。
青いエプロンの青年_____ 青咲が小空のネクタイの結び目に視線を落としている。
「いや、これでも頑張った方だけど」
「ダメダメ、初日なんだからピッとしなきゃ。直してあげるよ」
プレートを置いて、と言われたので小空は仕方なく近くの棚にプレートを置いた。青咲が小空のネクタイをしゅるしゅると解いて結び直す。
「オカンー、ちょっとウチにはムズいわー」
「慣れたらそんなに大変じゃないよ。だから休みのうちに練習しておいて、って言ったのに」
「受験終わったらすっかり怠けちゃってさー。ネクタイ結んでくれる機械とか誰か発明せんかな」
「はい、終わり。汚さないで食べるんだよ」
結び終えたらしく、ぽん、と軽く肩を叩かれて小空はトースターの扉に映った自分の姿を見る。
ネクタイはさっきよりも結び目が綺麗になっていた。思わず「おおー」と声を出す。
「すげーや、毎朝やってよ」
「そんな時間ないよ。ほら、遅刻しちゃうぞー」
あっさり断られてしまったので、小空はプレートを手にして食卓についた。
長方形の木のテーブルには、真ん中にジャムや胡椒、ケチャップが乗ったトレーが置いてある。小空は早速ジャムを手に取った。
ジャムの種類は四つ。イチゴ、オレンジ、ピーナッツバター、餡子。王道のイチゴが一番減りが早い。
当然小空はイチゴを手に取った。スプーンで掬って裏側でトーストに塗り、一口齧る。甘ったるいイチゴの風味が口いっぱいに広がった。
「何時まで行くんだっけ?」
青咲が後ろで洗い物をしながら問う。
「8時20分だってさ」
何度か読み返した、学校から配布された手紙を頭の中で思い出しながら小空が答える。
彼女が時計を見上げると丁度七時になった頃だった。学校までは徒歩と電車で約30分。余裕を持つならば、あと30分後には家を出たいところだ。
黙々とトーストを頬張っていると、キッチンに誰かが入ってきた。
黒髪に緑色のメッシュを入れ、眠そうな顔をした少年だった。彼もまた制服に身を包んでおり、ブレザーの襟に付けた校章は小空と同じものだ。
「おはよー、嵐ちゃん」
「......」
小空が声をかけても彼はぼんやりしているだけだ。空いている席に腰をかけて、ぼー、と小空が食べているトーストを見つめている。
「嵐平、ご飯とトーストどっちがいい?」
青咲が振り返って問う。嵐平と呼ばれた少年は、小空のトーストから目を離さない。
「トーストだってー」
小空が言った。
「はーい、じゃあ焼くから待っててね」
青咲が冷蔵庫から新しく食パンを取り出した。
「嵐ちゃん、今日から高校だよ。どうですか、緊張してますか」
小空がトーストを持っていない方の手をグーにして、マイクのように嵐平の口元に持っていく。
「......」
「あー、だよね。緊張するよね。美人な先生とか友達とか先輩とか居るだろうし? もう目がいくつあっても足りないだろうし?」
「......」
全く彼女の言葉に反応する気配がない。起きて時間が経過していないのもあるが、彼の場合空腹状態だと中身が空っぽのようになってしまうのである。
「入学当日に彼女ができることってあるんかなー。ナンパしたらダメって校則流石にないよな?」
小空一枚目のトーストを食べ終えた。二枚目に塗るジャムをどれにしようかと選んでいると、青咲が嵐平の前にプレートを置いた。プレートの上にはトーストが五枚。更にサラダとヨーグルトが付いている。
「はい、召し上がれ」
「......いただきます」
そこで嵐平がようやく口を開いた。
彼の目は並べられた朝食を目にしてパッと輝いている。さっきまで眠そうな顔をしていたが、今では眠気も吹き飛んだようでトーストにかぶりついている。
小空が二枚目のトーストを半分まで食べ終えたところで、キッチンにもう一人入ってきた。
それは黒髪の少年だった。黒縁のメガネをかけており、小空、嵐平とはまた違う学校の制服を着ている。
青咲が振り返った。
「おはよう、雨斗」
雨斗と呼ばれた少年は「ああ」とだけ答えると小空の隣に座った。
青咲は彼の食事はすぐ出せるようにしていたのか、嵐平よりも早く彼には朝食が運ばれた。
木のトレーの上に白米、味噌汁、山菜のおひたし、焼き魚が並んでいる。小空と嵐平とは違って和食だ。
彼は「いただきます」と丁寧に手を合わせて、魚の身を箸で解している。
「あまっちゃんのとこは何時からー?」
小空が隣の彼に問う。彼は顔も上げずに、「八時半」と短く答えた。
「え、まじ? 俺らより10分遅いのかよー」
小空が口を尖らせて言う。
どうやら雨斗も今日は入学式を控えているようだ。
「皆入学早々遅刻しないようにね」
青咲が洗い終えた食器を拭いて棚に戻している。
「大丈夫、大丈夫。そういや、透真は?」
小空は一つ空いている椅子をちらりと見た。嵐平の隣にはもう一人座れるはずだが、誰もいない。
「ああ、透真ならまだ寝てるんじゃないかな。昨日夜遅くまで友達とゲームしてたみたいだよ」
「またか」
青咲の答えに雨斗は呆れ顔でため息をついた。
「いや、あまっちゃんだって夜遅くまでパソコンいじりしてるでしょうが」
小空がすかさず言うと、雨斗は魚の骨を皿の隅に寄せながら、
「俺は仕事のまとめ方をしてるんだ」
と返した。
「えー。ほんとかね? エロサイトとか見るんじゃないよ」
「それはお前だろ。架空請求されて顔真っ青にしてたくせに」
「え。待ってなんで知ってんだお前」
小空がぽかんと口を開けていると、パシン、と手を合わせる音が聞こえた。見ると嵐平の皿が空っぽになっている。
「ごちそうさまでした」
あれだけあったトーストや、おまけについていたサラダやヨーグルトも綺麗に無くなっていた。
「うっわ、嵐ちゃん食うの早すぎ」
小空も負けじと残りのトーストを口に放り込む。
空になったプレートを青咲に託し、歯磨きをするために再び洗面台へと向かった。
*****
時計の針は七時半を指している。
小空は嵐平と共に玄関先に立った。青咲がエプロン姿のまま追いかけてくる。
「入学式だし写真でも撮ろっか?」
青咲の手にはスマホが握られていた。
「えー、いいよ面倒くさい」
小空がそれを見て顔をしかめる。
「でもせっかくだしさ。入学式なんてイベント最後かもしれないんだから。一枚でも、ね」
「えー、じゃあ撮ってもらっちゃおうかな?」
小空が悪い顔をして、隣に居た嵐平の腰を引き寄せる。二人の身長差は頭二つ分なので、肩を組むのは難しいと判断したらしい。
「きゃー、嵐ちゃんと俺、今カップルみたいじゃない? ほら、嵐ちゃん、笑顔笑顔ー」
青咲がカメラを構えるので小空は嵐平に言う。彼の表情は無である。何を考えているのか、ぼんやりカメラを眺めているだけだ。
「はい、チーズ」
「いえーい」
カシャ、と音がして青咲が写真を確かめる。
「うん、いいね。じゃ、行ってらっしゃい二人とも。入学式頑張ってね」
「一日目から女の子落とすわ」
「それはやめておこうねー」
小空は嵐平の腰を掴んだまま庭から出た。
青咲はその様子を微笑ましく見守る。二人の背中が見えなくなると、すっかり暖かくなった朝の空気を肺に溜め込み、彼は家の中へと戻って行った。