立ち向かえ神立!-1
「夏休みだー!」
その日のホームルームが終わった途端、一人の少女が鞄を背負うや否や教室を飛び出していった。突然のことに周りはぽかんとしている。
「え? あいつ何であんなにはしゃいでんの?」
クラスメイトの一人、館山 隼人は隣にいた女子生徒に問う。
「夏空を満喫したいんだとさ」
山吹 円香が答える。
「夏空?」
隼人は眉を顰めた。夏空を楽しむとなると、思いつくのは写真を撮ることくらいだ。
「小空に写真撮る趣味なんかあるのか?」
隼人は訝しげな顔を円香に向ける。円香も「違和感はあるかも」と首を傾げる。夏休み明けに聞くか、と二人で頷きあった。
*****
教室から飛び出た小空は、三組に向かった。その教室を覗き込むと、何人かの目が此方を向いた。よく顔を出すからか、大半に顔を覚えられたらしい。一番振り向いてほしい少女が小空には居るのだが、その少女は頑なにこちらを向こうとしない。
ならば、と小空は少女の真横の席のガラス窓をがらっと開けた。
「す~みれちゃ~ん。嵐ちゃん呼んで~」
小空の声が恋人に向くような甘い声になる。
茶色の髪にサファイアのような瞳を持つ、日本人離れした顔つきの女性生徒だ。彼女は反応しないようにしているのか、黙々と鞄に教科書を詰めている。
「すみれちゃーん」
教室に入ろうか、と小空が思っているところで後ろから声がかかった。
「ここ」
彼女の後ろに立っていたのは、高身長の男子だ。黒髪に緑のメッシュを入れ、眠たそうな顔で小空を見下ろしている。
「あれ、いつの間に?」
「トイレ行ってた」
彼は嵐平だ。小空と同じ家に住む、同い年。いつもなら部活がある曜日だが、今日は夏休み前なので部活は休みらしい。
彼は鞄を取りに教室に入っていく。その間、小空は帰り支度を終えた菫という少女に甘い声を投げていた。
「ねえねえ、菫ちゃん。お母さん元気? また買い物代行してほしかったら呼んでよー。菫ちゃんは欲しいものないの? 今なら私がおまけでついてくるんだけど」
「いらない」
「がーん」
菫は鞄を背負い、教室から出て行く。
「夏休み、海とか行かない?」
「行かない。夏凪さん、暑苦しいから」
「えー」
またね、と彼女は人が溢れる廊下を歩いて行った。そんな後ろ姿にうっとりしていると、再び後ろから声を掛けられる。
「帰ろ」
嵐平が鞄を背負って立っていた。
「あ、嵐ちゃん。今日さ、飛びにいかん?」
「雨斗に許可は?」
嵐平は首を傾げて、頭二個分低い位置にある彼女の顔を見下ろす。そんな彼女の顔には、真夏の太陽に負けないキラキラとした笑みが浮かび上がっている。それを見て嵐平も思い出す。さっきの放課を告げるチャイムから、夏休みが始まった。
「夏休みなんだから、許可なんかいらないんだよ!」
青空隊のルールに、こんなものがある。
自由に空を飛んでいいのは、任務の時か、夏休みなどの長い休暇に限る。
そう、今は夏休み。副隊長の許可なく、夏雲が支配するあの空へと体を投げ込んで良いのである。
「ね、行こう!」
小空の誘いに、嵐平は乗り気のようだ。感情のない彼の顔に、キラキラとエフェクトがかかっている。
「行く。駄菓子」
「うん、深間商店寄ってこ!」
どうやら嵐平は、小空とは別の意図で顔を輝かせていたらしい。だが小空はそれを気にすることなく、人が溢れる廊下を歩き始める。嵐平もその後についていった。
*****
高校から歩いて20分。近くには住宅街があり、森に面した静かな地域に二人はやって来た。切り立った崖が見えてくると、目当ての店はすぐそこだ。
「お、入道雲!」
小空が空を指さした。薄い青色の空に浮かぶ巨大な雲の塊だ。嵐平も「大きい」と頷く。
Y字路が近づいてくる。右側の道から、風鈴の音が聞こえてきた。そして、「氷」と書かれた旗がぶら下がている駄菓子屋が見える。深間商店だ。80になる女性の店主が一人で店を切り盛りしており、昔から地元で愛されている駄菓子屋だった。小空も嵐平も、ここの常連だ。
「いらっしゃい」
店に入ると、出迎えてくれるのは一人の女性だ。ニコニコと親しみやすい笑顔を顔に浮かべ、店に入った二人にそう言った。
彼女は深間 京子。地元民からは「京子おばちゃん」と呼ばれている、深間商店の店主だ。
「あ~、あっち~。おばちゃん、ラムネ冷えてる?」
「うん、あるよ。嵐平ちゃんも飲む?」
「飲む」
店には冷房はない。壁掛けの扇風機が生ぬるい風を運ぶだけだ。店の奥は京子の移住スペースになっており、掘りごたつのある居間が店の中から見えるようになっている。冬は大抵、彼女があそこから接客をするのだ。
京子はカウンターの裏から冷えたラムネを二本取り出す。その間、小空と嵐平は店の中をぐるりと見ていた。誰もが懐かしい駄菓子が豊富に取り揃えられた深間商店は、子供に限らず大人もよくやって来る。年中無休なので、お盆などの帰省時期には、地元を離れていた大人たちが顔を出すこともあるのだ。
京子は大抵、店に通っていた子供たちの顔を覚えており、大人になっても隔てなく話すことができる。そこが彼女が愛される理由でもあった。
「ラムネのお供って何だと思う?」
小空は横で顔を輝かせて、駄菓子に見入っている嵐平に聞く。
「何でも合う。合わなくても合う」
「なんじゃそりゃ」
小空は笑って、並んだ駄菓子の中から水色の飴玉を摘み上げた。
「ん~、何にしようかな。チョコはさすがに溶けるよな」
「チョコ最中」
「それは嵐ちゃんが食いたいだけでしょうが」
小空が彼を軽く小突く。
肩を並べて駄菓子を選ぶ二人の高校生を、京子は微笑ましげに眺めていた。
「よし、ポテトだな」
小空はポテトのスナック菓子を手に取った。嵐平は既に両手いっぱいに駄菓子を抱えている。
「おばちゃん、これにする!」
小空はレジの上に飴玉とスナック菓子、そして五百円玉を置いた。京子は「はいよ」と言ってお釣りを用意し始める。
「お仕事はどう?」
「この前は、芸能人の子が依頼くれたよ。今のところは買い物代行が多いかなー」
「そうなの、頑張ってるんだねえ」
お釣りと同時に、ラムネも渡された。
「今は何人で住んでるんだったかしら?」
「五人。嵐ちゃんと、俺と、雨斗と青咲と、あと透真」
小空はラムネとお菓子を持ち、後ろで待機している嵐平に場所を譲る。嵐平も同じく五百円を出した。
「あらあら、じゃあ他の三人の分も持っていきなさい。ほら」
嵐平の会計を手際よく済ませ、京子はラムネの瓶を新しく三本出して来た。
「え~、破産しない?」
「大丈夫、大丈夫。暑いんだから」
「じゃあ、遠慮なくもらっちゃおうっと。やったな、嵐ちゃん!」
「うん」
二人はお礼を言って店を出た。どこかで涼し気な風鈴の音がする。小空は熱されたアスファルトの上でラムネを開けた。嵐平も横で開ける。甘い飛沫がアスファルトの上に模様を描いた。
「ぷっはー! やっぱり美味いわ! 夏空の下だからなおさら!」
「うん、最高」
二人は塗装の禿げたベンチに腰掛け、買った駄菓子を堪能する。小空はスナック菓子を、嵐平は麩菓子、チョコ菓子などを一通り。
「夏休みかあ。嵐ちゃんは何かする予定あるの?」
小空は残り少なくなったスナック菓子の袋を傾け、袋の口から一気に口内に流し込んだ。
「ちょっと家帰るくらい。あとは、お祭りで食べ歩き」
「あー、そういや夏祭りだもんなー。俺は何にも決めてないや、予定。まあ任務は適度に入るだろうから暇つぶしには良いだろうけど」
小空はラムネの瓶を空にする。ビー玉が転がり、涼し気な音を響かせた。
「よっし! 嵐ちゃん、行くぞ!!」
「うん」
嵐平は口に麩菓子を詰め込み、ベンチを立った。
「おばちゃん、ご馳走様!」
「はーい。飛びに行くの?」
カウンターで新聞を読んでいた京子が顔を上げて、聞いてくる。
「うん、夏休みだから自由に飛んでいいって言われてんの!」
小空は瓶を店先の箱の中に入れながら答える。
「いいねえ。入道雲も出てるし、楽しいだろうね。飴玉は?」
「ある!」
小空は制服の胸ポケットを軽く叩く。小さなふくらみは、さっき買った水色の飴玉だ。
「じゃあ気を付けてね」
「はーい!」
「おばちゃん、ご馳走様」
二人は店を出て、Y字路に戻る。次に向かうのは左側。深間商店と背中合わせになるようにして、石でできた鳥居が立っている。「澄空神社」と書かれたその鳥居を二人は潜った。奥は急な階段と、夏のために伸び切った緑。鬱蒼とした階段は、太陽の光を遮ってくれるので涼しい。
二人はその階段を上った。気を抜けば後ろに落ちてしまいそうなほどの急勾配。さらに、石段は斜めっていたり、ひとつひとつの大きさがバラバラだったりと、かなり慎重にならなければ危険な場所だ。
しかし、二人の足は軽かった。むしろ小空は、慣れた様子でトントンと階段を上っていく。ラムネで冷やした体が汗ばみ始めた頃、階段の終わりが見えてきた。
「よい、しょ!」
目の前には、忘れ去られたような社が立っている。もともとは美しい朱色で塗られていたであろう社殿の屋根には、木の枝や落ち葉、埃などが被さり、木でできた柱や階段には蜘蛛の巣が張っていた。
背の高い木が境内を囲んでいるので、境内にはひんやりとした空気が漂っていた。蝉の声がどこかで聞こえた。鳥の甲高い鳴き声も近い。
「ここだけは別世界だよなあ」
小空はゆっくりと息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。新鮮な空気で肺が満たされる。
澄空神社は、切り立った崖の上にひっそりと建っている小さな神社だ。誰が掃除しているかも分からない、そもそも掃除されているのかすら怪しい、隠れスポットである。だが、小空を始めとする青空隊のメンバーにとっては、何よりも大事な場所であった。
小空は、木陰に背負っていた鞄と、持っていた三本のラムネの瓶を置く。そんな彼女の目が、ある場所に向いた。
「んお?」
彼女は社から逸れて、境内の右側のスペースへ足を踏み入れる。砂利が敷かれ、その間から雑草が生えて脛やふくらはぎにチクチクと刺さる。
社の横に、小さな祠があった。小空の腰の高さほどの、本当に小さなものだ。彼女はその前にそっと跪く。隣に嵐平も鞄を置いてやってきて、同じように跪いた。
「青咲かな」
その祠には、さっき小空が下の深間商店で購入した水色の飴玉が置いてあった。夏の暑さのためか、袋の中の飴は既に溶け始めている。小空はその飴の隣に、自分が購入した飴を置いた。二つの飴が並ぶ。
「今年も夏が来たよ」
小空はそう言った。それは独り言ではない。かといって、隣の嵐平に対して言ったものでもなかった。彼女の目は、優しく、目の前の祠を見つめている。
境内にパン、と手を合わせる音が響いた。小空は小さな祠に手を合わせ、目を閉じていた。嵐平もそれを真似て、手を合わせて目を閉じる。
数秒間の沈黙の後、
「よっしゃー!!!」
と、小空は立ち上がった。制服のスカートが激しく揺れる。
「嵐ちゃん、あの入道雲まで競争しようよ!」
彼女は、祠を通り過ぎた。祠の後ろには、落下防止用のフェンスが取り付けられている。夏の草がフェンスを覆い隠そうとしているが、一か所だけ、フェンスが取り払われている場所がある。一歩踏み出せばそこは茶色い崖の側面だ。しかし、小空は敢えてそこで足を止めた。夏空の下に広がる街は、暑さにうんざりしているように見える。
あそこに住む人々は知らない。夏空の素晴らしさを。頭上に浮かぶ入道雲の素晴らしさを。
「飛ばしすぎるとまた雨斗に怒られる」
「いいの、いいの! 夏ぐらい許してくれんだろ!」
小空と嵐平は、フェンスも何もない崖っぷちに並んで立った。
小空は、空に向かって片腕を突き上げた。
「青空隊隊長・夏凪 小空!! 行っきま~す!!」
二人はほぼ同時に地面を蹴った。腹の下から、夏の空気を含む風が二人の体を空へと運ぶ。少女の笑い声が、入道雲に向かって飛んで行った。
*****
日我 天助には、仲が良い二人の男子が居た。
一人は八馬 海靖。クラスの中心人物で、明るくどこか抜けているお調子者として皆に愛されている。転校生の天助にも優しく、二人はすぐに仲良くなった。
もう一人は、関下 央大。海靖とは保育園の頃から仲が良いようだ。スポーツ万能で、頭も良いためにクラスの中でも一目置かれている存在だ。
そんな二人に、天助は仲間に入れられていた。転校初日に海靖に話しかけられ、それに通じて央大とも仲を深められた。気づけば、クラスで中心のメンバーとなり、担任を含む周りからは「仲良し三人組」と呼ばれるほどになっていた。
授業中に何かしらの面白いアクシデントを引き起こし、先生の授業の手を止めさせるということもあり、問題児扱いもされていた。先生も呆れるほどの仲の良さなのであった。
天助は最高に嬉しかった。クラスでなかなか地位を確立できない転校生と言う存在に、手を差し伸べてくれる人間が居ることが。だから、彼らとはずっと一緒に居たいと思った。彼らに尽くすと決めた。
それがどんなに苦しくとも。
_____ガンッ!
強い衝撃を感じた。腹から胃液が上って来る感覚に、天助は耐えようとした。歯を食いしばって痛みに耐える。目頭が熱くなる。ぎゅっと瞳を閉じてそれも耐える。
泣いたらダメだ。それじゃ、いじめられているみたいだ。親友にいじめられるなんて人、居ない。それはもう親友でも何でもないのだ。
「なあ、言ったよな」
声が上から降って来る。これは、海靖だ。
「今週は千円も払ってもらってないんだけど?」
クラスで聞くことは決してない、冷たく怒気を孕んだ低い声。これがいつもクラスの中心でおちゃらけている彼から出ているのだから、クラスの人が聞いたら驚くに違いない。
「ねえ、天助。先週も同じことしてなかった? お小遣い前借してるんでしょ? 来月分、早くもらってこいよ」
前髪を掴まれ、天助は顔を上げさせられた。瞼を開くと、二つの人影が見える。一人は海靖。もう一人は、央大だ。どちらも天助の親友とされている二人だ。もちろん、天助もそう思っている。
天助は母が妊娠したため、中学から、母の地元であるこの町に戻ってきていた。幼稚園から小学校を卒業するまでは、天助は他の町で過ごしてきたので、この町に友達と呼べるような人は居なかった。だから、中学校でこんなにも自分を歓迎してくれる人が居ることが本当に嬉しかったのだ。
海靖と央大は、天助にある条件を付けた。親友と言う肩書を持つ代わりに、金を払え、というものだ。天助が中学校の入学式で二人と話をしたとき、真っ先に話に出たのは「小遣い」だった。
天助は中学校に入ってから母が小遣い制にしてくれたので、最低でも三千円が毎月渡されることになっていた。それを嬉々として話す天助に、二人は食いついた。二人は小遣い制ではないので、それを酷く羨ましがった。天助は少しの優越感を感じて、「困ったらいつでも言ってよ」とそう言ったのだ。それは、友達が居ないこの土地で、自分がこの二人と深く関わることで確立される自分の地位を守るための、一種の自己防衛とも言える発言だった。二人は「ありがと」と言ってくれた。それから、二人は天助を輪の中に入れてくれた。
「前借ってそんなに難しいのか?」
央大が天助の背中に片足を置いて、聞いてくる。天助は顔を固定されているので、上手く顔を動かせない。
「お母さん、そんなにお金いらないでしょ、って言って渡してくれないんだ」
天助はか細い声でそう言った。すると、背中に乗っていた足が一瞬浮いた。
次の瞬間、息が詰まるような衝撃が走る。央大が天助の背中に勢いよく足を落としたのだ。天助の口から激しく咳が出た。
「馬鹿だなーお前」
海靖が笑って、天助の顔を覗き込む。クラスでいつも見かける子供らしい笑顔だというのに、逆光で影が差している。
「そんなの、財布から取って来いよ。いちいち確認していちゃ、そりゃお母さんもそう言うわ。もっとさあ、頭使えよ、あーたーま」
海靖は空いている手で自分の頭をトントン、と指さす。天助は「うん……」と力ない声で返事をした。
「で、どうすんの海靖。俺、そろそろ帰りたいんだけど」
央大の声が聞こえる。海靖は「だな」と頷いた。
「な、天助。来週までに三千円用意しろよ。もしできなかったら、お仕置き一時間コースってことで。どう?」
「三千円……」
「ああ、できるなら五千円でも良いよ」
「五千……」
天助は頭の中で母親の財布の中身を確認する。どれくらい残っているのだろう。母は勝手に中身が変わっていたら気づくのだろうか。
「感謝してほしいよ、天助。俺らたったの千円で毎月お前の友達やってあげてんだよ?」
「違うだろ海靖。シンユーだろ」
「ああ、シンユーか」
二人が笑っている。天助はよく分からないが笑おうと思った。口角を上げた途端、顔に地面が付いた。海靖が手を離したのだ。真っ先に衝撃が来た鼻が、じんわりと鈍い痛みを顔全体に広げていく。二人に足音は遠退いて行った。
天助は背中の痛みに耐えながら、ゆっくりと体を仰向けにした。海靖の体に遮られて見えなかった空が、目の前いっぱいに広がった。
校庭の隅、体育倉庫の裏で起こっているこんなことを、クラスメイトも先生も誰も知らない。
「お金……ためなきゃ」
大きな入道雲が、空から彼をじっと見降ろしていた。




