卯の花腐すは母の愛-5
結川 奈美恵は朝起きて、ベッドサイドに置いてある自分のスマホを手だけで探した。しかし、スマホは見つからない。
顔を上げると、自分の枕元に落ちていた。昨日は夜遅くまでマネージャとメールで話をしていたのだった。
今回の件は、酷く反省するべき出来事であることを、奈美恵だけでなくマネージャも思っているようだった。
自分たちはツユに対して、自分たちと同じ仕事量ができると考えすぎている。
子供と大人では住む世界が違うこと、自分たちが無理やり子供を大人の世界に連れてきたら、子供はやがて爆発すること。
時間が経つにつれて冷静になってきた。
日々、自分が娘にふりかけてきたものは、まだ子供には重すぎるものだったのかもしれない。
奈美恵はため息をついて、ボサボサの髪を手ぐしで整える。白湯を飲もうと立ち上がり、部屋を出る。
玄関を見ると、娘の靴はまだ無かった。音もなく出ていったので、音もなく帰ってくるだろうかと思ったが、そんなことはなかった。
あの謎の少女の家に転がり込んでいるのだ。
それは、昨夜に自分の元に送られてきたメールで分かったことである。
*****
「......ツユ」
昨晩のこと、風呂から上がった奈美恵のスマホにメールが来ていた。今日で何百回と見たマネージャの名前では無い。それは、知らない人からだ。
『大切な娘さん、預かっています。ドラマ鑑賞をして、晩ご飯のすき焼きをつついています。明日の昼前には戻ってきます。』
写真付きのメールだった。写真には、奈美恵が主演していた医者の恋愛ドラマを見るツユの姿。そして、隣にはあの少女。少女はこちらに気づいているようで、カメラに向かってピースしている。
美味しそうなすき焼きだ。
そう言えば、いつから自分は料理をしなくなっただろう。
そう言えば、いつからツユの好きなものを買ってきてやらなくなったか。小さい頃は、食玩入りのお菓子を欲しがった。
まだ、テレビや動画の世界すら知らなかった彼女が、記憶によみがえってくる。
最近の彼女は自然に笑っていただろうか。
親子らしい会話はいつしただろう。
私は、母親を最も演じるべきだったのである。
*****
「ただいま」
玄関から声がして、奈美恵はハッとした。読んでいた台本が手から滑り落ちた。それには目もくれず、彼女は玄関に走った。
玄関には、見たことの無い服を着ている彼女がいた。高級ブランドでも何でもない、奈美恵が買うことすらないような服。
少女の目は、申し訳なさげだった。視線を床に落とし、確実に母親と目を合わせるのを恐れているような目線の高さだった。
「......おかえり」
奈美恵はそこで、口を開いた。娘の目が驚いたように此方を向く。まるでそんなこと言われたことがないかのように。小さい頃は毎日言っていたのだ。そう、彼女がまだ何も知らない頃は。
日常の挨拶ですら、最近は言わなくなっていたのか。
奈美恵の中に後悔の念が生まれていく。
それに押しつぶされそうになっていると、突然、目の前が赤色に染った。
「これ......お土産」
奈美恵は少女からそれを受け取った。それは、一輪の赤いカーネーションだった。
「......え?」
「今の時期は、オススメなんだって。友達が......言ってたの」
何処か言いづらそうに少女は口を開いた。
「......勝手に出ていって、ごめんなさい。でも、私ちょっとだけ自由が欲しかったの。カメラの前に立つのが大嫌いなわけじゃない。ただ......自分がしたくないことを、無理やりさせられるような空気感とか、そういうのが苦手」
少女の口は小さく開かれる。もっとハキハキ喋るように言っていた。今までは。
「私ね、ママのことはとっても尊敬してる。役者として、極限まで役になりきるから。昨日のドラマも見とれたもん。あの演技、ママじゃなきゃ無理」
スパイスのような、カーネーションの香りが手元から漂ってくる。
それが自分の背中を押してくれたように奈美恵は感じた。
「ごめんなさい、春花」
少女は息を飲んだ。
「私、ずっとあなたを縛っていたと思う。全く同じ道を歩ませようとして、敷かれたレールから一歩もはみ出すことを許さなかったよね。あのドラマ、役作り頑張ったから嬉しいよ。ありがとう」
奈美恵は、手の中のカーネーションに顔を寄せて目を閉じた。
「黄色じゃなくて良かった」
少女_____春花にはその意味がわからなかった。首を傾げていると、奈美恵は答えた。
「黄色はね、軽蔑を表すんだよ。次の役、植物オタクなんだって。花屋に務める植物オタク」
春花は笑った。彼女からイメージが湧かない。昨日の、緊迫した状況で治療をする母の姿が鮮明だからだろうか。しかし、きっとそのイメージはすぐ塗り替えられるのだ。この大女優に、演じられない役目は無い。
「たまには私の練習にも付き合ってくれる?」
「うん、もちろん」
春花が頷くと、母は嬉しそうに笑った。それは何に役にも染まっていない、自然な笑みだと春花は思ったのだった。
*****
土曜日の青空隊のリビングは、任務もなければ人がいない。
今日は、そこに二人の姿があった。
土日でも朝ごはんを決して抜かない嵐平は、食べ終えたらリビングでぼんやりとテレビを見るのが日課だ。透真は夜中からゲーム三昧で、たまたま起きていた。眠たそうにスマホゲームをしている彼の片手には、炭酸が抜けきったコーラがある。
「はいはい、ちょっとごめんね」
そこへ掃除をしにやってくるのは青咲だ。
「小空と雨斗は寝てるのかな」
「雨斗なら俺の部屋」
透真がスマホから目を離さずに言う。
この家で自室を持っているのは透真と小空のみだ。そこまで広い家では無いが、特に不満を持つ者は居ない。
雨斗は透真の部屋にあるパソコンを時々使って青空隊の仕事をする。そのような場合は透真も部屋から出て、こうしてリビングに降りてくるのだ。
「あ」
テレビをぼんやりと見ていた嵐平が声を上げたので、透真と青咲の視線が其方に向かった。
そこにはドラマの番宣らしく、ツユの姿があった。マイクを向けられて、司会者の質問に笑顔で答えている。
ついこの間、このリビングに彼女はやって来た。
「ツユちゃんの好きなタイプを聞かせてください」
司会者の女性が彼女に質問を投げる。ツユは「好きなタイプ」と間を置いた。
「うーん。どこかの隊の隊長さんとか、でしょうか。最初は子供っぽい人だなあ、って思いましたけれど、やるときにはやるって感じの子で。私は好きです」
「隊長?」
ブッ、と透真がコーラをテーブルに吹き出した。
「アニメの話でしょうか?」
「そんなところです」
「間違ってるだろ、色々」
「そっかあ......一体何を吹き込まれたんだか」
「豚に真珠」
三人が口々に言っていると、
「青咲〜、俺の朝飯は〜?」
大欠伸をしながらリビングに入ってくる隊長が居る。
「あれかよ、本当に」
「みたいだねえ」
「何だよ、みんなして」
幸か不幸か、ツユは既に画面から居なくなっていた。
「何でもないよ。トーストでいい?」
「いいよー」
任務に派遣する相手は選んだ方がいいぞ、と、透真は自室でパソコンをいじっているあろう雨斗に心の中で言うのだった。




