卯の花腐すは母の愛-4
「ふーっ!!!」
マイクを持って踊りながら歌うその少女に、合いの手を入れるもう一人の少女。この空間を他の人が覗いたら、カメラを向けるかもしれない。
このカラオケルームの中では今大人気の動画配信者・ツユが、一人の少女のためだけに小さなライブを行っているのだ。
「いいねえ、最高ー!! 次、次これ歌って!!」
小空は予約した曲の画面を彼女に見せる。
「あのね......」
「あ、待って! やっぱこっち!!」
「......ちょっと」
ツユはため息混じりに言うが、小空は聞いていないようだ。ファンの一人として、この状況に興奮しているのだ。スマホで動画を撮られていないだけ、まだ質の高いファンだろうか。
「ちょっと休憩させて」
ツユはマイクを置いて後ろにあるソファーにドサッと腰を下ろした。コーラに手を伸ばし、ストローを口に咥える。
「やっぱ上手いね、歌。本人が歌ってくれるツユちゃんの曲なんて最高じゃね?」
小空は興奮した様子で語っている。ツユはそれを冷めた目で見ていた。
さっきまでカメラの前に居る時とは変わらない、『結川 ツユ』を演じていたが、今はその仮面も完全に剥がしている。自分の部屋でしかできないことを、一人の少女の前でしているのだった。
「......ねえ」
「んー?」
小空が顔を挙げずにタブレットをいじっている。予約する曲を決めているらしい。このカラオケルームに入ってから、歌っているのはツユだけだ。
「私、これからどうしたらいい?」
小空がそこでようやく顔を上げた。
「帰れないでしょ、今日。だって、あんなに怒らせてるんだから......」
ツユは鞄に放り込まれているスマホをチラリと見やった。今日は帰らないのが賢明だ。今までにないほど母親を怒らせているのだ。当然、仕事の人間だって巻き込んでいる。そんな敵だらけの場所に戻るほどの勇気は無い。
「......泊まってく?」
「はあ?」
小空はニヤニヤと悪い笑みを浮かべている。彼女のあの表情は、どの役者にも出せない雰囲気がある。悪いことを考えている子供のような、ワクワクを掴みに行くような、そんな顔だ。
「大丈夫、いくら可愛くたって手は出さんよ」
「当たり前でしょ」
ツユが言うと、小空が「はははっ」と笑った。
*****
「......本当にいいの?」
「大丈夫じゃないかな。どうせお母様は戻ってくるなんて思ってないよ」
連れてこられたのは、住宅街にある一軒家だ。小空の家なのだろう。夕暮れの住宅街には、良い香りが立ち込めている。
「まあ、事務所の人が押しかけたら適当に返すよ。そういうエキスパートも居るし」
そう言って彼女は家の扉を開いた。「ただいまー」と言って中に入っていく。ツユも恐る恐るそれに続いた。
「おかえり、小空。任務は上手く行った?」
若い男の声がした。
「んー、どうかな。停戦中」
「停戦?」
奥から足音がして、青髪の青年が姿を表した。エプロンをつけた、若い男だ。彼はツユを見るなり目を丸くしている。
「......ツユちゃん?」
彼の口から、まるで幽霊でも見たかような声色で、自分の名前が出てきた。ツユは「初めまして」と小さく頭を下げる。
「は、初めまして。小空、どういうこと?」
「愛の逃避行」
「何言ってんの!?」
「なるほど」
「分かったんですか!?」
一体どういう会話だろう。
彼女たちの関係が分からない。小空を見ると、靴を脱いでいるところだった。
「まあ、上がってって。青咲、良いっしょ?」
「うん、いいよ。ツユちゃん、ゆっくりしていってね」
そう言って、彼は奥に引っ込んで行った。ツユはぽかんとその場に突っ立っていた。
「ほい、行こう」
小空に促されて、ツユはそっと靴を脱いだ。
*****
「ごめんね、簡単なものしかできなくて。お口に合うといいんだけど......」
リビングには五人の男女が集まっている。小空、ツユ、青咲。そして、黒髪に緑のメッシュを入れた少年。彼は嵐平というらしい。もう一人は艶のある黒髪のメガネをかけた少年だ。彼は雨斗というそうだ。
青咲がリビングに運んできたのは、すき焼きだった。解いた卵の小皿と椀に盛られた白米が目の前に置かれる。
「美味しそう......」
誰かの手作りは久々だ。最近はコンビニ食や買ったもので済ましていた。楽屋の弁当も飽きていた。こういう家庭的な食事は、母親が面倒くさがって作らない。
「いただきまーす」
小空が肉を摘んで自分の皿に持っていく。嵐平もすぐに箸を伸ばした。
「ん!! うまー!」
「ちょっと、お客さんが先!」
リビングが一気に賑やかになる。特に青咲と嵐平の攻防が激しい。
「こら、嵐平! お肉何枚持ってくの!」
「許容範囲」
「なわけないでしょ! ごめんね、ツユちゃん」
「いえ......」
ツユも肉を口に運ぶ。あまじょっぱい。白米を口に含み、烏龍茶でそれを喉に流した。
「ど?」
小空が顔を覗き込む。
「美味しい。すっごく」
「そりゃよかった」
「うん、よかった」
小空も青咲も嬉しそうだ。ツユは静かに箸を進める。雨斗という少年はさっきからスマホを触って箸が進んでいない。彼を見ていると、小空の腕が視界に入ってきた。ツユの前にあったテレビのリモコンを掴んだらしい。
「テレビつけるねー」
そう言って、リビングのテレビがパッとついた。ツユの咀嚼が止まる。
「あ、奈美恵さんだ」
小空の声が上ずる。ツユはテレビの画面を恐る恐る見た。鬼の形相はそこにはいない。何人ものファンを虜にしてきた名女優の顔があった。
「ドラマ、今度のやつも出るんだっけ」
青咲が野菜を取り分けながら聞く。
「そうそう。花屋の役って言ってたっけ。花に囲まれた美女とかメルヘンだなー」
小空は完全に箸を止めてテレビに釘付けだ。
このドラマの母は医者の役だ。何人もの患者に恋文を送られても、彼女の思いはただ一人、過去に死別した旦那に向かっている。甘酸っぱい恋愛ストーリーを描いたものらしい。
勉強のために、とツユは台本を渡されて読んでみたが、いまいち面白さが分からなかった。
「ツユちゃん、お肉もっと食べる?」
「......いただきます」
ツユは皿を差し出し、肉を分けてもらった。
カラオケルームで電話をしてからスマホを一度も開いていない。小空の電話で諦めてくれただろうか。外泊など母の許可無しにすることは初めてだ。今日は母の掟を破ってばかりだ。まるで、違う人間の人生を歩んでいるように感じる。
*****
「ツユちゃん、お風呂どうぞ」
夕食を食べ終えてリビングに居ると、青咲がそう言ってきた。
「あ、ありがとうございます」
すっかり泊まることになってしまったので、ツユは申し訳なくなる。だが、この家から出ていくとなったら、自分は本当に行く場所がない。
「俺も一緒に入る」
「小空は後で」
「ケチ......」
小空を抑えて、青咲が「これ、小空のだけど」と服を渡してくれた。
「入るかな」
「大丈夫です。ありがとうございます」
受け取って、ツユはリビングを出る。小空も後ろから着いてくるらしい。
「覗くの?」
「え! いいんですか」
「バカ」
風呂場の場所を案内するつもりだったらしいが、彼女がすることはだいたい裏がありそうでならない。
「奈美恵さん、大丈夫かな」
脱衣所について、ツユは小空を振り返る。
「さっきの感じは大丈夫。今頃顔パックして寝てるよ」
「何で分かるの」
「勘よ、勘」
小空が扉に手をかける。ごゆっくり、と言ってその向こうに消えていった。
「......」
ツユは服を脱ぎながら脱衣所の中に視線を巡らす。ふと、洗面台に置かれた詰め替え用のシャンプーに母の顔を見つけて自然と目を逸らした。そう言えば、シャンプーのCMの仕事もしていたのだ。母の自然な演技は、女優として尊敬している。
次の役は花屋。
花に囲まれた美女。
今度はどんな名演技でお茶の間を沸かすのか。
ツユはぼんやりと突っ立っている自分に気づいて、慌てて服を脱いだ。
*****
小空の部屋は思っていた以上にシンプルな部屋だった。窓が二つ、クローゼット、机、ベッド、ビーズクッション。しかし、
「いやあ、だってツユちゃん来るって言うなら不快にさせたくないし......」
恥ずかしげに言う彼女がクローゼットの中身を見せてくれた。なかなか際どい女性のポスターがどっさりと入っていた。
「......壁が寂しいなと思った」
「普段はカレンダーすらかけられないほど埋まってるからね」
何処か誇らしげだった。大事な女優コレクションらしい。本当に女子高生なのだろうか。
「青咲が布団を用意してくれたから、私は床で寝るよ」
「いいよ、そんな」
「大丈夫!! 床大好き!!」
嘘つけ、と呟いて、ツユはビーズクッションにそっと腰を下ろした。
「疲れちゃった」
「今日歩いたもんねー。感情も揺さぶられただろうし」
小空も横に腰を下ろし、足を投げ出して座った。
「......私、少し考えてみたんだけど」
ツユは目を伏せた。
「奈美恵さんが女優として活躍しているのを見ているのって、一番は私なのかも。私の自然な演技って、全部奈美恵さん譲りで、あの人を一番近くで見てたから築かれたもので」
ツユはポケットに入れていたスマホをそっと開いた。メールは入っていなかった。
「大嫌いだけど、たぶん、一番好きな女優さんかも」
スマホから顔を上げると、小空は微笑んでいた。
「女優としては100点満点ってこと?」
「うん、勝てる人いないよ。母親としては0点だけど」
「最高じゃん。ステータス全振り」
小空が笑って、「寝よう」と立ち上がった。
「明日、家に帰ってみてもいい?」
「もちろん。春花がそうしたいなら」
ありがとう、と言ってツユは顔が真っ赤になった。顔を上げると、やはりあのいたずらっぽい笑みがあった。
「何で急に呼ぶのっ!!」
「可愛いー。今の録画したかった」
「バカ!!」
*****
次の日、ツユは小空の家を出た。駅まで送る、という彼女に甘えて、駅まで歩いていく。帽子を深深と被り、通勤するサラリーマンの波に乗った。
「はい、これは切符代」
「え?」
改札口にて、小空から硬貨を何枚か渡された。ツユは戸惑って彼女を見る。
「切符? 私、電子マネーだけど」
「電車に乗るためのもんじゃなくて」
小空がツユにしっかりと硬貨を握らせる。
「お母さんとの仲直り片道切符。今の時期は......カーネーションがおすすめかなー」
「......」
ツユは硬貨を受け取った。じんわりと温かい。
「......ありがとう」
小空はニッと笑い、踵を返して人混みの中へ姿を眩ませた。ツユはそれを見届け、硬貨を握り直す。初めてのお使いをするような、不安と期待が入り交じった気持ちが彼女をホームへ急がせる。
頭に帰る途中までの地図を思い浮かべた。その中に花屋は無いかと、彼女は考えて電車に乗り込んだ。




