青きを踏め踏め幼子よ-5
羽実は目を覚ました。白いビニール袋が置かれている。男は部屋の何処にも見当たらなかった。
羽実は体を起こして、そのビニール袋をそっと手繰り寄せた。中身はいつもより多いお菓子、ジュース、そして_____
「わあ」
ビーズセットだった。色とりどりのビーズが入ったパレットだ。ブレスレットや指輪を作れるように紐も入っていた。
羽実の目がキラキラと輝き始める。彼女はお菓子やジュースよりも先に、そのビーズセットを袋から取り出した。
せっせとアクセサリー作りに励む。ピンク色の丸いビーズ、青いハートのビーズ、黄色い向日葵のビーズ。紐に通していくと、ビーズ同士がカチカチと小気味いい音を奏でた。
いよいよ完成というところで、ガチャ、と音がした。それはあの男だった。しかし、彼が入ってきたのは玄関ではなく、風呂場に通じる扉だった。よくあそこを出入りするのを羽実は見ていたが、一体何をしているのだろう。
男は羽実がビーズ遊びしているのをチラリと見て、そのまま玄関から出ていこうとした。
「お兄ちゃん」
羽実が声をかける。男が一瞬足を止めた。
「ビーズありがとう」
羽実はそう言ったが、男は何も答えることなく外へ出て行った。
*****
羽実が夢中で紐にビーズを通していると、コンコン、と後ろから音が聞こえた。羽実が其方を振り返ると、すりガラスの向こうに人影が見える。羽実はハッとしてガラスに走り寄った。足元にあったビニール袋を誤って踏んでしまい、中でお菓子が潰れる感触があった。
構わず羽実は窓辺に寄る。
「ママ!!」
それはずっと会いたいと願っていた人物だと羽実は思った。窓をコンコン叩くが、窓は開かない。どうしたら開くだろう、と視線をずらすと鍵が閉じていることを知った。目いっぱい背伸びをし、鍵に指を引っ掛ける。やがてカチャ、と鍵が下りた。
カラカラと扉が開き、その向こうに格子が現れる。
「ばあ〜。お姉さんでした〜」
その格子の向こう側に、知らない少女の姿があった。羽実は違和感に気づく。窓の向こう側は明らかに地面ではないのだ。隣接する建物から推測するに、その高さは二階以上あった。少女は宙に浮いているらしい。
ギョッとして下を覗こうとする羽実に少女はケラケラと笑った。
「魔法が使えるんだよ、お姉さん。凄いっしょ?」
「凄い......」
少女の足は地面に着いていない。かといって羽が生えているわけでもなければ、ワイヤーで上から吊るされているわけでもないのだ。本当に魔法なのだ、と羽実は思った。
「何してたの?」
よいしょ、と少女は窓枠に足を乗せた。格子を掴んで体を持ち上げている。
「ビーズ遊び。お兄ちゃんがくれた」
羽実はビーズを通し終えて色鮮やかになった紐を見せる。それを見た少女が「うわお」と目を丸くする。
「良いじゃん、可愛いね。その指輪は?」
少女の細い指が格子の隙間からそっと入り込んできて、羽実の指に光る食玩の指輪に触れた。
「これもお兄ちゃんがくれた」
「そっかそっか、お兄ちゃんとは仲がいいのかな」
「......うん」
殴られたこともあったが、ビーズやお菓子をくれるという点では、そう思うことにした。頷く羽実に少女は「そっかー」と微笑んでいる。
一体彼女は誰なのだろう。近所の家にも、彼女のような子は居なかった。幼稚園の先生だとしても若すぎる。明らかにまだ子どもなのだ。
「ママは?」
羽実は今一番会いたい人物の名を口にした。母親だと思って開けると、そこに居たのは少女だったのだ。下にいるのだろうか、と窓を覗くが身長の限界でそれは難しいようだ。
「お家で待ってるって。羽実ちゃんが戻ってくるの」
「......本当?」
羽実は母親との最後の会話を思い出す。「ママ、きらい」とそう言ったような気がする。そして、カプセルトイに向かったのだ。言うことを聞いていれば、母親が買い物の後に買ってくれたというのに。自分はそれを守らなかった。
悪いのは自分だ。
「私、ママのこときらいじゃない」
思い出して、羽実の目から涙が出てくる。
「ママにごめんなさいしたい」
少女は格子に入れていた指を羽実の目元に持ってくると、大粒の涙をそっと掬ってくれた。その表情は柔らかかった。
「ごめんなさい、しに行こうか。まずは此処から出ないとね」
少女の言葉に羽実は頷く。
「そうだなー......足についてるそれ、重そうだね」
少女が指さしたのは、羽実の足についている枷だ。本物のようで、本当に重い。外し方も分からない。
「うん。でも、お兄ちゃんは悪い人じゃない」
羽実の言葉に少女がぽかん、と口を開ける。
「指輪もビーズもくれたもん。お兄ちゃんは良い人だもん」
彼女の言葉に嘘はなかった。真剣に、少女を真正面から見て羽実は言った。指に光るリングも、今手に持っているビーズも、あの男が用意してくれたものだ。殴られようと、母から離されようと、それは関係の無いことだ。
優しさが翻ることはないと、小さな少女は信じていた。
「......そうだねえ。優しいお兄さんと遊べて良かった良かった。お姉さんも安心したよ」
少女は少しだけ間があった後だったが、何度も頷いた。
「でも、ママのところに帰らないと。お兄ちゃんもさ、ほら、お仕事あるじゃん? また遊べる日は来るだろうから、また此処に来たらいいじゃん」
「うん、次はお兄ちゃんにビーズのアクセサリーあげるの」
羽実は作りかけのそれを顔の高さまで上げて誇らしげに宣言した。少女が「くはっ」と笑った。
「お兄ちゃんの心臓も鷲掴みだなあ、そりゃ」
意味がわからなかったが羽実は頷いた。
「じゃあ、お姉さんが後で来るからさ。そのお兄ちゃんが居ない時に合図して欲しいんだよ」
「合図......?」
少女が「そうだよ」と頷く。
「この窓から、ビーズを......そうだなー、三つ落として欲しいんだよ。隙間があるでしょ?」
少女はそう言って、窓の桟の直角部分を指さす。埃が溜まり、完全に閉じないことは少女も気づいたらしい。確かに指は入らなくてもビーズならば入りそうだ。
羽実は「わかった」とビーズを用意する。
「お兄ちゃんが居ない時ね、そーっと落としてくれたら、お姉さんが外に出してあげる。そしたら、ママに謝りに行こ」
「うん」
少女が器用に格子の隙間に指を入れて窓を閉めていく。
「じゃ、また後で」
「うん、バイバイ」
カラカラと窓が閉じて、羽実は再びアクセサリー作りに戻った。
*****
『どうだった』
耳の中で雨斗の声を聞いた小空は、今のことを説明した。
『そうか。お前はそこで待機だな』
「了解。そんでもって、何だかなあ。あんなに重そうな鎖付けられちゃってさあ。ほんっと、犯人ぶん殴ってやりたいよ」
『犯人のことなんだが......お前に少し調べてもらいたいことがある。今から送るやつについてだ』
雨斗が何枚か写真を送ってきた。小空はスピーカーをオンにしてその写真を確認する。
「はあ、見川 亮司。こいつかあ、羽実ちゃん閉じ込めてんのは」
彼が送ってきた写真に付いていた名前を読み上げて彼女は言う。
『そうだ。犯罪経歴は無いし、怪しい点は無いんだが......できれば情報を炙り出してくれ』
「面倒なこと頼むねえ、あまっちゃん」
『これ以上被害を広げないためにも必要な詮索だ』
「男には興味無いからなあ」
『言うと思った』
呆れた彼の声が聞こえてきた。少しだけ黙り込んでいる。
やがて、
『......昨日、ヨーロッパから依頼があった』
「よし、引き受けた」
『......まだ何も言ってないけどな』
「ヨーロッパだろお? 美人なお姉さんの宝庫じゃんか!!!」
小空の顔がこれでもかと言うくらいに輝いている。
『じゃあ協力してくれるな』
「もちろんですよ雨斗さん!! 俺を誰だと思っていられるので?」
『頼んだぞ。そろそろ嵐平も合流するから、近くまで迎えに行ってくれ』
声が聞こえなくなり、小空はルンルン気分で歩き出した。




