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雪月花 Ⅲ<完>  作者: 仙田洋子
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Ⅲ 


 それから三年近くの歳月が流れた。四十二歳になった春子は相変わらず実家で両親と暮らし、会社勤めを続けていた。

 結局、春子は上司の勧めを断り切れず、管理職試験を受けて営業課長に昇進していた。 だが、残業代をもらえず給料が実質的に減ったにもかかわらず仕事の量と責任が増えたのは、決して愉快なことではなかった。体育会出身の営業部長の精神主義的な指示に従いつつ十数人の部下を束ねていくのも、ストレスの溜まることだった。

 親しくしていた女友達も、口でこそ「おめでとう」と言ったものの内心では面白くなかったようで、仕事に追われているうちに急速に疎遠になった。彼女達の大半はまだ管理職ではなく、いくら頑張っても管理職になれそうもない友達もいた。となれば、春子に複雑な感情を抱くのは無理もないことだった。 

 だが、仕事が大変になったのと同時に親しい友達が殆どいなくなってしまったのは、かなり精神的にこたえた。利害が一致しなくなったり何かで取り返しのつかない差がついたりしたときに人間関係がいかに壊れやすいものか、春子はつくづく思い知らされた。

 ついに四十の大台に乗ったとき、春子は実家の両親に寄生しているような暮らしに後ろめたさを感じ、賃貸マンションに移るか、終の棲家となるマンションを買うかして独立しようといったんは考えた。不動産屋に足を運んで、賃貸物件を紹介してもらったこともあった。 

 だが、勤務先に通いやすい都心にあって駅から近く、しかも安全面の行き届いた物件を借りるとなると、狭くて日当たりが悪い上に家賃の高い部屋しかなかった。しかも、高い家賃を払い続けてもその物件が自分のものになるわけではない。しかし、多額の頭金を払って終の棲家を購入する決心も、いざとなるとなかなかつかなかった。

 結局、「一生独身を通すことも考えて、家賃を払う代わりに、老後に備えて少しでも貯金しておいた方がいいんじゃないか」という父の一言で、春子は実家にとどまることにしたのだった。

結婚しろとしつこかった父も、一人残った娘を手放したくない思いがあったようで、「じゃあ、甘えてそうさせてもらうわ」という春子の返事に何となくほっとした様子だった。母も溜め息をつきながらも、どこか安心したようだった。

 というわけで春子は、お見合いに失敗した後も同じ生活を続けていた。いずれ両親を見送って一人になるとわかってはいたが、なるべくそのことは考えないようにしていた。まだ来ていない未来を恐れたって仕方がない。

 子供の頃や若い頃の三年間には、大きな変化が次々と来る。だが、中年期に入ると、職場での異動や転職や子供の成長以外には、特に目立った変化はなくなるものだ。もっと年がいけば、定年になるとか老いた両親の介護が始まるといった大きな節目が訪れるのだろうが、どちらもまだ春子には関係がなかった。

だから、将来に不安を感じながらも、このまま暫く人生の水平飛行期間が続いていくのだろうと春子は漠然と考えていた。まさか自分が、あれほど興味のなかった結社の主宰になろうとは思ってもみなかった。


 二年ほど前に春子は、「春」に所属し続けながらも、五十人ほどの弟子をかかえて「デネブ」という結社を立ち上げ、結社誌を毎月発行するようになっていた。所謂主宰の仲間入りをしたのだった。

数百人あるいは千人以上のメンバーをかかえた伝統ある大結社と比べれば、「デネブ」はささやかな存在だった。だが、若手女性主宰の率いる結社として俳壇の注目を浴び、好意的な評価を得ていた。

 きっかけはあの高雲寺吟行だった。もっと大勢の人に教える気はないのか、春子に教わりたいと思っている人がいるのではないのかと住職に聞かれ、そして何よりも生徒達が俳句にすがって人生の悲しさに耐えていると知ってから、春子の気持は変わっていった。 

お見合いに失敗したことも理由の一つだった。四十代前半に達した春子には、「つひに無能無芸にして只此一筋に繋る」の一言で自分を支え続けるしかなく、もう俳句しか残っていなかったのである。

 もちろん、思っただけで結社が立ち上がるはずはない。実際には、木村さんをはじめ五人の生徒達が「先生、結社という形でもっと本格的に教えていただけませんか」と言い出したのだった。

 春子がまんざらでもないのを見てとると、五人は早速友人知人の勧誘に動き出してくれた。特に山下さんはわざわざ被災地まで足を運び、「ちゃんと人の情けのわかる先生だから」と小学校の友達を中心に弟子を集めてきてくれた。

 春子が殆ど何もしないうちに弟子が集まり、春子が「持ち出し」をしなくてもよいようにと弟子からの寄付金も集まった。印刷所も決まり、五人全員がボランティアとして編集部員を務めてくれることになり、結社誌の詳細や表紙のデザインを決める会議も開かれた。人に恵まれた、大変幸運なスタートだった。

 デネブは白鳥座の最も明るい恒星であり、西暦一万年の前後数世紀には北極星、すなわち天の北極に一番近い特別な星になると予想されている。春子も会員も個性を発揮して大きくはばたき、将来は俳壇に特別な輝きを放ちたいという意気込みと願いをこめて、この星から結社名をとった。

 春子の強い意向で「デネブ」は同人制を取らず、全員を平等に会員とすることになった。たかだか五十人程度の俳誌でわざわざ同人制を敷く必要はない、というのが春子の考えだった。 

 弟子達の中には全くの初心者もかなりの経験者も混じっていたが、同人だ、会員だと身分制度を敷いたために威張り出す人間が出て来ては困る。弟子同士が自由闊達に物を言えなくなるような雰囲気や、弟子がむやみやたらと主宰に気を遣うような雰囲気を春子は嫌った。

 ただでさえ、人間には権力者に媚びへつらったり権力者を神格化したがったりする傾向があるのだから、それを助長するような制度は要らなかった。春子は、自由闊達で和やかな雰囲気の中で互いに切磋琢磨できる結社にしたかった。参加して良かったと会員に心から喜んでもらえる結社にしたかった。

 結社誌の表紙には、ルネ・マグリットの名作『大家族』に描かれた鳥さながら、大きな翼を広げて今にも飛び立とうとする白鳥の姿を選び、虹色のグラデーションをつけることにした。七色の虹は多様性のシンボルである。これも、会員一人一人が個性を伸ばし、多様な作品を発表して活躍して欲しいという春子の意向によるものだった。

 会員は毎月五句投句、その中から春子が選んだ句を誌面に掲載した。「デネブ」全体の中央句会の他に、実力レベルに分けた小句会も開き、春子が懇切丁寧に指導をした。更に、ベテランの会員が、特別に初心者向けの指導を行なった。

 評論やエッセイも指名して、会員に積極的に書いてもらっていた。石田先生がよく「俳人たるもの俳句を作れるのは当たり前。文章も書けなければ駄目です」と言っていたが、春子もそれに倣った。

 実務面で一番大変な編集長は、創刊号から木村さんが務めてくれた。冗談好きの木村さんはたまにおふざけが過ぎることもあったが、編集長として極めて有能で、すぐに「デネブ」に欠かせない人になった。

「春子先生は何よりも良い作品を作られることが第一、それに加えて選句や句会の指導に集中なさって下さい。後は月一度の編集会議に出ていろいろと企画を出していただき、相談に乗っていただければ十分ですから。残りの雑務はすべて我々がやります。是非我々に担がれて、お神輿の上で悠然としていて下さいよ」

 木村編集長も編集部も張り切っていた。春子も張り切っていた。

 春子は「デネブ」誌上に毎月五十句を発表した。五句や十句でお茶を濁す主宰も少なくない中で、毎回五十句というのは俳壇で注目を集めた。「デネブ」を贈った他の結社誌や総合誌でも、意欲的な試みとして高く評価された。

 新しく主宰になって張り切り過ぎているのではないか、毎月五十句も発表するなんて続かないのではないか、作品の質が落ちるのではないかなどと案じる声も結社内外にあったが、春子は気にかけなかった。作句に行き詰まりかけるたびに、「つひに無能無芸にして只此一筋に繋る」と口にしては奮起した。遠い昔に亡くなった芭蕉の言葉が、春子を救っていた。

 「デネブ」の活動がマンネリ化しないように、記念大会やコンクールにも力を入れた。夏休みには、希望者を募って奥の細道を辿った。そして、桜の季節が来るたびに、編集部の五人と一緒に高雲寺の住職を訪ねることも忘れなかった。

 創刊以来約二年、おおむね春子の願ったように「デネブ」は運営され、着実に号を重ねていた。会員も増えて総勢七十五名となった。住職も会員に加わってくれた。


 だが、また新しい虹色の鳥を飛び立たせようと準備をしていた三月初めに、その異変は起きた。

 編集会議は月に一度、オフィスに集まって行なわれる。その晩は四月号の最終確認をするために、春子も編集部員も全員揃っていた。しかし、十分……十五分……三十分を過ぎても、いつも必ず五分前には来ている木村さんが姿を見せなかった。

「おかしいわね」

 みんな顔を見合わせたが、誰も何の連絡も受けていなかった。十分ほど過ぎたところで原山さんがメールを送ったが返信がなく、十五分過ぎからは何度も携帯に電話してみたが、さっぱり応答がなかった。

編集会議の資料は木村さんがすべて持っていたので、彼が来ないことには話にならない。一時間ほど待ち続けた挙句、全員で簡単に句会をしておひらきにし、また後日集まることになった。

「私の方から連絡をつけておきますから。春子先生にお詫びするように必ず言っておきますね」

 やや腹立たしげに原山さんが言ったが、そのときはまだ、何か急用ができて連絡する暇もなかったのだろうとみんな思っていた。

 だが、二日経っても三日経っても、木村さんからの連絡はなかった。四日目の土曜日の朝も遅くなって、ようやく原山さんから春子に電話があった。

「春子先生、お休みのところをすみません。木村さんに随分メールを送ったんですが、ちっとも返事が来ないんです。携帯電話にも出ないし、お家の固定電話は、現在使われておりませんってアナウンスが流れるんですよ」

 困惑しきった声だった。

 春子も首をひねった。

「変ねえ。よりによって木村さんがそんなことをするなんて」

「そうなんですよ。まるでお化けがドロンと消えてしまったみたいで」

 創刊以来のきちんとした編集長ぶりからは、ドロンと消えてしまうなど到底信じられない。

 春子は嫌な予感がした。

 ちょうどテレビでは、一人暮らしの老女が自宅に押し入った強盗に殺されたというニュースが流れていた。

「まさか、事件に巻き込まれたわけじゃないわよね」

「いやだ、先生、やめて下さい」

 原山さんが悲鳴のような声を上げた。春子だって、心配せずにすめばそれに越したことはない。だが、近隣コミュニティが崩壊して何かと物騒な都会では、たとえマンションの一室で人が殺されていても、近所の人や管理人が気づいてくれるとは限らないのが現実だ。

 家族と同居していればまだ安心だが、木村さんは「六十代まで独身生活を通した以上は、若いお嬢さんと結婚したいなあ」とよく呟いては周りの失笑を買っていたくらいだから、家族はいないはずだ。

「だって、独身で一人暮らしだったら、万が一ということもあるじゃないの」

「木村さんは独身のはずですが、一人暮らしかどうかは……」

 意外にも、原山さんは奥歯に物が挟まったような言い方をした。

「えっ、それじゃご高齢のお父様かお母様と住んでいるの?それとも……まさか……女性の方と一緒に?」

 春子はどきりとした。木村さんとは同じ身の上だと思っていたのに。あのお見合いを思い出すと、未だに胸の底が疼く。

「私も詳しいことは知らないんですけれどね」

 大分前のことだが、原山さんと中村さんと木村さんとで、校正の帰りに居酒屋の暖簾を潜ったことがあった。

そのとき、木村さんが飲み過ぎて、べろんべろんに酔っ払ってしまった。「送るわよ」と女性陣が親切に申し出たのだが、木村さんは「いいから、いいから」とあっさりと断り、携帯電話で女性を呼び出して一緒に帰っていったのだそうだ。

「まだ二十代でしょうか、なかなかきれいな人でしたよ」

「まあ、木村さんったら隅に置けないわね」

 引退して悠々自適の生活を送っている独身おじさんだと思い込んでいたが、意外にやるものだ。しかも若くてきれいな女性だなんて。

 しかし、その若い女性もまた犯罪に巻き込まれていたとしたらどうする。武器を持った屈強な強盗の前には、女性が一人いようといまいと大して関係ないだろう。

「とにかく、何もかもおかしすぎるから、一度木村さんの家に行ってみるわ」

 春子は、選句しようと取り出していた投句葉書の束を抽斗に戻した。

「春子先生、私も行きます。私も気になりますので」

 原山さんが自分から言い出してくれて、春子はほっとした。「万が一」の事件がもしも現実になってしまったら、一人でどうしたらいいかわからなかったのである。

 一時間半後に二人は木村さんの最寄りの駅で落ち合い、グーグルマップを頼りに、何とか木村さんのマンションに辿り着いた。ごく普通の住宅地にある、何の変哲もない七階建ての古いマンションだった。

オートロックドアもなく管理人も管理人室におらず、二人は誰にも見咎められずにやすやすと入り込むことができた。防犯システムの行き届いた昨今の新しいマンションと比べたら、信じられないほど緩いセキュリティ体制である。

 やや饐えた臭いのするエレベーターに乗り、七階で下りると、二人揃って廊下を歩いて行った。廊下から見えるのはマンションばかりの味気ない風景だった。

 木村さんの部屋は一番端の七一二号室だった。ドアの前に立つなり、春子の心臓の鼓動が速くなった。原山さんも緊張した面持ちだった。

「押すわよ。いいわね」

 原山さんとうなずき合い、春子はチャイムを押した。応答はなかった。 

ためらいつつ、春子は二度、三度、少し間をおいて四度、五度とチャイムを押した。だが、誰も出て来なかった。

「管理人さんに事情を話して合鍵で開けてもらう?」

 不吉な予感に怯えて春子が言ったとき、七一一号室のドアが開いて七十代くらいの女性が出て来た。 

女性は不審そうに春子達を見た。

「何のご用?」

 怪しげな訪問販売とでも思ったようだった。春子の頬がかっと熱くなった。

「木村さんの知り合いで、連絡がとれないので訪ねて来たんですが」

 原山さんがそつなく答えたが、女性は素っ気なく七一二号室のドアの上を指差した。

「表札に名前がないでしょ。あの人なら一週間以上も前に引っ越していったよ」

 二人ともはっとして表札を見た。確かに鈍色のプレートがあるだけで、木村と書かれた紙は入っていなかった。

「引っ越し先をご存知ではありませんか」

 春子の質問に、女性は怪訝そうな顔をした。

「知りませんよ、そんなこと。近所づきあいもなかったし。本当に知り合いなら、あんた達の方が知っているんじゃないの?さあ、いつまでもそんな所に立っていても仕方ないよ。さっさとお帰り、お帰り。あたしゃ何も買わないし、怪しげな宗教の勧誘もお断りだよ」

 女性は一息にまくし立て、頭のてっぺんから爪先まで春子達をじろじろと見てから、ゆっくり立ち去っていった。

「なんか失礼よね、あの女。あたし達を不審者扱いして」

「人を見たら泥棒と思えっていう感じで嫌ですね。こんな時代だから仕方ないのかも知れませんけれど」

「まあ、ことわざになっているくらいだから、昔から人間の世の中なんて、こんなものなのかも知れないけどね」

 不審者扱いされた鬱憤を二人はぶつけ合ったが、肝心の木村さんの行方はわからないままだった。

事件に巻き込まれていないのは幸いだったが、どうして突然、誰にも何も言わずに姿を隠してしまったのか。例の編集会議の数日前の句会のときも、木村さんは普段と全く変わらない明るさで、司会進行役をてきぱきと務めていた。句会後の宴会でも、いつも通り痛飲して大いに盛り上がっていたのに。

「悩んでいる様子なんかなかったわよね」

「そんな風には見えませんでしたね」

 駅まで戻りながら二人は話し合った。

「それとも、無理して明るく振る舞っていたのかしら」

 一見快活に振る舞っていても本心はわからない。どんな人間にも心の闇がある。その闇を隠すことによって、他人同士でも和気藹々としているように見えるのだ。

 春子達に言わなかっただけで、木村さんも悩みを抱えていたのではないか。あまり考えたくはないが、春子や「デネブ」への不満がなかったとは言い切れない。

 木村さんは「デネブ」の運営になくてはならない人だったが、実作の面では今一つぱっとしなかった。

 高雲寺に行った五人のうち、原山さんは見事に才能を開花させ、大胆な発想と詩情溢れる句を毎号発表していた。春子の勧めで、俳壇のコンクールへも三十句、五十句とまとめて応募し、かなりの率で本選に残るようになっていた。

 中村さんは、失われゆくものや滅びゆくものをテーマにして、切なさの滲む佳品を詠んでいた。「もう年ですから今更他人様と競うなんて」と言いつつも、春子に勧められて原山さんと同様に俳壇のコンクールへ応募し、小さい賞をもらったこともあった。

 山下さんは粗削りできつい表現がなかなか直らなかったが、自然への畏れと原発への怒りを込めた被災の句を力強く詠み続け、「デネブ」の中で独自の地位を築いていた。この三人ほど目立たないとはいえ、広田さんも堅実で穏やかな日常詠で、「デネブ」誌上でいつも上位に選ばれていた。

 だが、木村さんは、作品では一向にぱっとしなかった。物の写生に徹したり、詩情を自在に羽ばたかせたり、泣き笑いの人生経験を深く切なく詠み込んだりする代わりに、いつも適当なところで妥協して句の完成度を下げてしまっていた。

 「デネブ」の編集長の句があまりにも下手ではまずいと思い、春子は熱心に指導した。だが、今までのところ目立った進歩は見られなかった。木村さんも焦っていたようで、「先生、私はいつになったらうまくなれるんですかねえ」とか「才能のない者は、いくら頑張ってもやはり駄目なんですかねえ」などとよくぼやいていた。

 その都度春子は、「とにかく一歩一歩基本に忠実にやるしかないから」とか「他人と比較せずに自分の句と向かい合って」とか「才能だけで辿り着ける句境なんてたかが知れているのよ。俳句は努力で決まるから。最後に物を言うのは執念なんだから」などと答え、励ましてきたつもりだった。だが、それだけでは十分ではなかったのかも知れない。

 まさかこのまま連絡がないということはないだろう、とにかく待とうと話をして、原山さんと別れた。木村さんが戻って来るまで、原山さんが臨時編集長を務めてくれることになった。だが、家に戻って選句を続けていても、春子は木村さんのことが気になって仕方がなかった。

 メールボックスに木村さんからの退会届が入っているのを見つけたのは、その翌日の日曜日の夕方だった。「春子先生、本当に申し訳ありません」で始まった葉書に、消印はなかった。 

 土曜日の夜の時点では、葉書は届いていなかった。そしてこの日曜日、春子はずっと家にこもって選句や選評の執筆をしていた。誰かがチャイムを押せば気づかないはずはなかった。木村さんはわざわざ春子のマンションまでやって来ていながら、チャイムを押さず、葉書をメールボックスに入れて帰って行ったことになる。

 こっちは心配してわざわざマンションまで訪ねたのに、目と鼻の先まで来ていながらチャイムを押そうともしなかった木村さんの素っ気なさに、春子はがっかりした。しかも葉書の文面は短く、通り一遍の挨拶を並べた事務的なものだった。

―春子先生、本当に申し訳ありません。勝手ながら、本日をもちまして「デネブ」を退会させていただきます。今までいろいろと大変お世話になりました。もうお会いする機会もないと思いますが、先生のますますのご活躍と「デネブ」の発展をお祈り申し上げます。

 葉書に目を通しながら、春子の失望は裏切られたという怒りに変わっていった。木村さんの行動にもこの文面にも、どうしても納得がいかなかった。

 苦楽を共にして信頼しきっていたのに、直接挨拶もせず、退会理由すら書いていない退会届をメールボックスに入れて勝手にいなくなるとは、一体どういうことなのか。失礼にも程がある。何があったのか知らないが、突然何もかも投げ出してしまうとは、編集長としてあまりにも無責任ではないか。そもそも、結社を立ち上げようと言って春子を担ぎ出した中心人物は、他ならない木村さんだったではないか。

 考えれば考えるほど頭に血がのぼった。結社の主宰をやる以上、これほど理不尽なことにも耐えなければいけないのか。石田先生も、腸が煮えくりかえるような思いをしたことがあったのだろうか。春子は何も手につかなくなった。

 怒りを鎮めきれないまま、原山さんに電話をした。一緒に木村さんのマンションまで行ってくれた彼女には、真っ先に知らせておかなければならなかった。

「先生、どうしました?」

 原山さんの声に春子は少しほっとした。木村さんの退会を話すと原山さんも仰天し、本気で怒り出した。

「何なんですか、それ。いくらなんでもひどい。いいかげんすぎますよ、許せません。私、怒り狂っています」

 原山さんの反応に、春子はようやく味方を得た思いがした。

「でも、おかしいですね」

 ひとしきり怒った原山さんが、ふと考え込むような口調になった。

「今までの木村さんからはちょっと考えられないですよ。プライベートで何かあったのではないでしょうか」

 例の若い女性から別れ話を切り出されてヤケクソになり放浪したくなったとか、逆にその女性から逃げ出したくなって雲隠れしたとか、あるいは借金取りに追われて夜逃げしたとか。

 原山さんは、週刊誌のゴシップのような可能性を次々と持ち出した。

「昔から放浪したがるのは男と決まっていますからね」

「そうね、芭蕉さんも男だものね」

 話しながら、二人とも木村さんのプライベートについて殆ど何も知らないことに気がついた。若い女性と付き合っているらしいことだって、たまたまわかったことだ。

 はっきりしているのは、いくら腹を立てても、木村さんはもう姿を消してしまったということだった。 引っ越してしまった以上探しようもなく、探し出したところで既に「デネブ」を退会ずみである。

「それにしても、困りましたね」

「デネブ」の運営上の実務は、原稿の依頼・受取・保管や外部との交渉も含め、すべて木村さんが取りしきっていた。あとの四人は木村さんに頼まれた仕事をその都度こなしていただけで、詳しいことは何も知らなかった。木村さんに頼りきっていたわけだが、これではいけない。

 四月号の原稿を無事印刷所に入れた翌日の夜、春子は編集部の四人をオフィスに集めた。みんな既に事情を承知していて、重苦しい雰囲気が漂っていた。山下さんは顔を真っ赤にして、「木村ってのは何て奴だ、あんな奴だとは思わなかった」と怒りを抑えかねるようにぶつぶつ呟いていた。

 木村さんの退会を四月号で会員に知らせること、今後は編集部全員で必ず情報を共有することを確認した上で、春子は思い切って、原山さんに新編集長をお願いできないかと切り出した。 

 原山さんがヨガのインストラクターとして忙しく、妻や母として家庭を守らなければならないことはもちろん知っていた。だが、原山さんは、この四人の中で一番行動力があって頼もしかった。編集長を務められる人は原山さんしかいなかった。

 広田さんは穏やかな人柄でみんなから慕われているが、おっとりとしていてやや行動力に欠ける。リーダーとして幾分頼りないところがあるのは否めない。

 中村さんはみんなを気遣える明るい人で、彼女がいると座が和む。だが、編集長としてみんなを引っ張ってゆくというよりは、むしろみんなのお母さんやお姉さんといった感じのムードメーカーだ。

 山下さんは行動力はあるが、やや頑固で、物言いや振舞いのきつくなるときがある。愚痴っぽいところもあり、全員で校正に励んでいたときに「もう駄目だ、締切りに間に合わないよ」と投げ出しかけて、みんなのやる気をそいでしまったこともあった。これでは編集長向きとは言えない。

「わかりました」

 大方察しがついていたのだろう。原山さんは突然の依頼に驚いた様子もなく微笑んだ。

「みなさんのご承認をいただけるならば、お引き受けしたいと思います。ただ、私は仕事がありますし、家族の面倒も見なければなりません。そんな状態でも編集長を務められるよう、皆さんのご協力をいただくことになると思いますが、かまいませんか」

 みんなはうなずいた。原山さんは言葉を続けた。

「今まで私達は木村さんに任せ過ぎていました。これからは、私が仕事で会議や校正に参加できないことがあっても、編集部として動けるようにしたいんです。正直言って、一人当たりの仕事の分担は増えるでしょう。みなさん、それでも大丈夫でしょうか」

 山下さんが「異議なし」と叫んで拍手をした。やや間を置いて、広田さんと中村さんも「結構ですよ、原山さんのやり方でやって下さい。我々はついていきますから」「仕事が増えたってへっちゃらよ、安心してちょうだい」と言いながら拍手をした。

「原山さん、みなさん、ありがとう……本当にありがとうございます」

 春子は深々と頭を下げた。心の中に熱いものがこみ上げてきた。

 多忙にもかかわらず編集長の務めを快諾してくれた原山さん。無給のボランティアなのに仕事量が増えるのを厭わず、嫌な顔一つせずに引き受けてくれた山下さん、広田さん、中村さん。春子を裏切る人間もいるが、喜んで助けてくれる人達もいる。

「どうぞよろしくお願いいたします。これからもずっと一緒に……」

 思わずハンカチで目尻を押さえた春子の周りに、四人が寄って来た。

「先生、泣かないで下さいよ。先生なのに泣くなんて、子供みたいでおかしいわ。原山さん、あたし達、まだまだ体力も気力もありますからね。どんどんこき使ってちょうだいね」

 中村さんがおどけてみせると、原山さんも笑顔で返した。

「大丈夫ですよ、もしも本当に人手が足りなくなったら、うちのどら息子を連れて来て『デネブ』で働かせますから」

 みんなが大声で笑った。春子も涙声のまま笑った。夜のオフィスに明るくほのぼのとした空気が生まれた。

 次の日から、原山新編集長のもとで「デネブ」編集部は動き出した。どうしても人手の足りないときにバイトを頼むことにしたが、とりあえずその必要もなく、広田さん、山下さん、中村さんが頑張ってくれていた。新体制の下で「デネブ」はうまくいくように見えた。少なくともあの信じられない事件が起きるまでは……。


 三月はいろいろなことが起こりすぎる。

 その夜も春子達はオフィスに集まっていた。原山さんは仕事で少し遅くなるということだったが、この夏に応募を開始する「デネブ」のコンクールの詳細について、残りの全員で話し合っていた。

「大変です、先生、大変!」

 原山さんが血相を変えて飛び込んできたのは、時計の針が八時をまわった頃だった。

「先生、これを見て下さい!」

 挨拶もそこそこに原山さんが差し出したのは、俳壇でも有数の総合誌『俳句群像』の最新号だった。表紙には、特別作品発表者の名前や連載のタイトルにまじって、「新人賞発表」と大きく印刷されていた。

「これがどうかしたの?」

「新人賞のページを見て下さい!」

 原山さんの声は悲鳴のようだった。春子は急いで目次を確認すると、ぺらぺらとページをめくった。

 受賞者はAMI。

 まるで芸能人のようなペンネームだ。漢字とひらがなが主に使われ、カタカナでさえ使いすぎると眉をひそめられがちな俳壇に、アルファベットの俳号でデビューするとは。なかなかいい度胸をしている。

経歴には何も書いていなかったが、「受賞者の言葉」欄には「見てな、古臭い俳壇に新風を吹き込んでやるよ!自分で言っちゃうのも何だけど、大器出現!天賦の才能だよ!」とあり、あえて目立とうとしている嫌な感じがした。

「受賞者の言葉」欄には、どんな思いで受賞作を作ったかとか、選考委員への感謝の気持などを書くことが暗黙の了解になっている。しかし、このAMIは、他の人達とは徹底的に違うことをやりたいようだ。

常に新しさを求める創作者の態度としては、それでいい。他人と同じことをやっていたのでは、創作者にはなれない。だが、その肝心の言葉が、「新風を吹き込む」などという、マスコミが好んで使う手垢のついた言葉であるところが笑止千万だ。

 写真を見ると、二十代後半か三十代前半のまだ若い女性で、なかなかの美人だった。これで本当に俳句の才能があるならば、俳壇マスコミにとっては絶好のスター作りのチャンスだろう。

 白黒なのではっきりとはわからないが、髪を脱色していて化粧も派手なようだ。顎を心持上げ、唇をきっと結び、長い髪を片手でかき上げながら、挑発的にこちらを睨んでいる。いかにも「見てな」という感じだ。ペンネームだけではなく、ルックスやポーズも芸能人気取りで、春子は不快に感じた。

『俳句群像』が広告塔を作って、俳句にこれまで興味のなかった若い人達へも雑誌を売ろうとしているのか。AMIにちゃんとした俳句の才能があるならば認めるのにやぶさかではないが、どうせ言葉だけ刺激的にした薄っぺらな作品ではないのか。こんな女がこれから俳壇でちやほやされるのか……。

「先生、その写真のAMIっておかしいんですよ。例の……ほら、お話ししたでしょう、木村さんを迎えに来た若い女性に何となく似ているような気がして」

 原山さんが眉をひそめて言うと、中村さんも春子の肩越しに覗き込んだ。

「あらまあ、確かに似ているわね。あのときはこんなに下品な感じじゃなかったけど、顔立ちが似ているわね」

「先生、次のページも見て下さい。この人の受賞作と言ったら!」

 原山さんは憤懣やるかたない様子だ。促されてページをめくった春子は、思わず息を呑んだ。

 『夜桜お七』という俗っぽくドラマチックな題をつけた受賞作五十句は、桜をめぐって濃厚な情念のこもった悲恋と死をテーマとしていた。だが、その内容は、春子が「デネブ」四月号に発表する予定で現在印刷中の五十句と殆ど全く同じだったのである。

春子は、『桜八景』という抑えた題をつけた。だが、『桜八景』と『夜桜お七』とは、〈夕桜〉が〈夜桜〉に変わっているとか、〈女泣く〉が〈お七泣く〉になっているといった僅かな違いを除けば、寸分違わず同じだった。

 俳句は僅か十七音だから、一句だけに限れば、そうとは知らずにそっくりの句を作ってしまうことがある。

 例えば、グスタフ・クリムトの描いた『接吻』をテーマに詠んだ句の上五、中七が〈クリムトの金の接吻〉と全く同じで、下五の季語だけが〈秋の暮〉〈秋の雲〉〈月凍つる〉〈枯葉舞ふ〉〈冬ざるる〉などとばらばらになっている、などということは時々ある。

だが、五十句揃って殆ど同じということはいくらなんでもあり得ない。

「これは盗作ですよ」

 原山さんの声は怒りで震えていた。

 春子はゆっくりとうなずいた。確かに盗作だ。なるほど、「大器」と自ら名乗るにふさわしい、呆れるくらいスケールの大きな、前代未聞の盗作だ。

 春子の頭の中は真っ白だった。まさか、こんな許しがたい事件が起きるとは。自分がこんなトラブルに巻き込まれるとは。あまりの驚きで、まだ現実のことと思われないくらい、春子は混乱していた。

「何が、『古臭い俳壇に新風を吹き込んでやるよ』だ、この盗っ人女!」

 事情を理解した山下さんが、憤怒をぶちまけて叫んだ。

「先生、すぐに『俳句群像』の編集部に連絡をしなくては」

 普段穏やかな中村さんでさえ、怒りで頬を染めていた。

「しかし、どうしてこの女は春子先生の句を盗めたんでしょうか。先生の発表作から盗むのならばわかりますが、『桜八景』はまだ印刷所にあって未発表でしょう。先生が『桜八景』を完成させる以前に、新人賞の応募は締め切っているはずではないのですか」

 広田さんは納得のいかない様子で指摘した。

 息巻いていたみんなが静まり返った。

 確かに、締切りの順番としては新人賞の方が先だと考えるのが普通だ。『俳句群像』の編集部に盗作だと知らせたところで、同じことを聞かれるだろう。

「謎ですな」

「でもね」

 春子はゆっくりと記憶を反芻した。

「もしも本気でやろうと思えば、不可能ではなかったわ」

『桜八景』五十句は、前年の四月に高雲寺で夜桜を眺めて作った句を含め、各地で桜を訪ねて詠んだ句が中心になっている。何度も推敲を重ねたが、一ヶ月後の五月上旬にはもう仕上がっていた。

去年の「デネブ」六月号や七月号で発表することもできたが、思い入れのある高雲寺で詠んだ桜も入っている。どうせなら桜の季節に合わせて発表したいという思いから、一年間待っていたのだった。

 その間、『桜八景』の原稿を預かっていた人物がいた。

「それが、当時編集長だった木村さんというわけですな」

 広田さんが静かに確認した。

「そういうことです」

 春子は答えた。

 オフィスに異様な沈黙が広がった。

 木村さんが、俳壇で一旗あげようというAMIに『桜八景』の原稿を譲り渡したのか。だが、木村さんはどうやってAMIと知り合ったのだろう。それとも、AMIは原山さんや中村さんが怪しんでいるように、木村さんと一緒に暮らしていた女性なのか。

 疑問は尽きなかった。だが、とにかく、何らかの手段でAMIは未発表の『桜八景』を木村さんから入手し、その中身を殆ど変えずに『夜桜お七』と改題して応募し、新人賞を射止めた。そう考えてまず間違いない。

「先生、今回の新人賞の応募締切りまでの間、木村さん以外の誰にも『桜八景』の原稿はお見せになっていませんね」

「ええ、誰にも見せていません。木村さんだけだわ」

「それでは……」

 広田さんが残念そうに呟いた。

「こんなことを信じたくはありませんが、やはり木村さんが、この盗作事件に関与していると考えざるを得ませんね」

 みんな黙り込んだ。

 編集長として、「デネブ」のために奮闘していた木村さん。その彼が突然別れも告げず退会したことも行方不明になってしまったことも、全く信じられないことだった。その上盗作犯の女と共謀しているなんて、みんなの理解の範疇を超えていた。広田さん同様、誰も信じたくなかったが、現状では木村さんの関与を疑わざるを得なかった。

「くそっ、なんて野郎だ!無責任に仕事を放り出してみんなを困らせた上に、こんなことまでしでかして!」

 山下さんが顔を真っ赤にして怒り出した。

「先生、どうしましょうか。やっぱり、まず『俳句群像』の編集部に知らせないといけませんよね」

 原山さんが促した。

「ええ、それはそうなのだけれど」

 春子は考え込んだ。

『俳句群像』は、既に大々的に新人賞を発表してしまっている。更に、この風変わりな美人を広告塔として売り出そうとしている可能性が高い。盗作だと春子が主張したところで、どこまで本気で取り合ってくれるか、あまりあてにならない。

何しろ『桜八景』は、「デネブ」四月号が出ていない今日時点では未発表作なのだ。春子が木村さんに原稿を預けておいたと主張したところで、それを知っているのは木村さんしかおらず、しかも彼は行方をくらましてしまっている。

 春子がAMIの「天賦の才能」に嫉妬したのだ、逆に『夜桜お七』を盗んで『桜八景』と改題して「デネブ」に載せようとしたのだ、とAMIに逆襲されたらどうするか。「何故私が今更盗作なんかしなければいけないの」と春子が反論したところで、AMIの盗作を示す確たる証拠はない。

春子は、『桜八景』も含めて、書き上げた原稿はすべて木村さんの自宅のパソコンにメール送信していた。その後で、一部だけ原稿を印刷して自宅の抽斗に保管し、原稿のデータや木村さん宛のメールは自分のパソコンからいつもさっさと消去してしまっていた。

 もう要らないわね、と思ったものはパソコンからすぐに消してしまうのが春子の癖だった。今となっては悪癖としか言いようがないが、いずれ「デネブ」誌上に掲載されるのだからそれをとっておけばいいだろう、と春子は考えていた。書き終えて提出した原稿を保存するためにパソコンのメモリーを使うなんてもったいないだけだ、と思っていた。

 それだけ木村さんを信用していたとも言えるが、今思えば実に浅はかだった。いざという時の証拠を、自分の手でみすみす消去してしまっていたのだから。

「そういうわけで、あまり強くは出られないのよ」

 春子は唇をかみしめた。自分の愚かさを心底呪いたい気分だった。

 春子は新人賞をもらって以後、着実に俳人としての実績を積み重ねてきた。だが、七十代、八十代、九十代の俳人が大御所として活躍する俳壇では、まだ一人の若手作家に過ぎない。『俳句群像』側が慌てて対応してくれるほどの大物ではない。

「ちょっと待ってね」

 春子は、新人賞選考の経緯や選考委員の講評にざっと目を通した。

 四人の選考委員全員が『夜桜お七』を高く評価し、新しい才能の出現を絶讃していた。「どこにも文句のつけようがない」と手放しで賞賛し、これからの俳壇を担う天才としてその将来に期待を寄せていた。

おかしい。不自然だわ。

 春子は首を傾げた。

 俳句の世界は、基本的に「蓼食う虫も好き好き」だ。技術的に一定以上のレベルに達したら、後は作家の文体や作品の内包する世界観にどこまで共感できるかで評価が決まる。当然ながら、それは読み手によって違う。

 だから、俳句の賞では選が分かれるのが普通だ。四人の選者のうち三人がベタ褒めしても、残りの一人がケチをつけることも少なくない。選考委員が二対二に割れてしまい、さっぱり受賞作が決まらない場合もある。

 僅か十七音の言葉から読み手がどれだけイメージを再生できるか、再生したイメージにどれだけ共感できるかは、読み手の感性や人生経験や俳句観によって大きく左右される。他の選者の読みを聞いているうちに、自分の意見が変わることだってある。

 プロ俳人の春子の作品が、これから俳壇に新人としてデビューしたいという応募者の作品と比べて優れているのは別に不思議ではないし、選考委員に全員一致で選ばれたのもおかしなことではないだろう。

だが、どれほど優れた作品でも、五十句もあれば、必ずケチをつけたくなる句が二、三句はあるものだ。 選考委員が揃いも揃って「どこにも文句のつけようがない」と講評を書くなど、現実にはまずあり得ない。

「どうですか、何て書いてあります?」

 春子が頻りに首をひねっているのを見て、原山さんが尋ねた。今にも『俳句群像』の編集部に電話をしたくてたまらない様子だ。

「気になる点があるのよ」

「え?」

 原山さんが不思議そうな顔をした。

「選考委員が褒めすぎなの」

「だって、それはもともと春子先生の作品なんですから。いくら褒められたって当然でしょう」

 「なあんだ、そんなことですか」と原山さん達は笑った。弟子達にそう言ってもらえるのは嬉しいが、春子の疑念は晴れない。

「選考委員が揃って絶讃しているのよ。そんなこと、あり得ないわ」

「そうでしょうか」

 みんなは尚も、納得できないという表情を浮かべている。

「だって、『桜八景』にはいい句を沢山入れたけれど、まあまあだなぁと思った句も入っているのよ。最後に二、三句、どうしても数が揃わなくてね」

 春子は正直に告白した。

 それにもかかわらず、まあまあの出来の句まで賞賛されていたのだ。

「選考委員が四人揃ってとち狂ったのでもない限り、そんなことはあり得ないのよ。それに、自分で言うのもおかしいけれどね、あたしの五十句は絶対にアマチュアの作品じゃないの」

 そう言いながら、春子は微かに顔を赤らめた。謙虚であれと育てられた日本人にとって、自分で自分の句を褒めるのは面映ゆい。

「他の最終候補作品とざっと読み比べてみたけれど、明らかに出来が違うの。でも、それについては何も疑わずに、天才が登場したということであっさりすませてしまっているの」

まだある。五十句には、AMIの年齢ではまだ絶対に詠めない句も入っていたのだが、それも見過ごされてしまっている。

 人生の折り返し点を過ぎて次の大台は五十歳、一昔前ならば初老という現実を突きつけられた四十代の心境を詠んだ、〈半生の過ぎししづけさ桜咲く〉という句がそれだ。選考委員達はこの句を、二十代かせいぜい三十代前半の女性の詠んだものとして、疑いもせずに受け止めたのだろうか。

 春子はもう一度講評に目を落とした。

「落ち着いて時に古風でありながら華やぎや新しさがある」とか、「新人とは思えない確かな技量が奔放な若々しさを支えている」とか、「構成が優れていて女性の情念が桜の精と一体化したかのようだ」とか、「この若さでこれだけの句を詠むとは恐るべき真の才能だ」とか、「我々はいずれ彼女によって駆逐されてしまうかも知れない」とか、「俳人よ警戒せよ目覚めよ」とか、とにかく褒め言葉ばかりがずらりと並んでいる。

「やっぱり変だわ」

「いわゆる出来高レースだとおっしゃりたいのですか」

 広田さんが尋ねた。 

「そこまでは言いたくないけれど、編集部は明らかにAMIをひいきにしているわね。ひょっとすると、何かあったのかもね」

 春子は答えた。疑惑は膨らむ一方だ。盗作だって平気でする女なのだから、『夜桜お七』の原稿を手に、『俳句群像』編集部に売り込みに押しかけたのかも知れない。

『夜桜お七』はもともと春子の『桜八景』なのだから、当然、新人の作品としては群を抜いている。しかも、AMIは人目を惹くルックスをしている。編集部が、AMIを広告塔として使えば『俳句群像』の売上増加に繋がると見込んだとしても、少しも不思議ではない。箔を付けるためにまず新人賞に応募してはどうか、と勧めたことだってあり得る。

 選考委員達も賞の選考に編集部が干渉することはさすがに承知しないだろうが、『夜桜お七』を選んだ後で、俳句を広めるためだと編集部に言われ、「天才出現として絶賛して欲しい」という頼みを受け入れたのかも知れない。

 真実はわからないが、ついそういう風に考えてしまうのも、編集長が一年ほど前に交代してから、『俳句群像』が商業主義を急速に強めているからだ。

歴代の編集長は、とにかく俳句が好きな人達だった。難しいと一般読者に敬遠されそうな本格的な評論でも、良いものを書けば喜んで掲載してくれた。

 だが、今の永山編集長は、まるで俳句をわかっていない。読者を増やすために、安易な入門特集に走ってばかりいる。どうしてこんな男が伝統ある『俳句群像』の編集長になったのかと文句を言いたくなるくらい、俳句を小馬鹿にしたところがある。

 何度か話をしたことがあるが、その都度、大して売れない『俳句群像』の編集長なんぞに「左遷」されたことを嘆いていた。俳句のために一働きするというよりも、売上を伸ばして自分の業績を上げることばかり考えているふしがあった。

 もしこれが本当に一種の「出来高レース」だったとしたら、春子がいくら盗作だと主張したところで、確たる証拠のないことを理由に全く相手にされないだろう。永山さんは、春子ではなく、「大器」にして「天賦の才能」の持ち主のAMIをとるだろう。あまりうるさく主張したら、鋏で紐を切るよりもあっさりと春子は干されてしまうかも知れない。

「まさか、先生、このまま黙っていらっしゃるつもりじゃないでしょうね」

 弱気になりかけた春子の心を見抜いたかのように、原山さんが大声を出した。

「ううん、言うべきことは言うわよ。でも、証拠がないからどうなるか……」

 父の言葉ではないが、とにかく今回だけは、「感情に任せて好き勝手なことを言う」のは控えなければいけない。大して教えたくなかったカルチャーセンターの講師の口は、失っても別に良かった。藤田さんとの交際を断わったのも、我が身の不運を嘆きこそすれ、後悔はしていない。だが、『俳句群像』からお声がかからなくなってしまっては困る。

 春子の弱気を振り払うように、原山さんが携帯電話を手に取った。

「出版社は夜が遅いから、まだ誰かいるでしょう。先生、電話しますよ」

 

 その翌日、『俳句群像』編集部の会議室に春子と原山さんは座っていた。春子が気弱になるのを心配した原山さんが、仕事を休んでついてきてくれたのだった。

 昨夜電話で話したとき、永山編集長はさすがに驚いた様子で、すぐに会うことを承知した。だが、先客の俳壇の大家の応対中ということで、二人はかれこれ一時間近くも、冷めきった珈琲を前にじっと座り続けていた。

「もう三時だわ」

「なんだか、私達、軽んじられていると思いません?」

「仕方ないわよ、相手は大御所の先生だもの。いっぱい大きな賞をとられて、お弟子さんも大勢で、おまけに先約のあるところに割り込ませてもらったんだから」

 春子は諦め顔である。

「それはそうですけれどね。その大御所の先生、もっとさっさと用事をすませられないのかしらって思うんですよね。私達だってわざわざ仕事を休んで来ているのに」

「きっと、大家のおじいちゃまの話相手をするのも、編集長の仕事のうちなのよ」

「部下が文句を言っているかも知れませんね。うちの編集長はお喋りばっかりしていてろくに働かないって」

 春子と原山さんはぼやきながら待ち続けた。

 永山さんがようやく姿を見せたときは、もう四時半近かった。

「いやあ、本当に申し訳ない、すっかりお待たせしてしまって」

 ノックもせずに突然ドアを開けてせかせかと入ってきた永山さんは、目の前の椅子に座るなり頭を掻いた。

 春子や原山さんと同世代、男盛りの編集長である。さすがにアルマーニではなさそうだがいつも上質のスーツを着こなし、派手なネクタイを締めている。髪は黒々として一本の白髪もなく、顔もつやつやとして年齢よりもかなり若く見える。それだけに高齢者の多い俳壇では若僧と見られがちで苦労している、と同世代の俳人達にはかねがねぼやいている。

 そう言いつつも、実際に高齢の俳人達を前にしたときの物腰は実に柔らかく丁寧だ。「やはり人生経験のある大先輩の御句は違いますからね」とか、「私も先生のように年を重ねていきたいものです」などとさりげなく巧みにごまをする変わり身のはやさには、嫌悪感を通り越して、感嘆すべき要領の良ささえある。

 そうやって相手をいい機嫌にさせておいて、「先生、そろそろ御句集を出されるおつもりはございませんか。できれば、弊社で作らせていただければありがたいのですが」と営業を始め、見事に老人達を落とすのである。「作らせていただければ」とへりくだりながらも、句集は通常自費出版だから、実際に百万円を超える句集制作費を負担するのは「先生」達の方である。

「こういう人が会社員の鑑なのかも知れないわね」と原山さんと噂したこともあったが、八方美人は春子の好きな気質ではない。商業主義も鼻についた。そういうわけで、春子は永山さんを信用していなかったが、今回ばかりは彼と話をしないことには何も進まない。

「本当にすみませんでしたね」

 遅れて入って来た女性に珈琲のお代わりを言いつけ、初対面の原山さんと名刺交換をすませると、永山さんは早速用件に入った。

「昨夜お電話で伺いましたが、『夜桜お七』に盗作の可能性があるという理解でよろしいですか」

「可能性があるのではなくて、事実なんです」

「何句か先生の御作が混じっているということですか」

「いいえ。幾つかの些細な箇所を除いて、最初から最後まで私の作品と同じです。これをご覧いただけますか」

 春子は、持参してきたワード原稿のゲラを永山さんに手渡した。

「これは?」

「私の『桜八景』のゲラです。『夜桜お七』はこれを改題したものです」

 永山さんは、手にしていた『俳句群像』最新号の『夜桜お七』と『桜八景』のゲラを見比べ始めた。

 会議室が静かになった。

「なるほど」

 暫くして読み終えた永山さんは顔を上げた。その表情は平静そのものだった。

「確かにそっくりですね。殆ど同じだと言っていい」

「そうでしょう」

 原山さんが勝ち誇ったように言ったが、永山さんは手を上げてそれを押しとどめた。

「しかし、私に言えるのはそこまでです」

「とおっしゃいますと?」

「ご存知かとは思いますが、弊誌の新人賞の締切りは昨年十月末です。このようなことを申し上げるのは大変心苦しいのですが、それ以前に高見沢先生が『桜八景』を作られたことを示す証拠はありますか」

「まさか、編集長さん、春子先生のおっしゃることを疑っているんじゃないでしょうね。それって失礼じゃないですか」

 原山さんの声が一オクターブ跳ね上がり、春子は慌てて制した。

 春子の言うことを百パーセント鵜呑みにするのではなく、『桜八景』と『夜桜お七』のどちらが先に作られたか、確たる証拠に基づいて事実を把握しようという永山さんの態度は愉快ではないが、別に間違ってはいない。

 春子は事情を説明した。

 去年の五月に『桜八景』五十句をまとめ、前編集長の木村さんに原稿を預けておいたこと。だが、その木村さんが突然姿をくらました上、「デネブ」を退会してしまったこと。受賞者のAMIは、木村さんから『桜八景』の原稿を受け取ったのではないかと思われること。

 直接の証拠はないことも正直に話した。

「なるほど」

 永山さんはうなずいた。気のせいか、春子の返事に安心したように見えた。

「先生のお話をお聞きすると確かに筋が通っていますが、何の証拠もないのが残念ですね。先生のパソコンに『桜八景』の原稿が残っていれば、おっしゃる通りに昨年五月の時点で作られたものかどうか、私が先生のご自宅に伺って原稿の最終更新日時を確認することもできたのですがね」

大して残念でもなさそうに言うと、永山さんは『桜八景』のゲラを返して寄こした。

何の証拠もないのに乗り込んできて、せっかく大々的に宣伝している新人賞にケチをつける困った人達。永山さんはそんな目つきで春子達を見ていた。

「それはそうかも知れませんが」

 原山さんの顔が真っ赤になった。

「でも、永山さん、この五十句には春子先生の個性が溢れているじゃないですか。春子先生の作風に他ならないじゃないですか。どんなに素質があったって、新人にこんな素晴らしい句を五十句も作れるわけがないでしょう。永山さん、こんなことを申し上げて失礼ですけれども、俳句雑誌の編集長をしていらっしゃるんですから、俳句を見る目はお持ちですよね」

「そう言っていただけるのは大変光栄なのですが」

 永山さんがそう言いかけたとき、再びドアが開いてお代わりの珈琲が来た。

「以前に申し上げたかも知れませんが、私は入社以来長らく洋楽の雑誌の編集をしてきましてね」

「どうぞ」と熱い珈琲を勧めながら、永山さんは言った。

「たまたま『俳句群像』を担当することになりましたが、自分でも思いもよらなかった人事異動でして、俳句はまだ勉強中の身なのですよ。俳人の皆様にいろいろと教えていただき、日々学ばせていただいているところです。ですから、この五十句が高見沢先生の作品かどうか判断するのは、申し訳ありませんが、私にはまだ無理なのです」

 「無理」と言い切ると、永山さんは珈琲を啜った。昨夜の電話では動揺した様子だったが、確たる証拠がないとわかった今はすっかりリラックスしていた。

「それに、『夜桜お七』を選んだのは選考委員の先生方ですしね。素人の私が口を出すことなどできませんよ、そうでしょう」

 「素人」は便利な逃げ言葉だ。『俳句群像』の編集長が俳句の「素人」では困るのだが、そんなことは全く気にかけていないようだった。この調子では、選考委員全員が揃って『夜桜お七』を絶賛するなどあり得ないと指摘したところで、「素人ですからわかりませんでしたが、そういうものなのですか」とか「しかし、選考委員の先生方にすべてお任せしていますからねえ」などと、さっぱり要領を得ない返事が返って来るだけだろう。

 春子は作戦を変え、ダイレクトに切り込むことにした。

「永山さんは、新人賞発表以前にAMIさんにお会いになったことはありますか」

直球勝負の質問に永山さんは大仰に両手を広げ、「そんなこと、あるわけないじゃないですか」と驚いた表情をした。単なる見せかけなのか、本当に驚いているのか、はっきりとは判別しかねたが、あまりにも大仰で見せかけのような気もした。

 事前にAMIと会って一種の「出来高レース」路線で行こうと決めたのか、新人賞に決まった後でAMIの写真でも見て、大々的に売り出そうと絶讃路線を取ったのか。いずれにしても、この男は「素人」を盾にのらりくらりと知らんぷりを続けるだろう。

「それでは、この盗作の件はどうなるんですか。永山さんからAMIさんに事実関係を聞いて下さってもいいのでは……いいえ、お聞きになるべきではありませんか」

原山さんが詰め寄った。

「申し訳ありませんが、確かな証拠がない限り、弊社としてできることは何もないのです。いいですか、逆の立場で考えて下さい。私の立場にもなってみて下さいよ。AMIさんだって、せっかく新人賞を受賞したのにケチをつけられて気の毒ですよ」

 永山さんはうんざりしたと言いたげだった。この件を早々に切り上げたいという態度を隠そうともしなかった。

『俳句群像』としては、選考委員が全員一致で選んだ『夜桜お七』を新人賞として発表しただけだ。とやかく言われるようなことは何もしていない。『桜八景』のゲラを手渡され、こっちが本物だ、新人賞を取り消せと何の確証もないのに言われても、対応しようがない。それよりも、『夜桜お七』とそっくりの『桜八景』を、いくら部数の限られた結社誌とはいえ、『俳句群像』新人賞の発表後に掲載してどうするのか。逆に盗作疑惑をかけられるだけではないのか。

 それが、永山さんの脅しめいた失礼極まりない言い分だった。

「よろしいですか、新人賞の取り消しなんて、軽々しくできないんですよ。確証がないんですから、取り消したらかえっておかしいでしょう。そういうことで、もうよろしいでしょうか。それから、『桜八景』の発表については慎重になさった方がいいですよ」

 永山さんは腰を浮かしかけていた。   

「わかりました」

 少し黙った後で春子は言った。原山さんが「先生!」と春子の袖を引っ張ったが、そっと振り払った。

「逆に言えば、証拠があれば確実に取り消して下さるということですね」

 春子はじっと永山さんを見つめた。それ以上何も言わなかったが、その目は寡黙な獣のようにぎらぎらと光っていた。

 永山さんは一瞬怯んだようだったが、すぐに落ち着きを取り戻すと、「証拠があれば考えざるを得ないでしょうね。ただし、確実な証拠ですよ。今回のゲラのようなものは駄目ですよ」と答えた。

「わかっています」

 春子はうなずくと更に切り込んだ。

「ついては、AMIさんと連絡をとりたいので連絡先を教えていただけませんか」

 永山さんはぎょっとした様子だった。

「そんなことはできませんよ。個人情報ですから、私が勝手に連絡先をお知らせすることはできません」

「なるほど」

 そんなことは先刻承知である。

 一昔前ならばともかく、世知辛い今の世の中でそうやすやすとAMIの連絡先を入手できるとは、春子も思ってはいない。ただ、できるだけ思い切った要求をして、仰天した相手から有利な条件を引き出そうとしただけだった。

「では、AMIさんに、私に連絡をするようにおっしゃって下さい。私の個人情報は、電話番号でもメールアドレスでも何でも出して下さってかまいません。それならば、何の問題もないでしょう」

 『俳句群像』の編集部は、定期的に仕事を依頼する俳人の連絡先をすべて入手しており、春子もそこに含まれている。

「しかし、彼女が高見沢先生に連絡をするかどうかまでは保証できませんよ。それでもよろしいですか」

 永山さんはあくまでも消極的だった。新人賞の盗作疑惑だの取消だの、自分のキャリアに傷がつきそうなことは、一切避けようとしていた。

「それならば、永山さんがAMIさんを説得していただけませんか」

 なるべく柔らかい口調を心がけつつも、春子は食い下がった。

 説得くらい当然だろう。この男が嫌がってやらないだけで、本来ならば、彼がAMIを問い質してもおかしくないのだ。

「いや、しかし、本人が嫌だというものを、私が無理強いするわけにはいかないでしょう」

 永山さんは腕を組んで難しい顔をした。あくまで非協力的な態度を崩そうとしない。

「それはおかしいですね」

 春子は身を乗り出した。

「それでは筋が通っていませんよ。AMIさんから連絡をもらうのは、『桜八景』と『夜桜お七』のどちらが先にできたか、はっきりさせるためなんですから。永山さんだって、確証が欲しいとおっしゃっていたじゃありませんか」

「しかし、無理強いするのもどうですかねえ」

 永山さんは尚も渋っている。

「失礼ですが」

 怒り出さないように気をつけながらも、春子は自ずと強い口調になった。

「新人賞を出したならば出したなりの責任があるはずです。永山さんがAMIさんに、『夜桜お七』の盗作疑惑を晴らすために協力して欲しい、協力を拒むのは後ろめたいところがあるのではないか、そんな状態で授賞式に出るつもりなのか、とおっしゃればいいだけのことではありませんか。AMIさんも、いつまでも逃げ回っていることはできませんよ」

 電話でもいい。春子は直接AMIと話をしたい。会わないのは自ら盗作を認めるようなものだ、と言ってやりたい。

「ところで、『夜桜お七』もワード原稿だったのですか」

 春子はさりげなく話題を変えた。永山さんはほっとしたように答えた。

「正確にはスタッフに聞かないとわかりませんが、多分そうだったはずです。最近の応募原稿は大体みんなそうですから」

「そうですよね」

 永山さんの返事に春子は勢い込んだ。

 AMIの自宅を訪ねて彼女のパソコンを調べれば、『夜桜お七』をいつ入力したのか、確認できるかも知れない。AMIが木村さんと一緒に暮らしている可能性もある。そうでなくても、AMIから木村さんの連絡先を聞き出せる可能性は十分にある。そうしたら、木村さんのパソコンを調べて、春子の『桜八景』送信メールを昨年五月に受信した証拠を入手できるかも知れない。

「それまでに、AMIさんや前の編集長さんが、高見沢先生のようにパソコンのデータを消してしまわなければ、の話ですがね」

 AMIの自宅まで行くつもりだと聞いて、永山さんは苦虫を噛みつぶしたような顔で皮肉まじりに答えた。

「では、まず、絶対にパソコンのデータを消さないように、AMIさんにおっしゃって下さい。AMIさんから木村さんにもそう伝えるように、永山さんからおっしゃって下さい」

春子は必死だった。

「消してしまったら盗作疑惑は永遠に晴れない、『俳句群像』は疑惑のある作家は使えない、とおっしゃって下さい。永山さんならできるはずです。永山さんは編集長さんとして公平な判断をされる方ですから」

 春子は永山さんを信じていたわけではない。「公平な判断をされる方」などと心にもないことを言ったのは、永山さんが万が一にも保身を図って、AMIにパソコンのデータ消去を指示することのないようにするためだった。

 AMIから春子に必ず連絡させるという約束をようやくとりつけたときには、永山さんが姿を見せてから二時間近く経っていた。


 翌朝、出勤の支度をしながらメールチェックをしていた春子は、AMIからのメールを見つけた。短く素っ気ないものだった。

ーAMIです。今日午後六時に都内の緑川霊園管理所前で。返信不要。

 待ち合わせ場所に、よりによって霊園を指定するとは。

 不審に思った春子は、原山さんに電話してみた。原山さんも出勤前の支度で忙しそうだったが、AMIから早速連絡があったと聞いてほっとした声になった。だが、霊園が待ち合わせ場所ということには、春子と同じく訝しく思ったらしかった。

「霊園の中を歩きながら話をしようというのかしら。なんだか気味が悪いわよね」

「ええ、変ですね」

「できれば、彼女の家で会いたかったのだけれど。そうすればパソコンも調べられるでしょうし」

「でも返信不要ってはっきり書いてあるんですよね」

 二人とも面食らっていた。

「先生、私、今夜は突然仕事が入ってご一緒できないんですが、永山さんにも立ち会ってもらった方がいいのではないでしょうか」

「そう思う?」

「まさかとは思いますけど、場所が……何と言うか不吉で……」

 原山さんは口ごもった。

「万が一、変なことをされたら危ないじゃないですか」

 相手は、初対面の上に、常識が通じそうにない盗作犯である。しかも、春子とは真っ向から利害が対立している。話がもめて逆上しないとも限らない。

 いかにも人気のなさそうな夕暮の墓地で二人きりで会うのは身の安全を考えて止めた方がいい、というのが原山さんの意見だった。

「そうでなければ、編集部のみんなに声をかけたらどうでしょうか。広田さんも山下さんも、ご高齢とはいえ男性ですし」

「なるほどね」

もっともである。

 会社の昼休みに、春子は『俳句群像』編集部に電話をしてみた。永山さんはあいにく不在だった。「今朝からスタッフと一緒に沖縄へ取材に出かけました。三日ほど戻らない予定です」と電話に出たバイトの女性が、申し訳なさそうに言った。

 出張がなかったところで、あの頼りにならない編集長が出て来るかどうか怪しいものだったが、とにかく、彼をボディガード代わりにする案は消えた。

 それに、永山さんが一緒にいると、編集長の面前で恥をかきたくないと思いつめて、AMIが余計にしらを切る可能性がある。その意味では、広田さんや山下さんに同行してもらうのも賢明ではないだろう。特に山下さんは短気だ。途中で怒り出して、話を台無しにしてしまうおそれがある。 

 女同士だし、もしもAMIが暴力を振るってきても、春子一人で取り押さえられるのではないか。それにAMIだって馬鹿ではあるまい。ナイフでも振り回して春子に怪我をさせたら、新人賞を取り消されるだけではなく、犯罪者として逮捕されることくらいわかっているだろう。

あれこれ考えているうちに、女と女、一対一でなるべく穏やかに話をするのが、一番いいような気がしてきた。「やっぱり一人で行くわ」というメールを原山さんに送り、足早に会社を出たのは午後五時過ぎだった。

 三月の天気は気まぐれだ。昨日まで続いていた春の暖かさが嘘のように、今日は冬の寒さが逆戻りしていた。おまけに珍しく天気予報が当たって、昼過ぎから牡丹雪が舞い始めた。

晴れていればまだ十分に日のある時間だったが、雪雲のせいであたりは既に薄暗く、満開になりかけた桜が蝋細工のように白く静かに雪空に張り付いていた。歩道にもガードレールにも街路樹にも雪が積もり始め、春子のスプリングコートでは寒いほどだった。だが、雪をふうわりと被った桜は美しかった。

 これで月が出たら、雪月花が揃うわね。

 思いがけない寒さに震えながら、春子は微笑んだ。

 雪月花。雪と月と花つまり桜は大切な季語だ。本来は冬と秋と春に愛でるものだが、三月に雪月花が揃う光景も一度見てみたかった。天気予報では雪は夜遅くには降りやむということだったから、本当に雪月花が揃うかも知れない。俳人にとってはめでたい限りだ。

 何もこんな日に盗作犯と直談判をしなくてもいいのにね。

 春子は軽く唇を歪めると、地下鉄の階段をすたすたと下りていった。


 わざわざ雪の日を選んでお墓参りをする酔狂な人は、やはり殆どいなかった。日が暮れて暗くなりかけた霊園の管理所は既に閉じ、傘をさした黒いコート姿の男性だけが、管理所の掲示板を見るともなしに眺めていた。

 春子の気配を感じたのか、男性は振り返った。その姿には間違いなく見覚えがあった。男性はゆっくりと近づいて来ると、軽く傘を上げ、お辞儀をして挨拶した。

「春子先生、お久しぶりです。またお目にかかることになるとは思っておりませんでした。驚かれましたか」

「木村さん……」

 幽霊を見たような思い……というほどの意外さはなかった。心のどこかに、AMIではなくて木村さんが現れるかも知れないという予感があった。

「あいにくの雪になってしまいましたねえ、先生。桜はもう満開なんですが」

 木村さんは少しやつれたように見えた。

三月の空はいったん暗くなりかかると、何かに急かされるようにすぐに真っ暗になってしまう。

 管理所の弱々しい街灯でははっきりとわからなかったが、木村さんの目はうつろで表情も暗く硬く、ひどく思いつめている様子だった。いつも陽気で「デネブ」の運営を仕切ってきたあの木村さんと同じ人だとは、到底思えなかった。

「これで月でも出れば雪月花なんですがね、先生。そううまくいきますかね」

 少しかすれた声で、春子が思ったのと同じことを言う。

「どうかしらねえ。夜遅くにはやむだろうと気象庁は言っていたけれどね」

「そうですか。こんな寒い日にお呼び立てしてしまってすみません」

 木村さんは頻りに天気の話をして、本題に入りたがらないように見えた。気軽な話だけですむのならそれに越したことはない。しかし、今夜の二人は雪や花や、まして出るかどうかわからない月を見るために、ここに来たのではなかった。

「先生、ちょっと歩きませんか。その方が少しは温かいでしょう。私はもうひとまわりしてきたんですが、なかなか見応えのある桜でしたよ。先生なら名句ができるんじゃないかな。『桜八景』、本当に素晴らしい作品でしたものねえ」

 最後の一言が投げやりに響いたような気がした。

やはりそうだ。木村さんは盗作事件に関与していたのだ。今日もAMIを庇って代わりにやって来たに違いない。

 わかっていたこととはいえ、怒りがこみ上げた。カルチャーセンターでの出会いから始まって、「デネブ」の立ち上げを自分に勧め、共に活動してきたこの人が、こんな形で自分を裏切ったなんて。どう受け止めればいいのかわからない。  

 春子だって、四十年以上も生きてくれば他人に裏切られたことは一度や二度ではない。だが、これでもか、これでもかと裏切り合い争い合う人間の業の深さには、またかと嘆きたくもなる。

 思い起こせば、石田先生はよく「人間関係では清濁併せ呑まなければならないんですよ」と言っていた。それも大抵は、友人や弟子に裏切られて烈火の如く怒ったときだった。

 大してお酒が強いわけでもないのに、春子達が止めても先生はきかなかった。さんざん自棄酒をあおり、酔い潰れかけた挙句、一人呟くように「いいですか、清濁併せ呑むんですよ。清だけじゃやっていけないんですよ」と言っていた。 

 先生は人前ではなるべく穏やかに振る舞おうとしていたが、本来は気性が激しく、曲がったこと、筋の通らないことが大嫌いだった。人の道を守ることを何よりも大切と考える、現代では数少なくなった古いタイプの男性で、決して要領の良い人ではなかった。

 その気性のためにあちらこちらで喧嘩をし、「融通がきかない」と陰口をきかれ、敵も少なくなかった。その先生が「清濁併せ呑むことが大切」と言い続けていた心境を思うと切ない。

 春子も、一人の大人として、そして「デネブ」の主宰として、清濁併せ呑まなければならないのか。石田先生が存命だったら何と言うだろう。突然の退会を詫びもせず、盗作についてまだ言い訳すらしていない元弟子を許すように言うのだろうか。いくら何でもまさか、それはないだろう。

「さあ、行きましょう」

 木村さんが先に立って歩き出した。

「先生に見ていただきたいものがあるんです」

「まだ私を先生と呼ぶの?」

 春子は精一杯の皮肉をこめて言ったつもりだったが、木村さんは真面目くさって答えた。

「それはそうですよ。私の先生は春子先生しかいませんから」

「嘘ばっかり」

「本当ですよ」

「じゃあ何であんなことをしたのよ」

「あんなことって……まあ、これからゆっくりお話ししますよ」

「いいかげんにしてちょうだいよ」 

 歩いて行く二人の上には、夜桜の見事な天蓋が広がっていた。桜は、音もなく天から降る雪を受け止め、闇夜に現れた死の天使が真っ白な四肢を広げるように、枝を四方に広げていた。

緑川霊園は、墓地の真ん中をまっすぐに通る桜並木道で知られている。毎年桜の季節には、小さな照明器具をあちこちに置いてライトアップする。今夜も例外ではなかった。

 照らし出された花びらはびっしりとくっつきあって、雪片が触れるたびに微かに震えていた。誰かに死が訪れるたびに近しい人々が恐れおののくように、花びらは震え、震えつつもしっかりと枝にしがみついていた。その様子は、まだだ、まだ散るときは来ていない、と木に哀願するかのようだった。

「先生、そこを右へ曲がりましょう」

 桜並木は墓地の真ん中にしかない。ライトアップされた夜桜の天蓋が急に消えた小道は薄暗く、地面に積もっている雪だけが仄明るかった。

十五メートルほどまっすぐ歩き、左へ曲がり、また右へ曲がり、更に左へ曲がる。桜並木はどんどん遠ざかり、傘の下から吹きこむ雪に春子の顔は冷たく濡れた。

 前後左右とも墓石だらけだった。小さな墓石もあれば大きな墓石もあった。丁寧に花を活けてあるお墓もあれば、ほったらかしにされたままのお墓もあった。

 お墓は怖い。

 歩きながら春子は思った。

 葬られた人々がどれだけ家族に愛されているか、子孫に大切にされているか。他人に隠しておきたいことがありありと見えてしまう。人生の孤独の測定所のようだ。

「先生、ここです。随分歩かせてしまってすみません」

 木村さんが突然立ち止まった。

「お見せしたいものがありましてね」

 そう言いながら、木村さんはコートのポケットから懐中電灯を取り出して、目の前の大きな墓石を照らした。「宮川家之墓」と流麗な字で刻んであった。仏花がきちんと供えられていて、春子はほっとした。

「このお墓がどうしたの」

「別れた妻の墓なんですよ。まだ死ぬ年でもないのに子宮癌で逝ってしまいましてね。私と別れた後再婚はせずに、実家の墓に入りました」

 木村さんに奥さんがいたとは知らなかった。独身生活謳歌中と楽しげに言っていたのは、離婚したということだったのだ。

 墓石の横側には、様々な刻字の最後に春光佳葉信女、俗名宮川美佳、行年四十二歳と刻まれていた。今の春子と同じ年だが、没年は約二十年も前だった。

「美佳さんっておっしゃったのね。随分若くしてお亡くなりになって……」

 四十二歳はいくらなんでも早すぎる。

「私の仕事が忙しくて……結婚してから出張続きで、単身赴任もあって、殆どかまってやれませんでした」

 木村さんは一瞬黙った。言おうか言うまいかためらっているようだったが、意を決したように付け加えた。

「単身赴任というのは淋しいもので……女性の先生には言いにくいんですが、私も誘惑に負けてちょっと浮気をしたことがありました。それが美佳にばれて彼女を傷つけてしまい、結局別れることになったんです。でも、娘のことがありまして、別れてからも時々は連絡を取り合っていました」

 木村さんに娘までいたとは知らなかった。

「離婚した時、娘はまだ八歳でした。そのとき、美佳はもう発病していました。娘は、お父さんがいけないんだ、お父さんが他の女の人を好きになったりしたからお母さんが病気になったんだって、泣いて私を責めていました。無理もないことです」

 初めて聞く木村さんのプライベートだった。高雲寺でみんなが打ち明け話をしていたとき、木村さんは何も言わずにそわそわした素振りを見せていたが、到底みんなに言う気になれなかったのだろう。「生」も「病」も「死」も木村さんには重すぎた。心の闇を笑顔で覆い隠し、耐えられなくなる前に句会を早々に終わらせたのだ。

 娘は妻が引き取ったが、一年ほどして妻は病気が悪化して息を引き取った。 

「最期に駆けつけたときも、お父さん来ないで、お父さんがいけないんだから、お母さんを悲しませたのはお父さんなんだからって、娘は病室の前で両手を広げて、ついに通してもらえませんでした。同じ病院の中にいながら、死に目にもあえませんでした」

 木村さんは大きな溜め息をついた。

「仕方ないです。全部自業自得です。最低の夫で最低の親父なんですから」

 牡丹雪の降りつのる中で、木村さんの顔は限りなく淋しげに見えた。

 娘は母方の祖父母に引き取られ、祖父母が相次いで亡くなった後は、やはり母方の親戚の家で育てられた。木村さんは養育料を払い続けたが、転勤続きの上に海外赴任まで命じられ、娘が成長するまで殆ど会うことはなかったという。

「今年二十七歳になります」

 木村さんはぽつんと言った。

「先生にご迷惑をおかけしています」

「まさか……」

「母親生き写しの美人になりました。ちょっと見ただけでは、私の娘とはわからないでしょうね」

 春子は木村さんをじっと見た。木村さんはうなずいた。

「それがAMIさんなのね」

「そうです。本当は亜由美といいます」

 木村さんは漢字を説明した。

「私のせいで……私が早く気づいてやれなかったせいで、本当にしようのない奴に育ってしまいました。正真正銘の父親失格です」

 父の浮気に両親の離婚、そしてまだ若かった母の死。そのどれをとっても、まだ子供の亜由美にとっては大きなショックだった。だが、それに輪をかけてつらかったのは、自分を厄介者のように扱った祖父母の冷たさと、母が生きていた間は優しく見えた伯父や伯母の掌を返したような冷酷な態度だった。

 亜由美の祖父は不動産の賃貸業を営んでいたが、懇意にしていた顧客企業の社長の息子と自分の娘、つまり亜由美の母親を見合い結婚させようとしていた。戦国時代の政略結婚さながら母の気持など気にもかけず、自分のビジネスを優先して縁談をまとめようとしていた。

 母が自分の思いを貫いて駆け落ち同然に木村さんと結婚してからは、「何とふしだらで親不孝な娘だ。親の顔に泥を塗りおって」と勘当も同然の状態が続いていた。

 祖父は昔気質の男性で、妻も子供達も家長である自分に従うのが当然だと考えていた。なかなかのやり手でビジネスをどんどん拡大していったが、常にビジネス第一で家族への情は薄かった。

 亜由美の母が死んだときも、祖父は涙一つ見せなかった。そんな祖父にとって、亜由美は、ふしだらな娘がどこの馬の骨とも知れない男とつがって勝手に産んだ不肖の孫以上の何者でもなかった。自分の命令に背いた娘の子供の面倒を何故見なければいけないのか、というのが祖父の本心だった。

 祖母は大変涙もろいところがあり、母の葬儀でも号泣していた。だが、末っ子で甘やかされて育ったために、気まぐれでわがままで、およそ我慢というもののできない、一種の欠陥人間だった。

祖母は亜由美を抱きしめて、「おまえも可哀想な子だよ、こんなに早く母親を亡くして。美佳さえ生きていてくれたらねえ、おまえにも十分なことをしてくれただろうに」と涙をこぼした。母が生き返るわけでもないのに祖母にめそめそ泣かれても、亜由美の気持は暗くなるばかりだった。

 だが、祖父母に引き取ってもらった自分の立場は、亜由美もわかりすぎるほどよくわかっていた。子供の亜由美は、黙って祖母の愚痴を聞いているしかなかった。

 祖母は祖父と違って、機嫌のいいときには天麩羅や鮨を食べに亜由美を連れて行ってくれたり、お気に入りのブティックで綺麗な洋服やしゃれた靴を買ってくれたりすることもあった。ごく稀には、亜由美の遊び相手をしてくれることさえあった。

 だが、いったん機嫌が悪くなると、手のつけようがなかった。しかも、一年三百六十五日のうち三百五十日は機嫌が悪かったのだ。

 機嫌の悪い日の祖母は、亜由美が学校から帰って来ても「お帰り」と笑顔で迎えるどころか、恐い顔をして睨みつけるだけだった。「なんで帰って来たんだい。このくたびれた年寄りにまだ世話をさせるつもりかい」とか、「おまえがいるせいでのんびりできないよ。これじゃ早く死んじまうじゃないか」などと、平気で暴言を吐いた。

 亜由美はいたたまれなく、「ごめんなさい」と言って自室に引きこもるしかなかった。何も食べさせてもらえず、お風呂にも入れずに翌日学校へ行くことも珍しくなかった。習い事はもちろん、塾にも通わせてもらえなかった。友達と遊ぶことさえ、「時間の無駄だよ、勉強でもしてな」と言われて許されなかった。

 学校では「おまえ、親がいないんだろ」とか「あんたはもらわれっ子で、家でも嫌われているんでしょ」などと同級生の苛めを受けたが、先生達は見て見ぬ振りをしていた。仲の良い友達もできず、亜由美は誰にも悩みを打ち明けることができなかった。

「よく手首を切ったり、線路に飛び込んだりしなかったものですよ。親の資格もない男が偉そうに言えることではありませんが、よくそんなひどい生活に耐えて頑張ってくれたと思います」

 木村さんが声を震わせた。泣き出しそうになるのを必死で堪えているのが、春子にもわかった。

 そんな祖父母との生活がまだましだったと亜由美が気づいたのは、小学校を終える直前に祖母が肺炎で、その半年後に祖父が脳梗塞で急死してからだった。

 葬儀が終わるなり、誰が亜由美を引き取るかで、伯父達や伯母達が激しく言い争った。父親つまり木村さんに引き取らせたらどうかという意見も出たのだが、一族としての世間体もあった。結局、生前の母と比較的仲の良かった一番上の伯父が亜由美を引き取ることになった。

「いいか、今日からは伯父さんの家の子だ。伯父さんをお父さんだと思って、よく言うことを聞くんだぞ」

 伯父が亜由美の頭に手を当てて諭すように言ったとき、これでようやく自分にも家庭らしい家庭ができるのかと思って、亜由美はほっとした。

 だが、伯父の家での暮らしは地獄そのものだった。伯父は仕事で留守がちで、義理の伯母は余分な負担を押しつけられたと思い、祖父母以上に亜由美に冷たく当たった。

祖父母の家では暴言を吐かれ放っておかれるだけだったが、伯父の家では女中代わりに容赦なくこき使われた。いとこ達にも「なんでおまえなんかがこの家に来るんだよ」とこづかれ、苛められた。

 伯父と義理の伯母が何度も激しい夫婦喧嘩を繰り返した挙句、伯父の家庭の平穏と亜由美の健全な成長のためという理由で、彼女は二番目の伯父の家へ追い出された。

 そこでも生活は変わらなかった。更に三人の伯母の家を転々とし、また最初の伯父の家へ戻されるといった具合に、亜由美は親戚の間でたらい回しにされた。伯父達も伯母達も他人に対しては愛想が良かったが、勘当同然だった妹の産んだ亜由美のことなど、誰も本気で心配してはいなかった。

 親戚の無関心と虐待がいつしか亜由美の心を蝕み、歪めていった。

「今更恨んでも仕方ありませんが、あの伯父伯母達のせいで、亜由美はすっかりいじけた、暗い、すれた子になってしまいました。私が引き取ってやれば良かったのに、亜由美を追い出したと後ろ指を指されたくなくて、あの親戚連中は私に嘘をついていたんです」

 何もかもうまくいっているから養育料だけ払い続けてくれればいい。亜由美に会って気持を乱さないで欲しい。伯父伯母達はそう言って、虐待を隠していた。

「亜由美も私を嫌っていたから、自分から助けを求めようとしてくれませんでした。どんなに苛められても、親戚の家で耐えるしかないと思い込んでいたんです。私が……実の父親がいたのに」

 木村さんはもう涙を隠そうとしなかった。

肩を震わせて男泣きに泣いていた。

 亜由美が最低の成績で義務教育を終えると、中卒の親戚がいては困るとまたも体面を気にした一番上の伯父が、郊外にある全寮制の私立の女子高に亜由美を入れた。

 そこは、学費が高いだけあって施設は立派だったが、学業の面でも部活動の面でも実績のある高校ではなかった。各中学の落ちこぼれや不良を集めてようやく経営の成り立っている高校だった。

だが、大学の付属高なので、事実上無条件でその大学へ進学することができる。退学さえしなければ大卒の肩書きがつく。

「あんたみたいなろくでなしにはぴったりの学校ね」と義理の伯母が嘲笑した。亜由美が出て行くことが決まって、伯母はようやく晴れ晴れとした顔をしていた。もちろん、亜由美がこの高校への進学を希望していると言われて学費や寮費の一切を負担したのは、実父の木村さんだった。

亜由美は、ついに伯父の家を離れることができた。しかし、成長過程で親戚や同級生達に苛められ続け、一人でいるのが一番気楽になった少女にとって、三人一部屋で常に集団生活を強いられる寮生活は苦痛以外の何物でもなかった。

 もともと、問題児ばかり集めて出来上がったような高校だから、女子高とはいえ暴力沙汰が絶えなかった。郊外にあり基本的に外出禁止だったにもかかわらず、妊娠して堕胎したり、父親のわからない赤ん坊を産んで退学したりする生徒も少なくなかった。

 学校側は、学業以前に生徒の生活指導に神経を尖らせ、スカート丈の規定など無意味な校則をやたらと増やし、締め付けをきつくしていった。亜由美は、あまりの息苦しさにとうとうやりきれなくなった。

入学後一年あまりで近くのコンビニでわざと万引きをし、注意した店員に暴力を振るって怪我をさせ、望み通り退学処分になった。学校から呼び出された伯父夫婦に「おまえなどもう姪でも何でもない。一族の恥さらしめ」と叱責されたが、家を出ている以上、もはや痛くも痒くもなかった。

「あんたこそ伯父でも何でもないよ。子供だったあたしに何をしてくれたっていうのさ。さんざんこき使いやがって、こっちこそ身内だなんて思っちゃいないよ」と睨みつけ、伯父夫婦が隠しておきたかった虐待の数々を、教員達のいる前で暴露して恥をかかせてやった。それが、子供時代を台無しにされた亜由美のささやかな復讐だった。

「これが私の一人娘の辿ってきた人生です」

 涙ながらに語り終えた木村さんは肩を落とした。

「ひどい。ひどすぎるわ」

「親戚と言ったって、あんなものなんですよ。未来ある子供を踏みつけにしたくせに、さんざん世話をしてやったのに裏切られたなんて言うんですから。学校だって何もしてくれなかった。世の中、そんなもんですかね」

 木村さんは吐き捨てるように言った。

「亜由美は母親と死に別れて以来、人間の冷たさを肌で感じて育ってきた子です。学校を追い出され、伯父夫婦に愛想を尽かされ、やっと私の手元に戻って来ました」

「それからはずっと親子水入らずで過ごせているのね」

いつの間にか牡丹雪はやんで、夜空の雲が切れかかっていた。春子も木村さんも傘を閉じた。天気予報よりも早く雪雲が通り過ぎたようだった。

 だが、外気はますます冷たくなってきた。スプリングコートでは夜気を防ぐのに足りず、ヒールを履いた爪先からも冷えがしんしんと忍び込んで来た。

「水入らずは水入らずですが、小説や映画みたいに、そう簡単にハッピーエンドにはならないんですよ」

 木村さんが再び溜め息をついた。牡丹雪がおまけのように二、三片降った。

 浮気をして離婚の原因を作った木村さんのことを、もともと亜由美は嫌い恨んでいた。高校を追い出され、伯父夫婦からも見捨てられ、生きていくために父と暮らし始めたが、木村さんが話しかけてもろくに口をきかなかった。夜更かし朝寝坊のだらしない生活を続け、木村さんが作った食事を食べ、一日中何をするでもなく自室でスマホをいじっているだけだった。

「あいつにしてみたら、やっと小言を言われたりこき使われたりすることのない、安息の場所を得られたという思いだったのかも知れません」

だが、まさかずっと引きこもりみたいな生活を続けるわけにはいかない。木村さんは亜由美の将来が心配でたまらなかった。

「私だってもう六十代です。私が死んだらこの子はどうなるのかと思うと、いてもたってもいられません」

 わかるわと安直に言いかけて、春子は慌てて口をつぐんだ。わからない……自分にはきっとわからない。結婚したこともなく子供もいない自分には、木村さんの心配に本当に寄り添うことはできない。木村さんだって、どうせ春子にはわからないと思っていたから、これまで何も言わなかったのではないのか。

 春子は、俳句だけでなく人生についても、石田先生にあれこれと相談していた。石田先生に相談しても必ずしも役に立つ助言を得られるわけではなかったのだが、先生が孫を見るような目で愛おしそうに春子を眺め、「あなたも大変ですねえ」とか「いい決断をしましたね」などと言いながらうなずいてくれるだけで、何となくほっとした気持になった。

 それは春子がまだ若く、人になつくことのできる年頃だったからかも知れない。当時の春子はまだ二十代だったが、木村さんは六十代で春子よりもずっと年上だ。

 だが、大変な事情を抱えていながら、今まで何も言ってくれなかったことはやはり淋しかった。石田先生と自分との師弟関係に比べたら、あまりにも淡く素っ気なかった。これで師匠と弟子と言えるのやら。春子は、自分の至らなさを思い知らされた気がした。

「本当にこの先どうなるのでしょうか」

 木村さんが暗い声で言った。

「私もできるだけのことはやったんですよ。この世の中、高校くらい卒業していなければ話にもなりませんからね」

 亜由美は嫌がったが、成績については何も文句を言わないという条件で説得し、通信制の高校を何とか卒業させた。亜由美には短大や大学に行く気も十分な学力もなかったので、手に職をつけて生きていけるように専門学校に通わせることにした。

 だが、亜由美には本気でやりたいことがなく、何にも興味を示さなかった。

ようやく通い出したと思ったら、芸能界に憧れて俳優や歌手の養成所。ろくに才能もないのにイラストレーターの専門学校。その後も「おしゃれな職業でなくては嫌よ」と美容師、アロマセラピスト、ネイルアーティストの専門学校。世の中におしゃれに見える職業はあってもおしゃれな職業などないのだが、亜由美はそんなことは考えもせず、まして木村さんの親心など気づきもせず、なりたい職業を思いつきでころころ変えた。

 そんな調子だったから、せっかく専門学校に入ってもすぐに飽きて通わなくなり、授業についていけずに退学してしまう。別の専門学校に入っても、同じことの繰返しだった。親戚の家を転々としていたときのように専門学校を渡り歩いただけで、何の技術も身につかず資格も全く取れなかった。

「親馬鹿かも知れませんが、小さいときは何でも一生懸命取り組む子だったんですよ。そう思うと余計にやりきれなくて」

 専門学校が駄目ならば就職させようと地元企業の面接を受けさせてみたが、亜由美は態度が悪く片っ端から落ちた。稀に受かっても、三日と続かなかった。ちょっと失敗をして上司や先輩に注意されると、それだけで激怒して辞めてしまった。社会人としての姿勢がまるでできていなかった。

木村さんは困り果てた。だが、亜由美に後ろめたさを感じていたために強く言うこともできず、誰にも相談できず、ただ無為に年月が流れた。

 だんだん木村さんと口をきくようにはなったものの、亜由美は決して「お父さん」とは呼ばなかった。ただ「あんた」と言うだけだった。無駄に二十代の数年を過ごして気がついたらはや二十七歳、無職のままもうすぐ三十の大台に手が届こうとしていた。

 ああいう育ち方をしたのだから無理もなかったが、亜由美には友達がいなかった。二十歳前後の頃は時々男性とつき合っていたようだったが、最近ではそれもなくなりひとりぼっちになっていた。

 木村さんは亜由美の行く末が気にかかって仕方がなかったが、本人は「大丈夫、いざとなったら野垂れ死にするから」と気にする様子もない。スマホ片手に床に寝そべりながら、時々夢のような戯言を言うだけだった。

「戯言ってどんな?」

「絶対無理なことですよ」

 木村さんは呆れ果てたように言った。

「あいつときたら、小説家になりたいなんて言うんですよ。印税生活は楽だし、小説家はちやほやされてかっこよさそうだからって」

「小説が好きなの?」

「とんでもない」

 木村さんの声はますます暗くなった。

「あいつは小説なんか読んじゃいませんよ。小説に興味なんかありません」

 小説に全く興味がないのに小説家になるのは、いくらなんでも無理だろう。

「あいつは、最初俳優や歌手の養成所に通ったくらいですから、本当は芸能人になりたかったんですよ。親の欲目もあるでしょうが、ルックスは悪くないですからね」

「そうね」

 春子はAMIの写真を思い出していた。ビジュアル的にいけると思ったから、永山さんもAMIの売り出しに熱心になったのだ。

「芸能界で一発当たれば有名人になれるし、テレビに出られるし、ネットでも評判になるし、大金持になれるなんて馬鹿なことを言ったんですよ」

 その一発を当てるのがどれほど大変か、芸能界がどれだけ競争が厳しくて浮き沈みの激しい世界か、亜由美は何もわかっていなかった。特に女性の芸能人はちやほやされるのは若いうちだけで、年をとったらポイとされるのが大半なのに、そんなことはまるで考えていなかった。

 自分だけはきっとうまくいくと都合良く思い込んでオーディションを受け続けたが、集まってきたのは亜由美を遙かに凌ぐ本物の美人ばかりだった。十回連続してオーディションに落ち、木村さんの猛反対もあって、芸能人になる夢は諦めた。

「そんなに反対するなら芸能界はやめるとあいつが言ってくれて、ほっとしたのも束の間でした。今度は、その代わりに小説家になりたいって言い出したんですよ」

「だけど、もし小説家になれたとしても、小説を書くのが好きじゃなかったら、毎日ただつらいだけじゃない」 

 芸能人ならば、若さやルックスだけではなくて、歌や芝居ができなければ話にならない。小説家ならば、まず書けないことには仕方がない。机に向かって何百枚でも書く覚悟がなければどうしようもない。

 春子の言葉に、木村さんは我が意を得たりとばかりにうなずいた。

「私もそう言って聞かせたんです。そしたら、あいつ、何て言ったと思いますか」

「さあ……」

「じゃあ俳人にしようかな、俳句なら短くてすむからって言ったんですよ」

 春子は言葉に詰まった。木村さんは、どうしようもないと言わんばかりに両手を大きく広げた。

「まあ、私が俳句をやっていることもあったんでしょうがね」

 木村さんはきまり悪そうに言った。

 小説だけで食べていける小説家なんて殆どいない。ましてや、句集の売れないことが定めのような俳人は、九十九%以上が他に職業を持っているか、誰かに養われているのが現実だ。

 だから、自分で稼いで生きていけるようにするのが先だ、と木村さんは説いて聞かせた。いい年をしていつまでも夢ばかり見ているんじゃない、とも口を酸っぱくして言った。

「でも、私も、不純な動機からとはいえ、あの子が俳句を作り出したのが嬉しかったんですかねえ」

 亜由美は自分の作った俳句を木村さんに見せ、木村さんは毎晩のように手ほどきをした。約十年間も同じ屋根の下に暮らしながら、父と娘がまともに会話をし、何かを一緒にするのは初めてのことだった。亜由美がやっと少し心を開いてくれたような気がして、木村さんは嬉しかった。

「先生にはおわかりいただけないかも知れませんが、父親っていうのは娘の機嫌が気になるものでして……情けないんですが、どうしようもなくってね。やっぱり嬉しかったのかも知れませんね。あの子が何かに熱心に取り組むなんて、一緒に暮らし始めて以来初めてのことでしたから」

 木村さんは亜由美に歳時記を見せ、入門書も買い与えた。「デネブ」を見せ、総合誌を手渡し、子規や虚子をはじめとした著名な俳人達の句集が自宅の本棚のどこにあるかも教えた。

 亜由美がどれだけ読んだかはわからないが、木村さんの目には、娘の句がめきめきと上達しているように見えた。

「私も親馬鹿ですから、芭蕉先生の有名な言葉を思い出して、こいつは何をやっても駄目だけれども俳句だけはいいんじゃないか、と思いました。いずれ春子先生にお願いして『デネブ』に入れていただければ、と夢見たこともありました。私よりも才能はあると今でも思っています」

 「芭蕉先生の有名な言葉」とはもちろん、春子もすがり続けてきた「つひに無能無芸にして只此一筋に繋る」である。

「お預かりしていた『桜八景』も、どうだ、お父さんの先生はこんなに凄い作品を書く人なんだぞ、という気持で見せました。あいつも感心して読んでいました。まさかあんなことをしでかすとは思わなかった」

 春子の全身を緊張感が走った。

 やはり、木村さんが亜由美に『桜八景』を見せたのだ。そんなことさえしなければ、盗作事件など起こらなかっただろうに。

「いや、正確に言えば」

 木村さんはややうろたえた様子で訂正した。

「しでかしてしまったのは私なんです。春子先生、全部私がいけないんです。本当に申し訳ございませんでした」

 そう言うと、木村さんは地面にとどくくらい深々と頭を下げた。

「あなたがしでかした?一体どういうことなの?とにかく頭を上げてちょうだい」

「先生……だから、私が盗作犯なんですよ」

 春子の言葉に頭を上げ、木村さんは伏し目がちに告白した。春子は戸惑った。亜由美がしでかしたのならわかるが、なぜ木村さんがしでかさなければならないのか。

 春子の問いに、木村さんは一言ずつ噛みしめるようにして言った。

 娘可愛さで、『桜八景』を『夜桜お七』と改題して『俳句群像』新人賞に応募してしまった。『桜八景』ならば間違いなく新人賞を取る。そして娘はスターになれる。そう確信して、いけないと知りつつもつい魔がさしてしまった。

「やっとあの子にも生きがいができると思って……」

 春子は黙っていた。何と言ったらいいかわからなかった。木村さんの関与は間違いないと思っていたが、実際に告白されると、想像していた以上の衝撃だった。しかも、『夜桜お七』を応募したのは亜由美ではなく木村さんだという。ずっと「デネブ」を支えてきてくれた木村さんが、娘のために平気で春子を裏切ったのか。この世はユダで溢れかえっているのか。 

 しかし、亜由美の身の上話を聞いた後では、怒りよりも虚脱感の方が先に立った。

「私は、先生が私に原稿を送った後、元データを消去してしまうことを知っていました」

「ええ……だから保管をよろしくねって話したことがあったわね」

「ですので、先生から『桜八景』をいただいた日がばれないために、私のパソコンからメールを消去しました。その後で、念のためパソコンも廃棄処分にしました。亜由美にもパソコンを捨てさせました。すべては証拠を完全に隠滅するためです」

これでもう、『桜八景』が先か『夜桜お七』が先かは永遠にわからない。疑惑は疑惑のままで、証拠はいくら探しても入手できない。 

そして、亜由美はAMIとして俳壇に華々しくデビューした。

「私のこの自白だって、作り話だ、本当は何も知らないと後で言えばそれまでですからね。だから、本当に証拠は何もないんですよ」

「何ですって」

「いや、戯れ言ですよ、先生」

 まるで春子を脅すかのように言った後で、木村さんはやれやれと言わんばかりに大きな溜め息をついた。

「全く、先生を相手にこんな恩知らずなことを言うなんて、自分でも情けない限りです。でも、これが馬鹿な親父、不肖の弟子のしでかしたことなんですよ。お許しいただけるとはもちろん思っておりませんが、本当に申し訳ございませんでした」

 木村さんは再び深々と頭を垂れた。

「直接御挨拶もせず、突然編集長の職責を放り出して『デネブ』を退会してしまったことも、お詫び申し上げます。でも、先生を裏切ってしまった以上、もう『デネブ』にはいられませんでした。先生と顔を合わせる勇気もありませんでした」

 木村さんはうなだれたまま、呟くように言った。

「自分で自分が嫌になりましてね。亜由美を連れて姿をくらましたくなったんです」

 夜空を雲が流れて、その合間から砂粒のように小さな星が幾つも輝いて見えた。木村さんの声は震えていた。暗い上に下を向いていてよく見えなかったが、目には涙が浮かんでいるのかも知れなかった。

清濁併せ呑む。

 石田先生の言葉が春子の脳裏をよぎった。

木村さんはとんでもない裏切り行為をした。娘のために師の作品を盗んで新人賞に応募するなど、いまだかつて聞いたことがない。もってのほかだ。木村さんのしたことは、一人の人間としても俳人としても弟子としても、到底許されないことだ。

 だが、亜由美の生い立ちには同情せずにいられない。春子だってあんな育ち方をしたら人間不信に陥り、自暴自棄になるだろう。自分はたまたま恵まれていただけだ。石田先生ならばこの濁を吞むだろうか。

 それにしても、自力で賞を取ったわけでもないのに、この父娘はこの先どうするつもりなのか。初心者が一人前の作家としてやっていけるほど、俳壇は甘い世界ではない。永山さんだって、盗作が単なる疑惑ではなく事実であることを知ったら、あるいはAMIの実力が伴わないことを知ったら、態度を豹変させるだろう。

「私がなんとかしますよ。ついては、春子先生、一つだけお願いさせていただけないでしょうか」

 木村さんの声には必死の思いがこもっていた。

「こんなことを申し上げたら、なんてずうずうしい男だと思われることでしょう。でも、春子先生はもう俳壇に名をなしていらっしゃる方です。お願いです、この通りです。どうか亜由美を暫く見逃してやっていただけないでしょうか」

 そう言うと、木村さんはいきなり土下座をした。地面に額をこすりつけたまま、春子がいくら「やめて、土下座なんてやめてちょうだいよ」と言っても顔を上げようとしない。

「暫くの間で結構です。春子先生、どうか、私の娘を見逃してやって下さい。お願いいたします。見逃して下さるのでしたら、何でもいたします」

 娘のためにそこまでするのか。これが、業のような父親の情なのか。

 春子は納得できなかった。

「遅かれ早かれ、いずれ化けの皮ははがれるでしょう。AMIは偽りの『大器』、偽りの『天才』です」

 木村さんは自嘲するように「ふふふ」と笑った。自棄っぱちの笑い声だった。

「ですが、化けの皮がはがれるまで暫くの間、盗作を黙っていていただけないでしょうか。『桜八景』の発表を延期していただけないでしょうか」

「発表を延期?そんなことはできないわ。第一、『桜八景』の原稿はもう印刷所に入っているのよ」

「厚かましいお願いをしているのは、重々承知しております。そこを曲げて、何とかお願いできないでしょうか。お金で片を付けようなどという卑しいつもりは毛頭ありませんが、『デネブ』の運営資金にも、お詫びの気持としてそれなりの額を寄付させていただくつもりでおります。ですから、先生、どうかよろしくお願いいたします。どうかよろしく……どうか……」

 哀願する声は次第に涙声に変わった。

 証拠はすべて隠滅されている。だが、選考委員達は、本当に新人があれだけの高いレベルの句を五十句も揃えられたのか、内心では不審に思っているのではないか。『夜桜お七』と『桜八景』を見比べたならば、瞬時に『夜桜お七』こそ盗作だと見抜くだろう。俳句の「素人」の永山編集長を騙すことはできても、選考委員達の目も主宰クラスの俳人達の目も欺くことはできないだろう。

 木村さんはそれを恐れていた。『桜八景』が「デネブ」四月号に発表された時点で、AMIの命運は恐らく尽きるだろう。そうでなくても、実力が伴わなければ淘汰されるのは時間の問題だが。

「それでも、私はあの子の父親です。こうなってしまった以上……こんなことになってしまった以上は、あいつを守ってやりますよ。亜由美を守れるのは私しかいないんですから」

 こうなってしまった以上……こんなことになってしまった以上……。

 その言い方に違和感があった。木村さん自らが悪事を働いたというよりも、悪事が天から降ってきてしまったという感じの言い方だった。

「たとえ一時でも、亜由美にスポットライトを浴びさせてやりたいんです。あいつの人生で明るく楽しいことは、母親と死に別れてからこれまで一度もなかったんです。偽りのスポットライトを堪能したら、怪しまれないうちに速やかに引退させます。ですから、先生、どうか暫く……何とぞ暫く……」

 最後の声は、地中に吸い込まれるようにして消えた。

 実力もないのにスポットライトを浴びたがる娘のために、父親はここまでするのか。たとえ春子が『桜八景』の発表を延期したところで、いったん華やかなスポットライトを浴びてしまった亜由美は、いい気になってますます駄目人間になるだけではないのか。

 嘘だ。木村さんは嘘をついている。

 遅まきながら、春子はようやく見抜いた。

 亜由美の将来を案じている木村さんが、こんな馬鹿げたことをするはずがない。木村さんは本来真面目な人だ。娘に生きがいを与えるためならば、もっとまともな方法を探すはずだ。

「木村さん」

 春子は静かに言った。

「嘘はおよしなさい。亜由美さんのためになりませんよ」

「う、嘘なんかついていませんよ、先生」

 木村さんがぎょっとしたように顔を上げた。その慌てぶりがすべてを物語っていた。

「私は結婚したこともないし、親にもなっていません。あなたから見たら半端者かも知れないわ。でも、だからこそ、他人として冷静に物事が見えます」

 春子は大きく息を吸って言った。

「『桜八景』を盗んだのはあなたじゃないわ。あなたは盗作をした亜由美さんを庇っているだけね」

 春子の一言に木村さんは動揺し、「そんなことはありません」「私です」「私が犯人です」と何度も泣きそうな声で繰り返した。だが、ついに地面に両手両膝をついたまま、がっくりとうなだれた。

 夜空の雲はすっかり吹き払われ、星空に君臨するように月が昇り始めていた。さっき二人で通ってきた並木道の夜桜が、冷たい月光に照らし出されて揺れ動いていた。そのざわめきは、十分な距離を置いてもなお伝わってきた。

 誰もいなくなった並木道を、今頃は鬼が疾駆しているかも知れない。

 春子は目を閉じた。

 幻を見ることのできる者だけに見える鬼。普段は人間の心の闇に潜み隠れていて、夜桜の咲き満ちたときに現れる鬼。人間の心の闇は深く果てしなく、その深淵を覗き込んだら破滅するほどの絶望しかない。

だが、闇があるからこそ桜は美しく、闇があればこそ桜は咲き誇る。

「さあ、木村さん、立ってちょうだい」

 春子はうちひしがれた木村さんの手を取って立ち上がらせた。

最初から見抜いていてあげても良かった。結社の主宰になり人の上に立つというのは、石田先生の言う通り清濁併せ呑むということだ。石田先生のような良い師になろうとするならば、最初から見抜いていてあげるべきだった。

 木村さんは、たとえ娘のためであっても盗作などする人ではない。面倒見のいい、根っからの善人だ。

だが、『桜八景』を読んだ亜由美が功名心に駆られ、勝手に『夜桜お七』と改題して、『俳句群像』の編集部に押しかけた。永山編集長といい具合に話が進み、勧められるままに木村さんに黙って新人賞に応募してしまった。受賞を知った木村さんは、あまりのことに言葉を失った。

 だが、不幸な生い立ちの娘が不憫で、永山さんに本当のことを言うことができなかった。木村さんは亜由美を連れて春子達の前から姿を消し、証拠を隠滅した。しかし、いよいよ盗作がばれそうになったので春子を呼び出し、自分を盗作犯にしてせめて亜由美を庇おうとしたのだった。

「先生……さすがですよ。よく見抜かれましたね。私は俳句だけじゃなくて、嘘も下手なんですかねえ」

 木村さんは自嘲するように弱々しく笑った。立ち上がったもののふらふらとして、目がうつろだった。

宮川家の墓石にも、晴れ渡った夜空から月光が降り注いでいた。薄く降り積もった牡丹雪が、夜なのに溶け始めて清らかに匂い、墓石をうっすらと濡らしていた。話をすべて聞いた後では、春光佳葉信女の戒名が一際哀れに見えた。

「木村さん、亡くなった奥様の前で嘘をついたりしてはいけないわ。奥様も、亜由美さんが立ち直ることを何よりも望んでいらっしゃるはずよ」

「そうですね」

 木村さんはますますうなだれた。

「私はどうしようもない馬鹿者でした。盗作がわかったときにあいつを叱り飛ばして、皆さんに本当のことを言うべきでしたのに。あいつを守りたい一心で嘘を通そうとしたために、先生にも皆さんにも大変なご迷惑をおかけすることになってしまいました」

 人間の心の奥底からは、時折鬼の息吹が噴き上げる。木村さんのような善人の心も、もともとは純粋な女の子だった亜由美の心も、状況次第で鬼はあっさりと支配してしまう。人間とはつくづく因果な生き物だ。互いに裏切り合い、憎み合いながら生きることしかできない。

 春子だって、木村さんや亜由美に怒りを覚えないわけではない。亜由美の身の上には同情するが、『夜桜お七』が『桜八景』を押しのけてスポットライトを浴びるような不正がまかり通るならば、春子もまた鬼女となるだろう。自分の作品のためなら何でもしかねない醜悪な鬼が身の内に潜んでいることくらい、嫌と言うほどわかっている。「一筋に繋」ろうと思い詰めることは、ある意味狂気を宿すことでもあるからだ。

 それでも、人間は人間なしには生きていけない。人の世は人間なしには成り立たない。

「清濁併せ呑むことが大切です」と言い続けた石田先生の真意は、「どんな人間の心にも鬼がいます。人間と生まれた以上は、その鬼と付き合っていかなければいけないんですよ。自分の鬼とも、他人様の鬼ともね」ということではなかったか。先生の温顔の下にだって、並々ならぬ鬼が潜んでいたはずだ。

「先生、私達父娘はこれからどうしたらいいんでしょう」

 木村さんが途方に暮れたように言った。

「やるべきことをおやりなさい。私が言わなくてもわかっているでしょう。やるべきことをやってくれたら、私はもう何も言わないわ」

『桜八景』は予定通り「デネブ」四月号に発表する。亜由美は永山さんが沖縄出張から戻り次第お詫びに行き、新人賞を辞退する。木村さんは「デネブ」編集部の面々に詫びる。

「『俳句群像』ですが、私が代わりにお詫びに行くのでは駄目でしょうか。正直言って、あいつを説得できる自信がないんです。盗作がばれかけていると知って以来、また部屋に閉じこもってしまって」

木村さんはうつむいた。春子も困惑した。父娘の問題に、他人である自分が踏み込むことは難しい。

「でも、そこから始めないといけないでしょ」

 一番大事なのは、亜由美が何とか一人で生きていけるようにすることだ。一人で生きていくということは、大人としての責任を引き受けることだ。ならば、亜由美の代わりに木村さんがお詫びに行くなどという甘やかしは厳禁ではないのか。

「何をやるにしても忍耐がいるし、大人の世界にはそれなりのルールがあるわ。どんな仕事でも、俳句でも、亜由美さんの憧れる芸能でも。まともな大人がみんな辛抱して努力していることを教えてあげないと」

「はい。わかってはいるのですが……」

 春子は、うなだれたまま短く答えた木村さんを見た。

今こそ石田先生の教えを守ろう。神でも仏でもなく身の内に鬼を宿している人間である以上、感情のしこりは暫く残るだろうが、あえて清濁併せ呑もう。どうしていいかわからずにいる木村さんに手を差しのべよう。

「私も手伝うから。これだけ身の上話を聞かせてもらったのよ。亜由美さんを放っておけるわけがないじゃないの」

「はい……でも、娘のことで先生のお手を煩わせてはいけませんから」

「大丈夫、気にしないで。石田先生はお弟子さんをとても大事にする人だったの。先生が今ここにいたら、亜由美さんを放っておくなと私に言うに違いないわ。だから一人で抱え込まないで」

 心細そうにしている木村さんに、春子は力強く請け合った。どう手伝ったらいいか今すぐにはわからないが、春子はいったん口にした約束を破ったことはない。他人に知られたくないと木村さんは思っているかも知れないが、正直に事情を打ち明ければ、編集部の四人も高雲寺の住職も力になってくれるだろう。

「それからもう一つ言わせて欲しいの。私を見て」

「はい」

 木村さんが顔を上げた。二人の目がぴたりと合った。

「『デネブ』はもともと、あなたの勧めで創刊したのよ。そのことを忘れないで。すぐには無理かも知れないけれど、あなたはいずれまた戻って来ていいのよ」

 木村さんは心底驚いた様子だった。

「だって、私はこんなことをしたのに。それに、俳句もずっと下手なままだし」

「もう一度振り出しに戻ってやりましょうよ。私や『デネブ』の仲間達と一緒に。あなたが編集長としてどれだけ『デネブ』に尽くしてくれたか、私も編集部のみんなもよく知っているから」

 時間はかかるかも知れない。だが、みんなきっと許してくれるだろう。春子もまだ十分気持の整理ができないでいるが、木村さんのお詫びを受け入れようとしている。

「こんなに大変な思いをしてきたあなたを放っておけないもの」

 春子は再び夜空を見上げた。空の高みへ昇りつつある月は、皓々とした光で下界の命を包み込んでいた。地に咲く桜は、天界からの呼びかけに応じるように、溶けかかった雪に飾られながら揺れ続けていた。

 これぞ雪月花だ。すがすがしい夜だ。

 こんな夜にこそ『桜八景』を捧げたい。「デネブ」の主宰として、残りの人生を石田先生のように俳句の道を突っ走っていきたい。いずれ両親を失いたった一人になっても、「無能無芸」であっても、『デネブ』の仲間と一緒に「此一筋」に繋がりたい。

 先生、それでいいですよね。マイペースで気の短い私も少しは成長しましたよね。

 春子は心の中で石田先生に呼びかけた。石田先生はずっと春子の心の支えだ。生者は死者に支えられてこの世にいる。

 深まりゆく春、やがて行こうとする春に泣くのは鳥や魚だけではない。人間も泣く。鬼に心を惑わされては泣く。それでも時は巡り美しい桜が咲く。季節はずれの雪が降り月も昇る。今夜の雪月花がこの世の美しさ、はかなさを教えてくれる。

「さあ、帰りましょう」

 春子は木村さんに微笑んだ。

「あなたが戻ってくれないと困るのよ」              (完)


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