何故、戻ってきた?
いつも通りの時間に出社し、洗濯機に前日着ていた作業ツナギを放り込み、工場のコンプレッサーに電源を入れてからタイムカードを押す。
それが私のいつもの行動パターン。余裕を持って営業前準備をしたいので、他社員より出社するのが早い。
細かい内容は割愛するけど、自動車整備工場なので、お客の預り車両を移動するのも準備の1つ。焦ってぶつけたりしたら朝から最悪だしね。
え? 先に準備を殆ど終わらせてしまって、他社員が怠慢にならないかって? あー、いいのいいの。アイツらもそれに甘んじて、時間ギリギリに出勤するのは今に始まったことではないし、余った時間で朝礼前に一息つきたいし、時間が余れば仕事の続きをしたり『なろう』を読んだりきるし。言ってしまえば私の自分勝手な自己満足。真面目なように見せかけて実は不真面目。それが私。文句は言わせない。
そういえば昔、文句言ってきたアイツは社内不倫がバレて、怒り狂った嫁さんが会社に乗り込んできて退社するハメになったっけな。安全な場所から奇麗事を言って他人を打ちすえ、自分に酔うタイプの奴だったけど、末路がそれじゃあ格好がつかないよなぁ。
「俺の自由で、俺の自業自得です」って捨て台詞が印象に残っている。
純愛にみせかけた凌辱ってやつ? ちょっとちがうか、ハハッ。
って、そんなことはどうでもいいか。
2番目に早く出勤する正英くんに挨拶をし、一段落したので休憩する。
正英くんは1番若い社員ながらも、なかなか気骨のある男で言われなくてもやることはキッチリやる好青年なので私からの印象は良い。テンションが上がってくると80年代の歌謡曲を口ずさむ渋い趣味をお持ちという情報は余計なことかな?
工場内に備え付けられたストーブの周りが休憩場も兼ねているのだけど(まだ寒い季節ではないので稼働はしていない)、そこで休憩がてら携帯電話を見ていると、ふと、緑の物体が視界に入ったので視線を移してみる。
緑の正体はストーブにしがみついて微動だにしない蟷螂だった。
「正英くん、ここに守護者がいる」
理解されないだろうなと思いながらも、○ウルの動く城のアイツをイメージしながら冗談を言ってみる。
「ああ、コイツ先週は向こう側のリフトにいましたよ」
そういって正英くんは、少しはなれた場所にある車両を持ち上げて作業する用の2柱リフトを指差す。
普通に返された。おじさん悲しい。
工場に迷いこんだ蟷螂だろうな。工場の裏手は道路と用水路を挟んで田んぼになっているので、特に田舎じゃ珍しいことでもないが、先週から迷いこんでいるのであれば、弱っていて田んぼに逃がしてやっても命は短いだろう。と思いつつも、偽善行為であろうと騒がしい工場よりはマシだろう、あとで逃がしてやろうと考えていると
「おはようござっすー」
しまりの無い挨拶をして、三郎くんが出社した。
いつも通り時間はギリギリ、準備もしないで煙草に火を着ける様子に呆れつつも、いつしか諦めて注意する気になれない私もいけないんだよな、と自虐しつつ挨拶を返す。
「うわ、なんだコイツ、びっくりしたー」
蟷螂に気付いた三郎くんが素頓狂な声を上げる。
パワー系DQNっぽい三郎くんは、工場に迷いこんだ虫や蛙を意味なく甚振る悪趣味の持ち主である。捕まえた虫の手足をもいで蟻の巣の上に置いて定期的に観察したり、バケツに汲んだ水に蟷螂を浸けてハリガネムシを出そうとしたりと。
いいから仕事しろと。いや、割りと仕事はできる方なんだけどね。
また余計な情報だけど、嫁と子供を2回捨てたバツ2の自由人で、残酷な童心を残したままおっさんに成長するとか末恐しいのが三郎くんという人物。
過去の例に漏れず、三郎くんは蟷螂を甚振ろうと、今回は煙草の火を押し付けようとしている。
「わかったわかった。そいつは俺が処理するから」
可哀相とか、無益な殺生をするな、とか、声高に御高説をたれるつもりは毛頭ない。恥ずいし。
ただ、気分が悪いので先程考えていた偽善を敢行しようと蟷螂を捕まえる。コイツよりはマシだよな? と心の中で言い訳しながら。
「正英くん、オムライスさんはこれから水の中に沈んでいくと思う。」
「んなわけあるか! 蟷螂と人間は違うわ」
三郎くんが言っているのは、ハリガネムシに寄生された蟷螂はハリガネムシが産卵するために、水中に誘導されるように操られてしまう。という事象が、蟷螂に触って寄生された私にも起こる。という冗談なんだろうけど、普通に返しておく。
ハ○ルの動く城のネタよりはセンスがある気がするのが地味に悔しいけど、普通に返しておく。
そうして工場の裏手に出ると、もう来るなよ?
と心の中で呟き蟷螂を田んぼに放すと、丁度朝礼の放送が流れたので会議室に移動した。
数時間後、すっかり蟷螂のことなど忘れて仕事に勤しんでいると、午前の中間ミーティングの時間になり放送が流れる。
事務所に社員が集合し、ホワイトボードに貼られた工程表を元に進捗状況を確認しあい、必要に応じて仕事を振り分ける軽い会議のようなものだ。
工場長が私に指示をだす。
「エンジン不調のホ○ダ車がレッカーされてくるから、診断してくれオムライス」
「分かりました」
無難な返事をし、ミーティングが終り暫くすると例のホ○ダ車がレッカーされてくる。
お客と、レッカー業者が、レッカー手続きの処理の話をしている内に、先に挨拶を済ませた私はさっそく診断に取りかかろうと、ホ○ダ車を作業場に移動する。
車両に繋ぐ診断機を取りに行くため、一旦、車両から離れ診断機を持ち、再び戻る途中で、信じられないものを見てしまった。
ホ○ダ車の下で、恐らく前輪に轢かれたであろう蟷螂が、仰向けで大の字になり怨めしそうに此方を見ている姿であった。
今朝、逃がした蟷螂かどうかは定かではないし、此方を見ているというのも気のせいだとは思うのだけど、轢いたのは間違いなく私だ。
自己満足だとは分かっていたけどこの結末は酷い……
『俺は自由にしてたのに、余計なことしやがって。このオナニー野郎』
と言われた気がした。
居た堪れなさと、気味の悪さを感じた私は、結局、蟷螂の亡骸を田んぼに還すのだった。
しかし何故、死にに戻ってきた?
ハリガネムシの仕業? まさかね……
この物語はフィクションであり、実在する人物ㆍ団体とは関係ありません。