急
鋸歯はサメのなごり
羊子が目を覚ますと、見慣れた場所の、見慣れぬ景色がそこにあった。
職場である病院の、入院患者用ベッドの上。
「……あたしは」
カーテンで仕切られた空間のなか呆然と呟けば、クリーム色の波打つ壁の向こうでひとの気配がした。
ああ、ひとだ。生き物の、気配だ。
そんなことに無性に安堵して、ぽろりと目から涙が溢れる。
シャッ
「起きたの……って、なに泣いてるのよ」
「鳴」
呆れたように見下ろす顔が、今はとにかく嬉しい。
ひとこと呼ぶだけ呼んで、あとはただただ泣くばかりになった羊子にため息ひとつ落として、鳴は羊子のベッドに腰掛けた。
「……ごめん」
ぽつりと落とされた言葉に、泣き濡れたまま顔を上げる。
「え?」
「あなた、危なかったのよ」
どことなく気まずげな顔で、鳴が語る。
「日が昇っても、アレは逃げなかった」
羊子の方は向かず、低い声で。
「もし、あなたが気を失わず、日が昇ったからと扉を開けていたら、喰われてたわ」
まるで後悔を告解するキリスト教信者のように、鳴はどこでもない虚空を睨み付けている。
「わたしは、あなたを殺すところだった」
鳴の柳眉が寄り、形の良い唇が噛み締められる。
羊子はそんな鳴を見つめて、問い掛けた。
「あたしは、どうして助かったの?」
朝が来て、そこから記憶がないが、今生きている以上、誰かに助けられたのだろう。それも、鳴の言うことが事実であるのならば、あの恐ろしい化け物を退けて。
鳴は羊子の方を向かないまま、たんたんと答えた。
「朝起きて、トイレに行こうとした患者が見付けて通報したのよ。わたしからツテ使って連絡してあったし、すぐ、しかるべき団体に救助要請が行って、アレは駆除されて、あなたも見付けられた」
「救助に来たひとに、被害は?」
「向こうはプロだもの。怪我ひとつないわ」
鳴が肩をすくめる。
「徹底的に駆除したし、もうこの病院は大丈夫でしょ。また、なにかに目を付けられない限りは」
「鳴の、お陰ね」
「そんなこと」
「鳴がいなかったら、あたしは死んでいたよ」
確信を持って、羊子は言う。
「鳴の助言とスタンガンがなかったら、トイレに逃げ込むことすら出来なかったし、鳴が注意してくれてなかったら、朝までこもってなんていられなかった。スムーズに助けが来たのも、鳴が動いていてくれたからでしょう?あたしは、鳴に生かして貰ったの」
だから、ちゃんと成功報酬は払うからね。
羊子が笑えば、やっと振り向いた鳴が決まり悪そうに笑い返した。
「……ありがと」
「それはこっちの台詞。それより」
聞いて良いのか少しためらいながら、羊子は訊ねる。
「アレは、なんだったの?」
「シバヤギ」
羊子の問いに対する鳴の答えは簡潔だった。
「シバヤギ、って」
「日本在来のヤギよ。小型の家畜品種で、ペットなんかにもされてる」
「あんな口なの?」
そんなはずがないだろうと思いながら羊子が問えば、
「そんなわけないでしょ」
馬鹿じゃないのと言いたげに返された。
「バイオハザードってわけじゃないけど、そんなものよ。キメラみたいなもの」
「それが、なんで病院に」
眉を寄せる羊子をまじまじと見つめて、薄々気づいてはいたけど、と鳴は呟いた。
「あなた知らないのね。シバヤギって、日本の医学関連ではそれなりに使われる実験動物よ」
「え」
「生殖系の研究でね。まあ、昔ほど頻繁には使われてないかもしれないけど、研究機関も併設する大学病院なら、いたっておかしくないでしょ」
ヤギを、実験に。
「だとしても、あんな風になる?」
「そこは」
鳴が、苦笑して片目をすがめた。
「知る必要のないことよ」
立ち上り、羊子の頭に手を伸ばす。
「あなたは、知らない方が良いわ」
どこか遠い表情で言われ、頭をなでられれば、それ以上の問い掛けは投げられなかった。
代わりに、問い掛ける。
「ここのヤギは倒されたけど、似たようなことは、ほかでも起こっているのよね?」
「そうね」
頷いて、鳴は肩をすくめる。
「またなにかあったら、営業時間内に相談に来ると良いわ。有料で助けてあげる」
それ、生還の餞別ね。
言いながら鳴が指差したのは、羊子の命の恩人であるスタンガンだった。
「そうするわ」
頷いた羊子にじゃあねと告げて、鳴は立ち去った。
幸いにも以来今まで、そのスタンガンに出番はない。
あなたの病院は大丈夫ですか?
拙いお話をお読み頂きありがとうございました