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シバヤギの鳴く夜に  作者: ヤギ
2/3

作者に動物虐待を容認する意図はありませんので悪しからず

 

 

 

 吉村さんが行方不明になったことは、翌日、原さんからのラインで知った。

 今時ラインもやっていないメイに、メールで伝える。


 看護師から、二人目の行方不明者だ。


 『生き残りたいなら夜勤に行かないこと』


 鳴の言葉を思い出して、うつむく。


 今日、夜勤に行かなければ、羊子ヨーコが行方不明者に混ざることはない。わけもわからない理由で死ぬことはない。

 でも、人手不足で患者が死ぬかもしれない。


「はぁー……」


 結局、行くしかないのだ。


 メールの着信音に、スマホを取る。


「鳴」


 激励でもくれたのかと思って開けば、本文なしの添付メールだった。


「なにこれ、って、英字新聞?」


 添付されていたのはどうやらネットにアップされたタブロイド記事のスクリーンショットで、なんの意味がと目を通してぎょっとする。


「病院、行方不明者、ヤギの鳴き声って、まるで、うちと一緒じゃない」


 端に印字された日付を見れば1年ほど前のものだった。


「昨日言ってた調べたいことって、これ?」


 類似の出来事がないか、英語圏の新聞まで漁って調べてくれたと言うのだろうか。


「あ、添付一件じゃない。ほかは、ドイツ語と、ロシア語と、え、これ、何語?」


 ドイツ語は大学でかじったので、病院関連の記事であることくらいはわかったが、ロシア語はさすがに読めない。最後の記事に関しては、何語なのかすらわからなかった。


「鳴、いったい何ヵ国語で調べたのよ……」


 その多才さに舌を巻きながら、与えられた情報を噛み砕く。


「つまり、同じようなことがほかの国でも起こってたってこと?」


 組織的な犯罪か、なにがしかの病気か。

 どちらにせよ、世界的に問題になっていないと言うことは、


「大事にならずに終息したか、揉み消されたか」


 添付された記事はどれも、大衆向けの新聞らしいものだった。重大な事件と言うより、センセーショナルなネタとして扱われている書き方。

 ならば例えば、エピデミックが起こるような感染力の高い病原ではないのだろう。


 その点は、少し安心、だろうか。

 実のところ、危機は少しも去っていないけれど。


 それでも、鳴が自分のために真剣に動いてくれていることにいくらか安心して、羊子は小さく息を吐いた。




 夜勤のために出勤すれば、日勤で出勤していた看護師長から、気を付けてと言われた。


 何が敵かもわからないのに、どう気を付けろと言うのだろうか。

 思いながら、鳴から渡されたスタンガンを、ひっそりポケットに忍ばせる。気休め程度の護身具だとしても、あるとないとでは心の持ちようが変わる。


 それでも、自分がなんの力もない弱者であることに変わりはないけれど。


 業務開始までのわずかな時間で、改めて院内の見取りを頭に入れる。覚えきった建物と言えど、効率的な逃走経路なんて視点で見たことはない。いつも漫然と過ごしていた場所を、改めて違う視点で見ると、思った以上に自分が慣れたはずの場所を知らないことに気付かされる。

 だからきっとみんな、非常時に逃げ遅れるのだろう。


「個室が独立した身障者用トイレは、ここと、ここと、ここね。鍵が掛かる場所なら、お風呂場でも……駄目。窓が大きい」


 ぶつぶつと呟く羊子を、今日共に夜勤をする同僚が不審なものを見る目で見た。


「なにしてるの?」

「逃げ道を、考えているのです」

「逃げ道?」

「昨日も、行方不明者が出てしまったから」

「ああ」


 同僚が頷き、吉村さん、と呟く。


「仲良かったものね。あなたたち」

「……たぶん、行方不明になる直前に、電話が来て」

「え?」

「助けてって」


 同僚がしばし固まったあと、小さな声で問い掛ける。


「それ、でも、なんで、片品かたしなさんに?」

「わかりません。途中で切れてしまったし」

「言われたの、助けてだけ?」

「ヤギが、って」

「ヤギ?」


 眉を寄せた同僚が、唸る。


「ヤギに襲われたの?」


 でも、ヤギって草食よね?


「バイオハザード?」


 まるで鳴のようなことを言う同僚に、顔をしかめて返す。


「ヤギゾンビでもいるって?」

「さあ。でも、あり得ない話じゃないじゃない」

「え、どうし」

「交代の時間よ」


 会話は日勤の看護師により断ち切られた。


 はっとして、持ち物と身なりを確認する。問題ない。ポケットにはしっかり、鳴に渡されたスタンガンが入っている。


「あらもうそんな時間。……それじゃ、片品さん、お互い、生き残りましょうね」

「……ええ」


 鳴は、生き残りたいなら見捨てろ、と言った。

 自分はこの同僚を、見捨てることになるのだろうか。




「……落ち着く、わけが、ないのよね」


 ひとり院内を歩きながら、羊子は小さく溜め息を吐いた。

 夜の病院は、いつもと変わらず騒がしく、せわしない。


 忙しさに怖がることすら忘れそうになりながら、ただただ業務に忙殺される。

 ひどい病院に比べれば受け持つ床数は少ないが、それにしたって忙しいものは忙しい。


「あ、身障者用トイレ」


 それでも逃げ場が目に入ると、確認だけは忘れなかった。

 なにもなければ。杞憂であれば。それが一番だと思いながら。


 だが、そんな望みは儚いものでしかなかった。


 べえぇ


 聞き慣れたものとは異なる音に、びくりと肩が揺れる。


 背後から。明らかに、背後の廊下から聞こえる、ヤギの、声。

 病院内にヤギなんて、そんなはずないのに。


 べえー


 近づく声。空気を揺らす、確かに響く声。


 現実逃避している場合ではない。


 意を決して、羊子は振り返った。

 その手に、スタンガンを握り締めて。


 視線の先、薄明かりの廊下にぼんやりと浮かび上がったのは、


「ひっ……きゃああああああっ」


 半狂乱になりながらも、握り締めて突き出したスタンガンは頼もしく雷撃を発し、地獄の門のごとき赤々としたあぎとに形なきやいばを突き立てた。


 べえぇええ


 痛みに絶叫するそれは、闇に浮かび上がる白い被毛に被われ、二本の角を持つ、ヤギのようで、明らかにヤギではないなにか。カッと開かれた四角い瞳孔にも怖気おぞけが誘われるが、そんなものよりよほど羊子を怯えさせるのは、


「嫌っ、来ないでっ!!」


 上下にギザギザと鋭い歯をたたえ、パックリと割り開いたサメのような口だった。


 バチイッと盛大な音を立てて再び目の前の敵に被弾した雷撃は、その身体を跳ねさせ、ふらりとよろけさせた。


 逃げなければ。


 その隙を逃してはならぬと、羊子は白い恐怖の横を駆け抜ける。笑いそうになる膝を叱咤し、駆ける。一番近い避難場所は、先ほど通り過ごした身障者用トイレだ。


 自分がなぜ廊下を歩いていたかも、仕事も、患者も、頭のなかから抜け落ちていた。

 ただただ、恐怖と、逃げなければ、と言う気持ちだけで、頭のなかは満たされていた。


 ガツッ、ゴッ


「ひっ」


 後ろから響き始めた、ヒールに似ているようで非なる足音に、喉が引き攣った音を立てる。


 人間の足で、ヤギのスピードに叶うはずがない。


 それでも必死で、見える明かりを目指す。


 あと少し。あと少し。


 べぇぇえ


 鳴き声が耳許で響いている気がする。

 すぐ首もとに息遣いを感じる気がする。


 べぇー


 振り向いて、確認したい。


 でも、駄目だ。


 逃げる。逃げなきゃ。逃げ切らなきゃ。


 バチッ


 後ろに手を振った拍子に、電源を入れっぱなしになっていたスタンガンがなにかを捉えた。


 それがなにかなんて、関係なかった。

 逃げる自分の背後にいたもの。それは、なんだって敵だ。


 べー


 数時間にも感じるほどに緊張と焦燥で引き伸ばされた逃走劇の末、羊子はトイレの扉に手をかける。

 スライドし、飛び込み、閉めようとしたその隙間に、恐ろしき顎が滑り込む。


 バチンッ


 小さくも頼もしいお守りは、その魔の手を安全地帯から弾き飛ばした。


 バシンっ

 がちゃ

 バンッ


 すかさず閉じ、鍵をかけた扉が、何者かの激突で揺れた。しかし合成樹脂の扉は、破られることなく、逃げ込んだ空間を隔離していてくれる。


 荒ぶった自分の呼吸と、踊る心臓の呼吸が、耳にうるさい。


 あれほど響いていたヤギの声は、不気味なほどに聞こえなくなっていた。


 それでも不安で、震える手で扉を押さえ込んだ。この、扉が、便りなのだ。


 自動点灯の灯りに照らされた個室内は明るく、対する外は暗い。扉には上下方向に細長い磨硝子の窓が取り付けられているが、その向こうに白い影は見えなかった。


「逃げ切った、の?」


 安堵しかけたそのとき、


 めえぇぇえ


「ひっ」


 すぐ近くで聞こえた鳴き声に、落ち着けかけた心臓がまた暴れ出す。恐怖で飛び出したくなる気持ちを押し込める。


 違う。中じゃない。外だ。この声は、扉のすぐ外。すぐ外に、ヤツがいる。扉を開けさせようと、待ち構えている。


 扉のノブを握り締める手は、汗でビショビショだった。


 よく、スタンガンを取り落とさなかったな。

 我ながら強運に感謝し、羊子は命の恩人であるスタンガンを持ち直す。

 これがなければ、恐らく自分も。


 みな、ヤツに食べられたのだろうか。


 身体は決して、大きくはなかった。それこそ、羊子の腰ほどもない体高たいこうで。


 アレが、人ひとりを食べ尽くすと言うのは、無理があるのではないか。


 ただ、あの、口は。

 あの口だけは、人ひとりでも丸呑みしてしまいそうだった。


 思い出して、羊子はぶるりと震える。


 ヤギの声は、またしなくなっていた。


 どうしよう、と、迷いが頭をもたげる。


 鳴ならば、どうするだろうか。

 自明だった。はっきりと、言われていた。

 一晩、籠城だ。


 けれど自分は看護師で。今夜病棟でたった二人きりの夜勤担当で。


 籠城し続けている間に、容態の急変でもあったら?

 ポケットに入った院内連絡用のPHSが、ずしりと重く感じた。

 これに、連絡があったら、自分は果たしてどうするだろうか。


 これは、正しい行いか?


 羊子の脳裏に、あの、おぞましい姿が浮かぶ。身体はまるきりヤギだった。ただ、口だけがサメのようにぱっくり開き、鋭利な歯が覗いていて。

 ほかがまるきりヤギなだけに、その相違がひどく目立ってこの世ならざるものであると言う印象を強くしていた。


 そう、あり得ないもの。


 あれは、事実だったのか?

 自分の恐怖が生み出した、幻覚ではないのか?


 いなくなった吉村からも、鳴からも、羊子はヤギの名前を聞かされた。悪魔扱いされる動物でもある。暗闇を割って襲い掛かって来る恐ろしいものとしてヤギを連想しても、なんらおかしくない。


 ヤギの声は、もう聞こえない。気配もない。


 この扉を開けても、危険などないのではないか?


 『朝日が昇るまですべてが敵』


 鳴の言葉がよみがえる。


 こんな思考をする自分さえも、鳴は敵だと言うのだろうか。


「あたしは、鳴みたいに強くないのよ……」


 助けを求めようにも、私用のスマホは荷物の中だ。端末に登録された電話帳で簡単にアドレスを呼び出せる今、家族や恋人ならともかく友人の電話番号なんて、いちいち覚えていない。


 PHSを手に取り、途方に暮れる。


 たとえば夜勤の同僚に掛けたら?


 助けに来てくれる?警備を呼んでくれる?でも、助けに来た誰かを、本当に助けだと信じて扉を開けても良いのか?


 バンッ


「ひっ」


 突然の大きな音と扉に伝わる揺れに、すくみあがってぐっとノブを握る。


「、さん、片品さん!!」

「……ぁ」


 この、声は。


「助けて、片品さんっ」


 身体が、震える。

 震えて、それでも、唇は笑みを形作った。


「馬鹿ね」


 震える声で、呟く。


「助けて、お願い、開けて!!」


 ガンガンと扉を叩く音。響く声。それは。


「演じる相手を、間違っているわ、あなた」


 昨晩、電話越しに聞いた声。


「片品さん!片品さん!!助けて!!!」

「看護師は非常時用に身障者用トイレの鍵を外から開けられるのよ!」


 がんっと、内側から扉を叩く。


 それは、焦ったときこそ忘れるなと、念を押された教え。


 関係者でないから、鳴は知らなかった。だから、身障者用トイレ(ココ)を安全地帯だと言った。


 でも、外の声の主ならば、知っているはずなのだ。だって、その声は、


「それはアンタが昨日喰った相手の声じゃない!!!」


 本当に外にいるのが羊子の同僚である吉村(ナエ)なら、扉なんて自分で開けられるのだ。


「アンタの声で確信した!確かにここに敵はいる!あたしは、絶対に扉を開けない!!」


 ソイツが真似たのが吉村ではなく患者の誰かや鳴であったならば、羊子は扉を開けていたかもしれない。だが、よりにもよって吉村を真似てくれたお陰で、羊子は冷静になれたのだ。

 冷静に、判断出来たのだ。

 外にいるのは、すべて敵だと。


 逃げ場所も、武器も、敵がヤギかもしれないと言う予想も。鳴の言葉はすべて正しかった。それなのになぜ、今さら疑ったりしたのか。

 もはやそれすらも、敵の策略なのかもしれない。


「アンタなんかに、騙されない!!」


 極めつけに扉を叩けば、外から扉を叩く音も、吉村の声も聞こえなくなる。


 羊子も怒鳴るのをやめて、深く息を吐き出した。


 相手は、知恵あるものだ。

 獲物を誘き出すためなら、手段を選ばない。これもまた、鳴の予想通りに。


 次は、どんな手段で来るか。


 リッ、ピリリリリ


 ポケットの中で、PHSが鳴り響いた。

 取り出す。夜勤の相方である同僚からの呼び出しだった。


 出るのが、正解だ。ひととしては。


 けれど、生き残り(サヴァイヴ)を目指すならば、この電話には出ない方が良い。

 電話に出なければ、羊子は吉村や、その前に消えた看護師と同じく、行方不明になったか、逃げたかと判断されるはずだ。探されはするかもしれないが、戦力外として判断される。電話の向こうや扉の向こうの真偽を、気にしなくて良くなるのだ。


 もちろん、ひととしては間違っている。看護師としても。


 けれど命が懸かっているときに、倫理道徳がなんぼのものか。


 そもそも鳴に相談した時点で、法も倫理も無視しているのだ。


「ごめんなさい。あたしは、死にたくない」


 あなたたちが死にたくないのと、同じように。


 鳴り続けるPHSを握り締めて、羊子は歯を噛み締めた。

 ずっと、動きがなかったからだろう。ふつ、と自動点灯の灯りが消える。


 外に面した壁に空いた小さな明かり取りの窓から、深更しんこうの闇が覗く。常夜灯にぼんやりと照らし出された広いトイレの中で、着信を告げるPHSの光だけが、不気味に明るかった。


 朝はまだ、遠い。




 あれから何度か着信を告げたPHSも、今はもう黙りこんで。

 諦めたのか、なにか策があるのか、外からなにかアプローチがあることもない。


 立ちづめに疲れた羊子は、片手にスタンガンを、片手にPHSを握ってトイレの扉前に座り込んでいた。洋式の便座に座ることも出来たが、車椅子でも入れるよう造られたトイレの中、扉から便座は遠く、扉を押さえられない位置に行くのは恐ろしくて出来なかった。

 

 明かり取りの窓から覗く空はまだ暗い。


「警備の、見回り、通らないわね」


 本来であれば夜のあいだ数回は、警備員が院内全ての廊下を回るはずだ。

 しかし、羊子がトイレにこもってからは、一度も見回りが来なかった。


 単なる怠慢か、それとも喰われたのか、はたまた、なんらかの力でも働いているのか。


 見回りの気配がしないことを思い出したことで、不意に、気付いてしまう。


「蝉の、声が」


 しない。あんなに、うるさく鳴いていたはずなのに。


 蝉の声だけではない。外を走る自動車の音、風の音、木々の葉擦れも、なにも聞こえない。患者の脈拍を伝えるはずの電子音や、パイプベッドの軋む音もしない。空調の音はするが、病院内では途切れるはずのない生きものの気配が、なぜか感じられない。


「……誰も、いないの?」


 そんなはずはない。そんなはずはないのに。


 呟いてしまえばざわりと、恐怖の色がひるがえった。


 存在するものへの恐怖から、存在しないことへの恐怖へと。


 誰か、誰かの気配が、欲しい。


 無意識に片手が扉の鍵へと伸びる。


 かたんっ


 ゆるんだ手から落ちたスタンガンが床に転がる音で、はっと我に返った。


 手を伸ばし、鍵ではなくスタンガンに触れた。


 たとえ、世界のすべてが消えたとしても。今は電話越しの声すら聞けないとしても。


「鳴は、助けてくれるって、言った」


 スタンガンを握り締めて、羊子は自らに言い聞かせる。


「鳴は、約束を破らないもの」


 ひとりは怖い。でも、鳴は羊子をひとりにしたりしない。


「明日が来れば。夜が明ければ」


 必ず、鳴が、助けてくれる。


 鳴が聞けば『他力本願?』と呆れ顔をされそうな自己暗示だとしても、今の羊子を支えるのは鳴との約束ただひとつだった。




 かしゃん


 落下音に、びくっと身体を跳ねさせて、羊子は飛び起きた。


「……寝てた?」


 身体的な疲労と言うよりも、精神的な疲弊が限界だったのだろう。いつの間にか意識を手放していたことに唖然としながらも、落ちてしまっていたPHSを拾い上げ、辺りを見渡して、明かり取りの窓の向こうが明るいことに気付く。


「朝……?」


 はっとしてPHSを覗けば、時刻は7時を示していた。


「生き、残った……!」


 喜色に顔を満たして扉に手を掛けたとき、不意に鳴の声が頭にフラッシュバックした。


 『明後日の日の出は、5時23分よ』


 PHSの示す時刻は7時。窓から差し込む外光は明るい。だけれど。


 『朝日が昇るまですべてが敵だと、いいえ。その、朝日まで敵と思いなさい』


 胸ポケットから、時計を取り出す。光に照らされた針が指し示すのは、


「4時、27分……」


 日の出まで、まだ1時間近くある。


「そこに、まだ、いるのね……?」


 扉に向けて問い掛ければ、こつり、と苛立ったような足音が聞こえた。外の光が穴の空いた風船のようにしぼみ、黎明の闇が姿を現した。


 まさか本当に、朝日でさえも敵だなんて。


 少し使い古されて所々傷のあるナースウォッチは、父が就職祝にくれたものだった。いつだって忙しくて、誕生日さえろくに祝って貰った記憶のない父が面と向かってくれた、記憶にある限り唯一のプレゼント。


 なにもかもが信じられない世界で、けれどこれは確かな時を刻んでくれている。


 スイスの時計職人により命を吹き込まれた時計に耳を寄せれば、カチコチと几帳面な音色が聞こえて来る。ここにはいない誰かが、確かに生きていた証。


 あと、1時間。あと、1時間だ。


 バンッ


 扉に伝わる振動に、ナースウォッチを胸ポケットへ戻し、立ち上がって扉を押さえる。


 ダンッ


 背後からも聞こえた音に、ぎょっとする。


「一体じゃ、なかったの」


 ガンッ、バンッ


 押さえた扉にぶつかる手ごたえも、二体……いや、三体のものだった。


 ああ、こんなところですら鳴は正しい。


 笑えない状況だと言うのに、不思議と笑みが浮かんでしまう。


 例えば扉が二ヶ所ある部屋だったなら、もう片方を守れない事実に絶望しただろう。

 例えば大きな窓の部屋だったなら、窓が割れるかもしれない恐怖におののいただろう。


 だが、今の羊子の砦の扉はひとつきり。窓は猫も通れぬ小ささ。

 この扉さえ守れば敵の侵入はなく、窓を割られたとしても、仔ヤギすら通れはしない。


 大丈夫。大丈夫だ。


 べぇー


「ひっ」


 安心しかけた羊子を嘲笑うかのように、明らかに扉越しではない鳴き声が響いた。


「えっ、どこ……っ?」


 べー


 ガンッ、ガツッ


 鳴き声のあとに響いた金属音で、音の出所に気付く。


「通気孔……っ」


 ぱっと見遣ったそこから、真っ白な毛と狂気の目、あの恐ろしい口が垣間見えた。


「ひぅ……っ」


 竦み上がるも、頑丈な鉄格子が外れる様子はなく。また、通気孔ですら大きさは猫の顔ほどだった。


「籠城目的に造られた……訳じゃないわよね?ここ」


 それでも同じ空間にソイツがいると言う事実は羊子を怯えさせたが、震える声で強がって見せる。


 今までにない猛攻。それはきっと、ヤツラに時間がないからなのだ。


 数が集まれど、知恵があれど、恐ろしい鋸歯を持てど、所詮相手はヤギ。

 徒党を組んで夜中ひとりぼっちになった人間は襲えても、一団で対抗されればひとたまりもないのだ。


「あなたたちは、やり過ぎたのよ」


 歯を喰いしばって恐怖に耐えながら、羊子は言う。


「ひとりふたりで満足してどこか別の場所に移れば、怪しまれずに忘れられたかもしれないのに、ひとつところを狩り場に定めたりするから、こうして対策を取られるの」


 証言者のいない連続失踪だから、有効な対策が取れなかった。けれど、羊子と言う生還者がいれば、ヤギを倒すと言う明確な対策が打ち出せる。

 たとえ、誰が羊子の発言を信じてくれなかったとしても、鳴は信じてくれる。鳴は必ず、動いてくれる。


「あたしは生き残るわ。これ以上、あなたたちの好きになんてさせない」


 扉の向こうのヤツラの体当たりで、扉を押さえる羊子の身体が揺れる。通気孔の鉄格子は何度も蹴られ、頭突きされて今にも外れそうだし、明かり取りの窓だって、いつ割れるかわからない。ここは二階だと言うのに、一体どうやって登ったのだろうか。


 捕まれば喰われる羊子はもちろん命懸けだが、向こうだって、羊子を逃がせば危険と言うことくらいわかっているのだろう。


 もしかしたらもう、朝日さえ、関係はないのかもしれない。


 それでもかまわない。何時間だって良い。


 ここで、生き続けていれば、必ず。


「鳴に存在が気付かれた時点で、あなたたちは終わりなのよ……!」


 べええっ


 激しい猛攻に、時間の経過もわからなくなった頃。


 不意に、破壊的な騒音が途切れる。


 通気孔に目を向けても、白い悪魔はいない。

 明かり取りの窓に目を向ければ、


「明、るい……」


 あの偽りの朝日とは似ても似つかぬ薄明の頼りない明かりを受け、胸ポケットへ手を滑り込ませる。


「5時、25分」


 おぼつかない薄明かりは刻一刻と色を増し、暖かさを増して行く。

 それは、まさに、希望の光のようで。


「生き、延びたの……?」


 緊張の糸の切れた羊子は、その場でふつりと意識を失った。

 

 

 

ごめんねヤギ


拙いお話をお読み頂きありがとうございます

続きも読んで頂けると嬉しいです

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