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【Summer Time Jazz 1873】《後篇》

 俺は午前中を潰してイクスラハ中の不動産屋を歩き回ってみたが、案の定、目欲しいアパートメントはどこも埋まってしまっていた。貧民街の安宿テナメントですら、出稼ぎに来た連中であわや沈没寸前の小舟といった有様である。八月も終わりに近くになり、新年度まで数えるほどとなった今は、どこも新たに街にやってきた人々でいっぱいだった。

 俺は仕方なく、傭兵組合時代の友人たちの自宅にしばらく泊めて貰おうと思ったが、一人は所帯を持って手狭な賃貸住宅に引っ越しており、一人は行方不明で、最後の一人は窃盗罪で牢獄にぶち込まれていた。完全にお手上げだった。

 傭兵稼業で野宿は慣れたものだが、自然の中でならともかく、こんな都市のど真ん中で野宿するというのはあまりにも惨めである。何十回目かになる大きなため息をつきながら、とぼとぼと繁華街を歩いていた、その時だった。

 大通に面した劇場の前に、人だかりが出来ているのを見かけた。見上げると、大きな看板には『メステルロフ劇団 碧い部屋』という演目名が仰々しい事態で描かれ、その横には『本日千秋楽』という文句の書かれた垂れ幕が下がっていた。イクスラハをほぼ一ヶ月も離れていたので知らなかったが、どうやら人気の劇団による演劇らしい。

 劇はどうやら終わったばかりのようで、熱狂覚めやらぬ聴衆が役者達の出待ちをしているという構図のようだった。若い女性の姿が多く見受けられた。

 まったく、景気の良い話で結構なことだ、と半ば僻みにも似た感情を抱きながら通り過ぎようとした、その時だった。

「きゃっ」

 背後から声が聞こえた気がした。俺が振り返ると、そこには一人の少女が路上に膝を着いて倒れていた。その傍らには、拳くらいの大きさの石と、車椅子が横倒しになっている。空転している車輪から察するに、どうやら急いで車椅子を走らせてきたせいで、あの石に躓いて横転してしまったらしい。

 しかし、周囲の人間たちの関心はどうやら劇場の入り口にしか向かないようで、誰一人として少女に声をかける者はいなかった。俺は内心で舌打ちを漏らし、彼女に駆け寄る。

「大丈夫か」

 俺の差し伸ばした手を取り、その少女は申し訳なさそうに頭を下げた。

「あの、どうも、すみません」

 イヴよりも少し幼い程度だろうか。色素の薄いブロンドの髪に、青白い不健康そうな顔が印象的だった。俺が身体を支えて車椅子に戻してやると、彼女は何度もお礼を繰り返した。

「あの、本当にありがとうございます」

「気をつけろよ。いったい何を急いでたんだ」

 俺の何の気なしの問いに、少女は照れくさそうに頭を掻いた。

「千秋楽では役者さんたちが正面から出てくるというのを知らなくて、いつも通り裏口で待っていたんです。それで、慌ててしまって」

 なるほど、この子もあの群衆の一人というわけか。

 と、そこで彼女は慌てて周囲を見回し始めた。

「あれ、あれ……?」

 その表情には焦燥が浮かんでいる。そこで俺は、車椅子の下に落ちていた少し大きめの封筒を見つけ、拾い上げて差し出した。

「もしかして、これか?」

「ああ、そうです! 良かったぁ」

 俺が手渡した封筒を、その少女は大事そうに抱きしめて吐息をついた。

「何だか随分と軽い封筒だったが」と、俺は首を傾げる。「一応、本当に中身が入っているか確認した方がいいぞ」

「あ、大丈夫です。だって」少女は封筒を開けて中身を取り出してみせた。「ほら、これですから」

 彼女が取り出したのは、美しい模様の羽根を使った豪奢なブローチだった。なかなか合わせる服に困りそうな、極めて派手な逸品である。

「これ、今日の役者さんに差し上げるつもりで、特注したものなんです」

 少女の説明に俺は納得する。舞台衣装に合わせるのならば、もありなんだ。

「随分と高そうなプレゼントだな」

 俺の皮肉っぽい言い方に、しかし少女は屈託無く微笑みを返す。

「この公演の間ずっと、こちらの劇団に凄く勇気づけられたんです。だから、少しでも感謝を伝えたくて」

「勇気づけられた?」

「私、生まれてからずっと身体が弱くて、今までずっと塞ぎ込んでいたんですけど……」その少女は伏し目がちに語り出した。「この劇団の役者さんたちの一生懸命な演技を見ているうちに、私も頑張らなきゃって思うようになれたんです。上手く言えないんですけど、明日が来るのが怖くなくなったというか……」

 俺はしばしの沈黙の後に、小さく頷いた。脳裏を過ったのは、春先に初めて読んだ小説のことだった。

「——ああ、そういうのって、あるよな」

 虚構が現実を凌駕し、人生を変える瞬間というのは確かにある。今の俺はそのことを充分に理解できていた。同意を得られたのが嬉しかったのか、少女は顔を上げて再び口元を緩める。

「しかも、その役者の皆さん、演劇を始めたのがこの春からだそうで、寝る間も惜しんでずっと稽古に励んで来られたそうなんです。特に主演のジャン・ゲザツキーさんの演技が凄く感動的で……」

「——何だって?」

 俺が眉根を寄せてその名を問い返したのと、後方から歓声が聞こえてきたのはほぼ同時だった。思わず振り返ると、多くの黄色い声援を受けながら、劇場の正面玄関から四人の男の姿が出てくるところだった。ちび、デブ、のっぽという特徴的な三人と、中肉中背の男の姿である。見覚えのある一団の姿に、俺は思わず叫んでいた。

「コマンチ団じゃねぇか!」

 そう、春先の旅の道中で、俺とバーダを街道で襲撃した元野盗の四人組である。たしか、バーダに諭されてどこかの劇団に入団したと聞いていたが……。

 ——しかし、なんであいつらが、こんな声援を受けてやがるんだ?

 と、そんな俺の叫びに気づいたのか、四人の視線が人垣の隙間からこちらに向けられる。そして、彼らの表情が一瞬にして驚きと喜色に染まった。

「「「「あ!」」」」

 そして、彼らは異口同音に言い放つ。

「「「「ソードの兄貴ッ!」」」」

 うるせぇよ、犬かてめぇらは。

 顔を顰める俺のもとへと、四人組は人混みを掻き分けて走り寄ってくる。その場にいた聴衆の視線が、いったい何事か、と俺の方へ突き刺さる。思わず逃げ出したい気分だった。最悪である。

 あっと言う間に、俺は車椅子の少女ごと、その四人組に取り囲まれてしまった。少女は「え、え、え?」と困惑した様子で周囲をきょろきょろと見回していた。しかも、そいつらが一斉に俺に向けて頭を下げるのだから、混乱するのも無理は無い。

「ご無沙汰しております、兄貴!」

 リーダーであるジャンが以前よりも張りのある声で叫んだ。俺は仏頂面のまま、「……おう」とだけ答えた。まるでギャングのボスにでもなったかのような気分である。

 ちびのストラドレイター、デブのアクリー、のっぽのルース、そして親玉であるジャンの四人組である。彼らは皆、一様に随分と上等そうな身なりに変わっていたが、俺に向けられたその熱っぽい視線は、春先に会ったときから何一つ変わっていなかった。

 ジャンは感動に涙ぐんだような顔で続けた。

「お務め中とお聞きしておりやしたが、帰ってこられたんですね。言ってくだされば、本日のチケットをご用意しやしたのに」

「その言い方はやめろ。ただ出張に行ってただけだ」

 まるで俺が捕まってたみてぇじゃねーか。

 そんな我々の不穏にも捉えられるやりとりで、周囲にどよめきが走っていた。もうやだ、帰りたい。

「あー、おまえら」と俺は頭を掻きながら言う。「随分と、その、なんだ、うまく行ってるようだな」

「「「「お陰様で!」」」」

 だから、一斉に怒鳴るなよ、この女の子が怯えてるだろうが。しかし目を落とすと、車椅子の少女は夢見心地といった有様で、上気した表情でジャンを見つめていた。

 そこで唐突に、ジャンは周囲の群衆を見渡して、演技めいた調子で語り出す。

「皆様、ご紹介させてください。こちらに居るのは俺たちの恩人です。傭兵の仕事を失い、路頭に迷っていた俺たち四人を、この演劇の道に導いてくださった方です。どうか皆様、惜しみない拍手を!」

「やめて、ほんとやめて」

 大通りに溢れる拍手の中で、俺は泣きたい気分だった。

 しかし、まさかあのずっこけ四人組にこれほど人気が出るとは夢にも思わなかった。まあ、元々が自己陶酔的と言おうか、人生そのものが演技めいた生き方だったのだ。ある意味では天職だったのかもしれない。

「兄貴、本当にありがとうございます」と、ジャンが居住まいを正して言った。「今の俺たちがいるのは、ソードの兄貴とバーダロンの姐御のおかげです。本当に、本当に、感謝しています」

 今の彼らの表情には、かつて無かった自信と余裕が溢れている。それは今の俺には羨ましいくらいだった。俺はふっと小さく口元を緩めてから、傍らで呆然としている少女に目をやった。

「……おまえらのファンの子らしいぜ」

 突然話を振られた少女は大きく身を震わせた。四人組の視線が注がれると、萎縮するように肩を縮こまらせてしまう。俺は呆れて首を振った。

「ほら、プレゼントがあるんだろ。せっかくの機会だぜ」

 俺の言葉で、その少女は意を決したように顔を上げた。

「あ、あの! ゲザツキーさん、いつも楽しく見せてもらってます。これ、ゲザツキーさんの衣装に似合うと思って……」

 そう言って、少女は抱きかかえていた例の羽根飾りをおずおずと差し出した。ジャンは屈み込んで、差し出された手ごと、優しく両手で包み込む。手を握られた少女は、思わず顔を真っ赤に染めていた。

「——ありがとう、俺たちが挫けずにやってこれたのは、君のように応援してくれる人たちのおかげだよ」

 ジャンの言葉に、かつてあったような奢りや自惚れは、もはや微塵も無かった。そして、それを誇らしげに見つめる三人の顔も同様である。

「見事な羽根飾りだね。次の舞台で使わせて貰おう」

「ほ、本当ですか?」

「約束するよ」

 車椅子の少女とのそんな美談めいたやり取りは、それを見つめる大衆の胸を打つには充分だったらしい。大通りに、再び優しい拍手の音が溢れ出す。弟分、というわけではないが、少なからず成長した彼らの姿に、俺も悪い気分はしなかった。

 それを尻目に、静かに踵を返そうとした、その時だった。

 俺の視界の片隅に、小さな黒い影が過ったかと思うと、小さな悲鳴が聞こえた。

「きゃっ」

 咄嗟に目を向けると、その黒い影は少女が手渡そうとした羽根飾りを奪い去り、路上に降りたってちらりとこちらに一瞥を寄越していた。

 黒猫である。

 その猫は少女の羽根飾りを口にくわえ、次の瞬間には一目散に群衆の足下をすり抜けていく。その光景に、少女の顔が落胆に沈んでいった。ジャンが助けを求めるように俺を振り向いた。

「ソ、ソードの兄貴!」

 ——ああ、もう、本当に最悪だ!

 そんな顔を向けるな、無視できねぇだろ、クソ野郎が。

 顰めっ面の俺に、ジャンが懐から札束を取り出して叫んだ。

「取り返してください! お願いします、報酬ならいくらでも払いますから! ほら、払えますから!」

「本当に変わったな、おまえ!?」

「『イクスラハの猫獲りソード』と畏れられた兄貴のお力を、何卒!」

「てめぇそれ誰から聞いた!」

「兄貴、ほら、急がないと猫が……!」

「ああ、もう、わかったよ!」

 俺は舌打ちと共に、群衆の隙間を縫って疾走を開始した。

 やれやれ。

 ——また猫かよ。


 ◇


 いったい何が起きたのか、イヴはすぐには理解できなかった。

 バーダロンが満面の笑みと共に目の前のテーブルに皿を出したところまでは覚えている。そしてその上に乗っていた料理をフォークで口に運んだところも、辛うじて思い出した。しかし、そこで一旦、イヴの意識が途絶えたのだ。

 そのブラックアウトが果たしてどれほどの時間だったのか、イヴにはすぐさま把握することは出来なかった。しかし、しばしの自己分析の結果、イヴはこの異常の原因を把握する。それは先日、ニコラスに付けてもらった味覚機能の異常だった。

 有り得ない事象である。まさか味覚機能が全身の機能に影響を及ぼすとは。

「どうかしら、イヴ?」

 バーダロンがイヴの顔を覗き込んでいた。その投げかけで、意識を失っていた機関が僅か数瞬のものであったことにイヴは気づく。しかし、短時間とはいえ、確実に彼女の意識はその間、虚空の彼方に吹き飛んでいた。

「え、あ、はい、その……」イヴは曖昧な微笑を浮かべて返した。「ええと、お姉様は召し上がらないのでしょうか?」

 バーダロンはにこやかに首を振った。

「今の私は料理人よ。エミリアさんもそうだったけど、ゲストが食べ終わってから手を付けるのが一般的じゃない?」

「そ、そうですね……あの、つかぬことをお伺いしますが、お姉様は、私の他に誰かに料理を振る舞われたことはありますか?」

「そうね、昔、ヴィリティスとオーリアにご馳走してあげたことはあるけど」

 そこでようやく、イヴの記憶にあの時のやりとりが鮮明に蘇ってきた。それは二週間前の、オーリアのログハウスでの出来事である。

 ……たしかあのとき、オーリアさんが夕食を用意しようとして、バーダお姉様がそれを手伝おうとして、ヴィリティスさんに全力で止められていたような——。

 そこでようやく、イヴはすべてを理解する。何故あのとき、あの二人が鬼気迫る勢いでバーダロンの料理を阻止しようとしていたのかを。

 そして、イヴはバーダロンと出逢ってからの一ヶ月で、何となく姉の性質を理解し始めていた。小説家、バーダロン・フォレスターは紛うこと無き天才である。そしてそれは彼女をある種の自信家にしてしまっているのだろう。もちろん、小説家が自信家であることは悪いことではない。自分を信じられない人間の書いた文章では、これほどまでに大衆を惹き付けることは出来なかった筈だ。

 しかし、その自信過剰が、おそらくは姉の料理技能を壊滅的な方向に押しやっているのだ。自分が書いた小説は間違い無く面白い。ならば——『自分の作った料理も間違い無く美味しい筈なのだ』と。

 それがおそらくは、バーダロン・フォレスターの思考、否、言うなればある種の呪いのようなものなのだ、とイヴは推測する。故に、それは彼女の自己研鑽と反省を完全に滅殺し、この卓上にこの世のものとは思えない超合成物質を生み出すに至ったのである。

 見た目は、正直言って普通のチキン料理なのだ。ソテーされた鶏肉の上に、オニオンをベースにしたと思われる見目麗しい黄金色のソースが掛かっている。

 しかしそれは、未来王の叡智の結晶であるイヴの身体を、そしてあの怪物と化したレメルソンとの激突の時ですら壊れることの無かった機械の身体を、一時的に機能停止に追いやるほどの料理であった。

 不味いというレベルではない。

 一言で言うなれば、凄い。

 これはもはや食事というレベルを超えている。今の人類に、或いは五百年後の人類にですら、この経験を明確に定義づけることは出来ないのではないか、イヴはそう思った。

「あら、もしかして、味が薄かったかしら?」

 沈黙するイヴに、バーダロンが心配そうに問いかけた。

 いや、もう濃いとか薄いとか、そういう次元の問題では無いです、とイヴは危うく率直に返すところだったが、何とか押し留めた。そのときの彼女の中に湧いてきたのは、二つの決意であった。

 お姉様を二度とキッチンに立たせてはならない。

 そして——こんな危険なものを、お姉様の口に入れるわけにはいかない。

 人間を遙かに超えた自分の身体ですらこれほどの損傷を受けたのだ。人間の身に、この経験はあまりに早すぎる。

 故に、イヴは悲愴な決意と共に、にっこりと微笑みを浮かべた。

「——とっても美味しいです、お姉様。あの、おかわりをしても宜しいですか?」

 ……この卓上の地獄は、この私がすべて片付ける。

 そうだ。

 ——きっとそのために、私は生まれ変わったのだ。

 バーダロンは嬉しそうににっこりと笑った。

「良かった! スープも作ったから、たくさん食べてね」

 それは盤石である筈のイヴの決意に、ヒビを入れる一言であった。


 ◆


 黒猫の動きは俊敏であった。

 奴は大通りの人々の間をすり抜け、颯爽と裏路地に逃げ込んていく。しかし、長年この街の裏路地で数多の猫との追跡劇を繰り広げてきた俺にとって、そのルートはもはや想定の範囲内である。

 ……と、思わず不敵に口元に笑みを浮かべている自分に気づき、何だか空しくなってきた。

 猫はやがて、民家の壁の凹凸を駆け上がり、街の屋根屋根を走って行く。俺もまた路地を蹴ってイクスラハの空を舞った。真昼の長閑な街並みの空を、黒猫と俺が駆け抜けていく。

 よく見るとあの猫は、以前に捕まえたことのある猫に似ている気がした。確か、町外れの屋敷に住んでいる若い夫婦の飼い猫だった筈だ。辟易した気分を抱きながらも、俺は頭の中で計画を練る。ならばあの猫は、或いは住処である家に戻ろうとするかもしれない。行き先が分かってさえいれば、あとはタイミングの問題だけだ。

 はっきり言って、猫の運動能力は傭兵の俺たちからしても馬鹿に出来たものではない。地に四肢を着いた猫を捕らえるのは、生半可なことでは無いだろう。そんな逃げ続ける猫を捕らえる方法は、実は一つだけである。

 猫との追いかけっこはやがて街の郊外まで続き、民家が少なくなってきたところで、黒猫は屋根から街路樹へと飛び移った。俺もまた、建ち並ぶ木々の枝を掴むようにして追走する。案の定、その進行方向には一件の館が見え始める。大きなブナの木が傍らに聳える洋館である。

 猫はその大きなブナの木の枝に降り立つと、全身を大きく縮こまらせて跳躍の姿勢に入った。その視線の先は、屋敷の開いている窓である。

 俺はそれを見逃さない。俺もまた太い枝に着地すると同時に、その黒猫とタイミングを合わせて跳躍した。

 逃げる猫を素手で捕らえる唯一の方法——それは即ち、身動きの取れない空中で捕まえることである。

 伸ばした俺の両手は、しっかりとその黒猫の柔らかな身体を捕まえた。後は身を捻って、上手く地面に着地するだけ——。

 と思った矢先、猫が敵愾心を丸出しにして暴れ出す。その右手の爪が放った鋭利な一撃は、俺の両目を真横に切り裂いた。激痛も然る事ながら、その予想外の展開に俺はバランスを崩してしまう。

 しまった——!

 そう思考した頃には既に遅かった。

 俺は跳躍の慣性を殺すことが出来ず、さながら流星の如く——豪快に窓硝子をぶち破って、その邸宅に特攻してしまっていた。

 住人の甲高い絶叫が木霊した。

 どうやらその屋敷では食事中だったらしい。俺の身体は窓をぶち破り、テーブルに並んだ食卓を粉々にぶちまけて、その家のダイニングを転がっていった。しかし、その一方で意地でも猫だけは離さなかった。暴れる猫と格闘しながら、とにかく羽根飾りを何とか取り返したところで、俺は猫を解放した。

 一息つきたいところだが、まずはこの惨状を釈明せねば——と顔を上げたところで、全く予想外の二人が唖然として俺を見下ろしていた。

「ソード、さん……?」

 イヴが口をあんぐりと開けている。その傍らでは、同じく彼女が呆然としていた。

「——何をやっているんだ、貴様は」

 我が主、バーダロン・フォレスターは呆れた様子でそう言った。


 ◇


 黒猫のジェフリーは、バーダロンの腕の中でごろごろと喉を鳴らしていた。しかし、それとは対照的に、ソードを見下ろすバーダロンの表情は険しい。自宅の窓を突き破られたのだから、当然である。

「——なるほど、話は分かった」

 と、バーダロンは大きく溜息をついた。ソードは床に正座したまま、これまでの経緯を説明し終えたところだった。

「家を失って街を放浪していたところ、ジャンたちに遭遇して、ひょんなことからジェフリーを追い回すことになった、と」

 バーダロンの要約に、ソードは苦い顔で頷いた。彼自身、あまりに荒唐無稽な展開であることは理解していたが、しかしそれが事実なのである。バーダロンは呆れた様子で首を左右に振ってみせる。

「馬鹿馬鹿しい話だが、おまえにそんな作り話が出来るとも思えんな。その経緯は信じてやろう」

「……まさかおまえがこの家を買ってたとは思わなかったぜ」

 ソードの呟きに、バーダロンは大いに頷いた。

「そうだ、此処は私の家だ。そして貴様は私の家の窓と食卓を破壊した」

 ぐ、とソードが唸り、そこに更にバーダロンの無情な一言が突き刺さる。

「弁償の費用は貴様の給与から天引きさせてもらうからな。当然、私の精神的苦痛に対する慰謝料も含めて」

 ソードは返す言葉も無く、首肯と共に項垂れた。バーダロンは再び溜息をついて、部屋の惨状を見渡した。散らばった窓硝子の破片も然る事ながら、先ほど彼女がイヴの為に作った料理も台無しである。

 バーダロンはイヴを振り返り、眉を寄せて謝罪した。

「ごめんなさいね、イヴ。片付けたら今すぐにでも作り直すから……」

 と、そこでイヴは慌てて口を開いた。

「で、では! ソードさんに作っていただいてはいかがでしょうか?」

 バーダロンは、そしてソードもまた、頭上に疑問符を浮かべてイヴを見やった。その間にイヴは思考回路をフル回転させる。この現状を利用した超画期的な考え、大逆転の一策が、今まさに彼女の中に生まれつつあった。

「そうだ、何でしたら、ソードさんに住み込みで家事をやっていただいては如何でしょう? 掃除や洗濯、特に『料理』なんかも含めて!」

 イヴは西海岸からの帰り道のことを思い出していた。アルノルンにしばらく滞在した際、ソードとジョナサンに連れられて湖に魚釣りに出かけた時のことである。彼はその場で、釣った魚を使った見事な魚料理を披露してくれていた。それはあの大富豪ジャズフェラーですら褒め称えるほどの味だった。

 実際、傭兵稼業で外でその日の食事を済ませることが多かったソードは、多少の偏りこそあれ、それなりに料理の技能は身につけていたのであった。

「家事?」と、ソードは顔を顰める。「いや、待てよ、イヴ。どうして俺がそんなことを……」

「住む家が無くて困っているのはソードさんも同じじゃないですか!」

 イヴの言葉には、何かしら切迫したものがあった。ソードはその勢いに気圧され、思わず「お、おう」と頷いてしまっていた。雨風凌げる場所に困っているのは、彼にとっても事実だった。

 一方で、バーダロンはじとりとした目でソードの方を見やっていた。何故か、その頬には少し朱色が浮かんでいる。

「——しかし、洗濯も任せるとなると、この男に私の身につけたものまで触らせることになるからな……」

「だったら洗濯は私がやりますから! 掃除と料理がソードさん! それで良いでしょう? こんなに大きな屋敷なのですから、部屋の一つくらい余っているでしょう?」

 バーダロンもまた、イヴの妙な迫力に圧倒されつつあった。

「え、まぁ、それは……住むこと事態は全く不可能じゃないけど……」

「ましてや、お姉様はこれから新作の原稿に取りかからなくてはならないのですから、お手伝いさんが居ないと色々と不都合ではありませんか?」

 確かに、イヴの言い分にも一理あった。女中のエミリアが不在であるというこの状況は、手着かずの原稿を抱えているバーダロンにとってはなかなかに辛い事態である。新たに女中を募集して、すぐに都合が付く保証も無い。

 バーダロンは眉を寄せて考え込む。理詰めで考えれば、イヴの言っていることは実に合理的だった。第一、護衛役が日常的に近くにいるとなれば、インスピレーションで旅に出たい時にも、わざわざ呼びつける手間が省ける。

 それでも尚、彼女を躊躇させているのは、特に感情の部分だった。ソードを同じ屋根の下に暮らさせることに、実はそれほど強い抵抗があるわけではない。彼女の戸惑いはむしろその逆だった。

 つまり——その抵抗を殆ど覚えていない自分自身に、彼女は困惑していたのである。

 はっきりとした返事の無いバーダロンに見かねて、イヴはソードを振り返った。

「ソードさんはどうなんですか? ソードさんも、この家に住みたいですよね?」

「あ? そりゃ、住ませてくれるなら有り難いが」

 あっさりとソードは答える。そもそも、バーダロンが自分を家に住まわせてくれることなど絶対に有り得ないことだと思っていたので、最初から相談の選択肢の中に入っていなかっただけなのである。家事手伝いという面倒ごとを差し引いても、住居が与えられるのは彼にとって願ってもないことだった。

「ほら、お姉様、ソードさんもこう言っていることですし!」

 一方、イヴはイヴで必死であった。先ほどの昼食の場で突然起きた理不尽とも言える地獄の体験を繰り返さない為にも、ソードがこの家で料理番をするというのは最優先で担保したい状況だった。あの状況が今後も繰り返されると思うと、真剣にニコラスに味覚機関の機能停止を申し出る必要がある。

 バーダロンは僅かに頬を朱に染めながら、じとりとした目でソードを見やっていた。

「——まぁ、イヴがそこまで強く言うなら」と、やがて彼女は不承不承ながら首を縦に振ってみせる。「ただし、女中のエミリアさんが帰ってくるまでの間だ。彼女が戻ってきたら、ちゃんと家を探して貰うからな」

 その言葉に、ソードは意外そうに目を見開いた。まさか彼女からそんな了承が得られるとは思っていなかったのだ。そしてイヴはというと、思わずソードの元に走り寄ってその腕に抱きついていた。

「ありがとうございます、ソードさん!」

「なんでイヴが礼を言うんだ?」

「……あ、いえ、間違いました。良かったですね、ソードさん!」

 イヴは取り繕って、心の底からの歓喜の笑顔を浮かべている。ソードはその歓びように多少の違和感を覚えつつも、改めてバーダロンに向き直った。

「助かったぜ、バーダ」

「……持ちつ持たれつよ。私よりもイヴに感謝しなさい」

 いえいえ、感謝するのは私の方です、という言葉を、イヴは敢えて呑み込んだ。

 バーダロンは再びソードの方をじろりと睨み、小声で付け加える。

「……同じ屋根の下だからって、変なことしないでよ」

「変なこと?」とソードは首を傾げる。「同じ屋根の下と言ってもな、別にこの一ヶ月ずっと一緒にいるじゃねぇか」

「それは」バーダロンは思わず顔を背けて、少しだけ唇を尖らせる。「……そうだけど」

「——何だか嬉しいです」

 唐突に、イヴが呟いた。

「家族が出来たみたいで」

 その言葉に、ソードとバーダロンは一瞬だけ虚を突かれたような顔を浮かべた。だが、やがてお互いに顔を逸らし、小さく口元を緩める。お互いにそれを見せ合うのは憚られたが、イヴの気持ちも充分に彼らは理解できていた。

 破れた窓から、秋の到来を告げる心地よい風と陽光が室内に入り込む。

 バーダロンの腕の中で、黒猫のジェフリーが「にゃあ」と平和な鳴き声を漏らした。


 ◇


 それから三日後の朝のことである。

 朝食の用意をするソードと、それを手伝うイヴを余所に、バーダロンは玄関先に朝刊を取りに出た。夏は終わりを迎え、朝の空気は以前よりも少しだけ肌寒い。彼女はカーディガンを押さえるように羽織りながら、ポストの中を覗いた。

 そこにはいつもの朝刊と一緒に、一通の手紙が入っていた。

 その場で封を開けてみると、それはエミリアからの手紙だった。そこには彼女の父親が無事に一命を取り留めたこと、そしてバーダロンへの感謝の気持ちが綴られてあった。その内容に、何よりもバーダロンは安堵を覚えた。

 更にその手紙には、最後にこんな文章まで付け加えられてあった。

『父親の容態こそ安定しておりますが、母親も含めて何より高齢の身でございます。私の妹夫妻も東歐州におりますので、二人の面倒を見られる者が他にございません。そこで、誠に勝手ではございますが、フォレスター様の女中役を解任していただきたく、お願い申し上げます。後日、改めましてご挨拶にお伺いしたいと思います。これまでのご厚情、心より御礼申し上げます』

 バーダロンは玄関の前でその手紙を読み終え、しばし考え込んだ。となれば、新しい女中の募集をかける必要がある。理屈の上ではそれが当然だろう。

 しかし、彼女の脳裏には三日前に自身が言った言葉が思い出されていた。

 ——ただし、女中のエミリアさんが帰ってくるまでの間だ。彼女が戻ってきたら、ちゃんと家を探して貰うからな。

 バーダロンはしばらくその手紙を見つめた後で、便箋を封筒の中に戻した。

 そして、その手紙が誰にも見つからないようにカーディガンの懐にしまい込んで、朝食の香りが立ちこめる家の中に戻って行ったのだった。





〈了〉

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イヴ、賢く、いい子である。
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