【A Small, Good Things. 1873.】
「汝が終わり得ぬことが、汝を偉大にする」
―――ゲーテ
引っ越しを決めたのは、凍りついた窓硝子が春の陽射しで溶け始めた頃だった。私は当面の拠点を東の果て、百塔の街イクスラハに移すことにした。住み慣れた皇都を離れることに幾許かの寂寥もあったが、長年手がけてきた連作小説の一つがこの冬に無事に完結を迎えたこともあり、何となく、新しい環境に身を置きたいと思ったのだ。
幸いなことに、新居はすぐに見つかった。イクスラハのとある新婚夫婦が古い屋敷を競売に出していたのだ。
それはイクスラハ北区の外れにある、こじんまりとした煉瓦作りの邸宅だった。屋敷にはささやかな庭園も備え付けられており、そこには立派なブナの樹が植えられてある。古くはあるが腐朽の匂いはしない。その歴史の比重を感じさせる趣きに、私はひと目でその物件を気に入ってしまった。
引っ越しの日、私はその屋敷の前で初めてその売り手の夫妻と顔を合わせた。旦那は貿易の仕事をしているという、三〇代の精悍な男性。奥さんは、まだ二〇代と思しき綺麗な顔立ちをしたブロンドの女性だった。
買い手が私であることを知ると、二人は驚きと共に喜んでくれていた。特に奥さんは私の作品の熱心な読者ということだった。
「実は私と主人の出会いのきっかけは、フォレスター先生なんです」
「私の?」
「ええ」と彼女は傍らを一瞥する。旦那の方は気恥ずかしさからか、目を逸らしていた。「書店で、私が本棚にある先生の本を取ろうとしたとき、主人も同じ本を取ろうとしていたんです。それで、本棚の前で手が触れ合ってーーーそれが馴れ初めでした」
彼女はそんな話をどこか嬉しそうに語った。聞いているこちらまで思わず赤面してしまいそうなほどに、出来すぎた話だ。ロマンティックな出逢いではあるが、私が実際にそんな場面に出くわしたら、恥ずかしさのあまり相手の手をひっぱたいてしまいそうである。
このまま二人の惚気話を聞くのも満更悪くないかと思ったが、隣の旦那の方が居心地の悪そうな顔を浮かべていたので、私は話題を変えることとした。
「引越し先はどちらに?」
そんな私の質問に奥さんが答える。
「イクスラハの東区です。この家ほど大きくは無いですが、海の見える良い場所ですよ。ぜひ今度お越しください」
「こちらの屋敷は皇国時代に私の祖先が建てたものなんです」
と、そこで旦那が口開く。彼はかつての住居と、傍らのブナの樹を交互に見上げながら説明した。
「大きな樹でしょう。なんでも、屋敷が出来る前からあるそうです。このおかげで、近所の方々からはブナ屋敷と呼ばれていました」
「実に見事な樹だ。しかし、本当に手放しても? 趣きのある、とても立派な邸宅だが……」
私の問いに、彼はやんわりと微笑みながら答える。
「一族はもう私しかおりませんし、これほど大きな屋敷は正直、私の手には余ります。何より、新しい生活を始める為には、新しい場所が必要かと思いまして」
なるほど、それについては私も同意だ。
その後、いくつかの戸締まりの場所と、後々改修が必要と思われる場所を旦那さんに教えてもらい、最後に屋敷の鍵を受け取った。別れ際、奥さんの方が思い出したように言った。
「あの、フォレスター先生。もしこの家に黒い雄猫が戻ってきたら、私たちにご一報いただけないでしょうか」
「猫?」
「ええ。我が家で飼っていた猫で、ジェフリーといいます。とにかく、あちこちを放浪する猫で、以前も傭兵組合の方にお願いして探してもらったことがあるんですが……今回も四日ほど戻っていなくて」
私は眉を寄せた。傭兵組合? どうして猫探しに傭兵が出てくるんだ?
そんな私の疑問を表情から読み取ったのか、彼女は苦笑しながら補足する。
「ああ、この街の傭兵さんは、お願いすれば大抵のことはやってくれるんですよ。特に、迷子になった犬や猫を探すのが得意な方もいるようです」
「猫探しの傭兵、ですか」
私は無骨な男が必死に猫を探して街を駆けるところを想像し、内心で嘲笑を漏らした。なんとも間の抜けた絵面である。
「今回もその傭兵に依頼を?」
「いえ、生憎と出張で街の外に行ってらっしゃるようで……」
「分かりました」と私は胸に手を当てる。「猫が戻ってきたら、すぐにお知らせしましょう」
◆
猫が戻ってきたのは、私が屋敷に住み着いて三日目のことだった。その朝、私は書斎で届いたばかりの朝刊に目を通していた。
それはアルダナクからの難民についての記事で、私はその中に興味深い行を見つけて熱心に読みふけっていた。だから突然、足元に触れた暖かな感覚に、私は思わず声を上げてしまった。
「きゃっ」
目を下ろすと、黒猫が私の足に頭をこすりつけていた。それは灰色がかった青い目の猫で、それ以外は頭のてっぺんから尻尾の先まで、ものの見事に真っ黒だった。私が抱き上げると、猫は特に嫌がらずにごろごろと喉を鳴らした。随分と人懐っこい猫である。
「……おはよう、ジェフ。あなたを待ってたのよ」
私が話しかけると、彼は律儀に、にゃあと返事をした。やがて落ち着かない様子で周囲を見渡し始めたので、床に降ろしてやると、彼はしきりに鳴きながら部屋の中をうろうろと歩き始めた。
お腹が空いているのかと思い、台所から昨日の余りのチキン(幸い、ケチャップがかかってない部分だ)を皿に置いて出してみたが、見向きもしなかった。荷造り用の紙紐の切れ端があったので、それを目の前で揺らしてみたりもしたが、これにも興味を示さない。私が諦めて藤椅子に腰掛けると、そこで猫は私の膝の上に登ってきて丸くなった。なんとも気まぐれな奴である。
左手でそんな彼の背を撫でながら、私はふっと口元を緩ませる。
落ち着きが無いのは、元の飼い主が見つからないからだろう。或いは私にすり寄って来るのは、それ故の寂しさからなのかもしれない。
「―――此処はもう古い場所よ。あなたの親しい人は新しい場所にいるわ」
思わずそんなことを語りかけている自分がいた。しかし当の猫は意にも介さず、やがて静かに寝息を立て始めた。七日間にも渡る放浪で疲れていたのかもしれない。やれやれ、このまま立ち上がると彼の顰蹙を買いそうだ。
書斎の窓からは春の朝陽が射し込み、窓辺の机の上から私の膝にかけて、暖かな陽だまりを作っていた。そんな中で猫を撫でていると、何故か急に、自分が随分と遠いところまで来てしまったような気分になった。この陽だまりは間違いなく、遠い過去に別の場所を照らしていたのだ、と。
窓辺の机で陽の光を浴びるタイプライター。寄宿舎の四人部屋に響いていた音。そして、それに向かう少女の背中―――。
郷愁に囚われそうになり、私は頭を振った。手のひらに伝わってくる猫の心音が、私には妙に心強く思えた。言うなれば、それは私自身の心音でもあった。私は間違いなく生きていて、間違いなく新しい場所にいた。
大きく息を吸い込み、吐き出す。清潔な朝の空気は、私に活力を漲らせる。
この子が起きたら、あの夫婦に電報を打って伝えよう。それが済んだら、先程の新聞にあった難民について調べてみよう。ああ、ヴィリティスがこっちにいるらしいから、彼女に相談してみるのもいいかもしれない。
そんなことを考えながら、窓の向こう、晴れ渡る初春の青空を見上げる。
―――此処から先は、新しい物語だ。
膝の上のささやかな命の暖かさが、そう告げている気がした。
〈了〉