宵闇の胡蝶
僕が厨房口で感心しながら見ていると、今度は違うテーブルでバンッという音が響く。
立ち上がったのはヘルミナ達とは違う、冒険者の男だ。
「ふざけんじゃねえぞこの野郎! 俺のステーキ食べやがって!」
「いいじゃねえか少しくらい!」
「少しじゃねえよ! 一口とか言いながら半分も食べやがって!」
喧嘩か? トラブルか? と不安に思ったが、ただのくだらない言い争いのようだ。
一口食べていいぜ。半分以上齧られる。キレる。といったような感じだろう。
呆れるような状況だが、冒険者達はなまじ迫力と力があるので近付くのも恐れ多いな。
「お兄ちゃん、喧嘩してる二人のところにエイグファングのサイコロステーキとシチューを持って行って」
「……あのピリピリした空間へ行ってこいと?」
「今はウェイターでしょ? 料理を運ばないと」
自分に関係ないからか、レティはそう言うと厨房に戻っていった。
「トーリ、ついでにエール二つもお願いね」
「そのまま母さんが持っていってくれればいいのに」
「か弱い乙女にあんな危ない場所に行けって言うの?」
こういう時に腕っぷしの強いはずの母が、何をほざいているというのか。
僕がそんな視線を込めても、母は行くつもりがないので仕方なく僕が持っていく。
料理を食われたから剣呑な空気になっているのだ。黙って料理を持っていけば、自然と空気も和らいでいくだろう。
「なめてんのか?」
「ステーキ一つくらいでそんなに怒りやがって」
「ああんっ?」
「失礼しまーす! エイグファングのサイコロステーキとシチュー二つ、エール二つでーす」
「「…………」」
男が相手の胸倉を掴んだところで僕が入ったせいだろうか、突き刺さるような視線を感じる。
食堂の空気が凍る中、僕は黙々と料理を配膳。
それが終わると丁寧に一礼してからテーブルを去った。
喧嘩するタイミングで料理と僕がやってきたもので、すっかり毒気が抜かれたのか冒険者の男はすんなりと椅子に座った。相手も特に騒ぎ立てる様子はない。
「すげえな、トーリ。よくあの雰囲気の中で料理を持っていけるよな」
「ああいうのは慣れているからね」
近くのテーブルにいるラルフに話しかけられて僕は苦笑いしながら答える。
僕が配膳するタイミングで胸倉とか掴み出すから、無駄に緊張したよ。本当は慣れてる慣れていないに構わず、ああいう場面にはでくわしたくないのが本音だよ。
こういう事があるから夜のウエイトレスはレティにはやらせられないんだよなー。酒に酔った勢いで何をしでかしてくれるかわからないからな。
目まぐるしく注文と喚き声が飛び交う中、しばらくウエイターとして働いていると急に食堂内ではやし立てるような声が響いた。
声の方へと視線を向けると、二階からナタリアが下りてきていた。
昼間のような薄着のドレスに寝癖のついた髪ではなく、黒と紫のシックなドレスに身を包み、しっかりと髪も梳かされている仕事モードのナタリアだ。
娼婦であるナタリアは夜が領分なので、ちょうど今から働きに出かけるようだ。
昼間よりも美しさに磨きのかかった今の姿を見れば、男達が喜びの声を上げてしまうのも無理はないだろう。
美しく妖艶で隙のない佇まいをしているナタリアを見ていると、昼間とは別人なのではないだろうかと思ってしまうほどだ。
「ナタリア! 今夜相手してくれよぉ!」
「お店に行って予約してお金を払えば相手してあげるわ」
誰かが上げた言葉にナタリアは妖艶な笑顔を浮かべて言う。
「くっそ、俺じゃまだ無理だ!」
「宵闇の胡蝶で一晩ってなると金貨三十枚は吹っ飛ぶぞ」
「それにナタリアは人気だから半年は予約で埋まっているらしいぜ?」
「そんな人気嬢がどうしてここに――おっと、これは無粋か」
「金では買えないものがここにあるって事だろう?」
ナタリアは知り合いの人に軽く挨拶をするとカツカツとヒールの音を鳴らして玄関へと向かう。
玄関口には娼館の護衛なのかはわからないが、スーツに身を包んだいかつい男性がやってきていた。
しかし、誰もがそれに気付かない。皆がナタリアの歩く姿に老若男女の誰もが目を奪われているからだ。
お客の中にはエールを呑もうと傾けて、そのまま胸元に溢してしまっている者もいる。
ナタリアはそのまま僕の方へとやってくると、わざわざ屈みこんで頬にキスをしてきた。
「じゃあ、行ってくるわね」
「う、うん。行ってらっしゃい」
頬にキスをされたこと、いい香りがしたこと、顔が近くにやってきたこと。色々なことにパニックになりながらも僕は何とか声を絞り出して返事する。
すると、ナタリアはクスクスと笑い、護衛の男性を連れて外へと歩いていった。
そのまま呆然としていると、近くに座っていたラルフが杯をテーブルに叩きつけながら叫んだ。
「おらぁ! トーリ! 皿と杯が空だぞ!? 邪魔だから持ってけ!」
「こっちもだ! こんなに皿が溜まっていて邪魔なんだよ!」
「こっちはエールが零れちまったから拭いといてくれ」
ラルフの声に呼応するように、男性客の皆が僕だけに仕事を押し付けてくる。
急いで食べてまで僕に仕事を押し付けてこなくてもいいのに。
ナタリアの思わず置き土産のせいで忙殺されになる僕だった。
◆
「また明日もくるぜー!」
「はーい! ありがとうね!」
リコッタが最後の客を送り出すと、食堂内が途端に静かになる。
夕食の時間が終わり、それぞれの人々が帰路へと着く時間帯。
客のピークを終えた宿屋では、夕食時と打って変わった静かさを迎えていた。
厨房では皿を洗う音が聞こえ、僕や母さん、リコッタは後片付けをしている。
この時間になると食事を出すことはないので、宿泊客も降りてくることはない。
夕食時の疲れがどっと押し寄せる中、僕は黙々と皿を片付けては厨房へと持っていく。
「トーリももう上がっていいぞ」
「そう? わかった」
厨房へお皿を持っていくと父さんがもう上がっていいと言うので、僕は遠慮なく上がることにする。きっとこの後父さんは後片付けやら、朝食の仕込みやら大変だと思うが、子供はもう寝る時間だしな。
ちなみにレティはもうとっくに寝ている。十歳の少女だけあってか、両親もそこは気を遣っているようだ。
「ちなみに明日は弁当売りをさせるから早めに起きろよ」
「……へーい」
呻くように返事をしてから厨房を出る。
「父さんに上がっていいって言われたから、もう寝るね」
「トーリ、お疲れー」
「後はよろしくね。リコッタ」
「明日は早く起きるのよ?」
「はーい」
リコッタと母さんと短く言葉を交わして僕は四階へ上がり、さらに上の屋根裏部屋へと上がっていく。
ここまで来ると一階の物音はまったく聞こえない。
暗い室内を窓から差し込む星の光が仄かに照らす。
僕は気怠い身体を動かしながら、着ていたエプロンを脱いでベッドへとダイブした。
「何だかんだ今日も働いたなー」
朝五時ぐらいに起きて、客が出ていく八時前まで。それから宿屋や室内の掃除、洗濯をして、受付をして昼寝。それが終わると昼食の配膳、夕食の買い出し、夕食の配膳……。
単純な計算では十時間ぐらいは働いているかな?
時間にしてみると多いように思えるが、途中で昼寝だってしているし、買い出しは遊びみたいなもの。仕事中暇な時もたくさんあるし、お客と雑談をする時間もある。前世のようにずっとデスクに座っていなければいけないとか、気を張らないといけないこともない。
朝早いっていうのが少しネックだけど、きちんと休みもあるし睡眠時間たんまりとあるからね。
前世の仕事とは比べるべくもないよ。
やっぱり人間、ほどほどに働いてのんびり生きていくのがいいよね。
そう考えると、のんびりと働ける宿屋の仕事も悪くないよ。
何があっても健康は損なわない程度にする。これが今の僕の絶対かな。
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