転生したら、宿屋の息子でした
『転生したら宿屋の息子でした。田舎街でのんびりスローライフをおくろう』の書籍1巻が発売しました。
書き下ろしも二万文字近くあります。店頭などで見かけましたらよろしくお願いいたします。
目を覚ますと身体が酷く重たい。目が痛く、頭もボーっとしている。
原因はわかっている。働き過ぎによる過労だ。
今日は深夜の三時までパソコンと向かい合っていたのだが、途中で気絶するように眠っていたらしい。
時刻は深夜の四時。いや、朝の四時と言った方が正しいか。
まともに寝たのはいつだろうか? 昨日は徹夜して、その前は二時間寝て、さらにその前は……あれ? 記憶がないや。ははは、ちっとも面白くない状況なのに笑えてきたぞ。
僕、本当に大丈夫なのかな?
だけど、僕と同じような状況の人はたくさんいる。
太陽すら上りきっていない暗い社内を見渡すと、そこかしこで同僚が死んだように眠っていた。
死屍累々という言葉はこういう状況の事を言うんだろうな。
急遽入ってしまった大きな企画により、会社内はかつてないほどに繁忙期に入っていた。
会社に寝泊まりするのは当たり前。誰もが睡眠時間を削って働いている。
正直言って、僕は会社などどうでもいいので、体調不良を理由にして休みたいのだが、それをすると僕の分の仕事が同僚に回ってしまい更なる地獄を見るだろう。
悲しい事に僕以外の同僚は皆、家庭を持っている。皆、嫁さんに愚痴られながらも会社に出社して家族を養うために働いているのだ。
独り身である僕が辛いからといって抜けると、これだから責任感のない独り身は。などと後ろ指を指されることになるのだろう。
これからも長く働き続ける中、会社の人間関係で軋轢を生みたくない。
皆、辛いのは同じなのだ。忙しいのは今だけ。
あと一日。今日を乗り越えたら土曜日だ。
今の忙しさからすれば土日を返上してでも働くのが当然なのだが、休日であれば体調不良を原因に休むのも認められなくもない空気がある。
だから、今日さえ乗り越えればいいのだ。
そうすれば、ぐっすりと柔らかい布団の中でいくらでも眠ることができる。
惰眠を貪ったら何をしようか。美味しいご飯を食べよう。コンビニやスーパーの弁当よりも美味しい物をだ!
ここ最近はずっと働き詰めでロクにお金も使っていなかったからな。ここは豪勢に外食といこうか。
それに買っていないライトノベルやゲーム、漫画、観たいアニメだってたくさんある。
僕はそんな休日の事をひたすら想像することで心の平穏を保った。
「……喉が渇いたな」
始業前の時間まで、まだ時間がある。もうひと眠りといきたいところだが、如何せん喉が渇いていた。
椅子に座りながら腕だけを動かして、テーブルの上に置いてあったはずの飲み物を探す。
そして、手探りでペットボトルを掴むと、クシャリと音を立てた。
そのままペットボトルを振ってみるも、中に水は入っていないようだ。
どうやら飲み切ってしまったようだ。
くそっ、さっさと飲んで眠ってしまいたいというのに。
心の中で悪態をつくが、それでこの渇きがなくなるわけでもない。
僕は喉を潤すために、椅子から立ち上がる。
その瞬間、僕の脳裏で大切な何かがブツンと千切れるような音がした。
激しい立ち眩みが僕を襲い、視界がねじれていく。
あ、これダメなやつだわ。過去にも軽い貧血などで、立ち眩みを経験した事があったが、それとこれとはレベルが違う。生命を維持するのに必要な何かが機能を失った。
もはや、どうしようもない状態で深刻な方向へと向かっていく。
連想される言葉は『死』だ。
もはや立っていることすらできない。視界がぐらつき、僕の身体がドンドンと傾いていくのを感じる。
……ああ、僕は死ぬのか?
人間はいつか死ぬ。そうは思っていたが、それが今だとは思いもしなかった。
参ったな。実際に死を迎える直前となっても現実味がないや。
まさか、僕が過労死で人生を閉じることになるとは……。
僕が死んだとわかったら同僚の皆は驚くかな。こいつらの事だ。俺が床で眠っていると思ってしばらく放置していそうだな。
始業時間ギリギリまで誰も僕が死んでいると気付かない気がする。それはそれで面白い光景だが、僕はその時すでにこの世にいないから確認することもできないだろう。
はぁ、まだまだやりたい事があったというのに。
やっぱり人生ほどほどに働いて、好きな事をするのが一番なんだよなぁ。
働き過ぎはよくないや。
もし、来世があるのだとしたら、ほどほどに働いてのんびりと過ごす事にしよう。そこでは無理をせずに楽しく暮らす。
薄れゆく意識の中、しっかりと決意をすると同時に顔面にガツンとした衝撃が走った。
こうして僕こと宿屋健太は、永遠の眠りにつくことになった。
◆
「起きて! トーリお兄ちゃん! 起きて!」
少女特有の高い声が響き、身体が揺さぶられる事で目が覚める。
「もう、お兄ちゃんやっと起きた! 相変わらず朝は弱いんだから!」
瞼を開けると、金髪の髪を後ろでくくり透き通るような青い瞳をした少女がいる。
まだあどけない顔立ちであるがとても可愛らしく、将来は美人さんになること間違いないだろう少女は僕の妹、レティだ。
朝もしっかりと起きて身嗜みにも隙がない。僕の二つ下の十歳とは思えないほどしっかりしているな。
「んー、もう朝?」
正直言ってまだ寝たりないのだが。ここから二度寝、三度寝と惰眠を貪り続けたい所存だ。
朝の楽しみといえば、この微睡の中をたゆたうことだ。
「もう朝だよ! ほら、仕事の時間だから早く起きて!」
しかし、無情にも妹であるレティには、その素晴らしさがわからないらしい。被せていた布団が乱暴に剥がれてしまった。
こうも騒がしくてはおちおちと二度寝をすることも叶わないな。仕方ない、二度寝は中止にして今日の仕事の途中でぐっすりと昼寝をすることにするか。
今日のスケジュールを頭の中で決めた僕は、寝ぼけ眼を擦りながら布団から起き上がる。
僕がもたもたとしている間に、元気なレティはカーテンを開ける。
すると、遮られていた日光が部屋の中に入ってきた。
眩しさに目を細めながら窓に近付くと、レティが窓を開けてくれる。
そこには中世の街並みが広がっていた。
レンガや木造で作られた住宅。道には石畳が丁寧に敷かれており、その上を走る自動車や自転車なんてものはなく、代わりに馬車が行き交っていた。
そう、ここは日本ではない。ここは地球の日本とは違った異なる世界。
ファンタジックな剣と魔法の異世界だ。
ほどほどに働いてのんびりと過ごす。死の間際に願ったことが叶えられたのか、僕こと宿屋健太は異世界にあるルベラという街の宿屋『鳥の宿り木亭』の息子として生を受けたのである。
なぜに宿屋の息子なのか突っ込みたいところは山ほどあるが、僕は病気を患うことも過労になることもなく、十二年の歳月を生きることができている。
というかこの世界では、前世みたいにバカ程働くことがないから過労になんてならないと思う。過労で死んでしまった僕としては、長時間労働が比較的少ないのは高ポイントだ。
「早く着替えて降りてきてね。お兄ちゃんが来ないと私と母さんが忙しくなるんだから」
窓から景色を眺めているとレティがそんな言葉を残して階段を降りていった。
僕の部屋は屋根裏部屋にあるから、出入り口は梯子で行き来することになっている。
荷物も置かれ、他の部屋よりもちょっと手狭ではあるが窓からの景色がとてもいいので気に入っている。
まあ、結局はそうだろうな。僕という労働力がいないと、その分しんどいのはレティと母さんなのだ。早く着替えて下に降りないと、朝から母さんに怒られてしまいそうだ。
宿屋の仕事は朝が早いからな。急いで支度をしないと。