2−5
沈黙があった。頭を下げたままの沖田広海。
モデルの姿勢のまま動かない近藤春人。
「わかった」僕は言った。「いいよ。そんなに謝らなくても。絵描きさんでも絵は描けない時があるものね。いいよ。全然」
沖田広海は顔をあげた。そして立ち上がると、あの夕焼けの海の絵を、海の部屋の壁から取り外した。
「ハイこれ」沖田広海は手に持った夕焼けの海の絵を、座ったままの近藤春人に差し出した。
近藤は目の前の絵と沖田広海の顔を交互に見た。
「この絵、欲しいんでしょ?」沖田広海は言った。「今日、海の絵描けなかったし、だからこれ持っていって」沖田広海は簡単に言った。
そんなこと言ったって、売らない絵だろ、御守りなんだろ、そんなもの簡単に人にやるって、何を考えてるんだ?
ひどく真面目な沖田広海の目が近藤の顔を捕らえていた。
これは困った。そんなおいそれともらうわけにいかない。なんか、違う、手順というのか、順番というのか。
「持っていて近藤さん」沖田広海はさらに続けた。多分、酔った勢いなんだろうな。明日になれば忘れてるんだろう。この場はおとなしく従った方が良さそうだ。
近藤は差し出された絵を、受け取った。沖田広海は、にっこりとした。そして、沖田広海はひざから崩れて、床の上に大の字に転がった。
「おい、どうした」僕は駆け寄った。
「ヘヘヘ・・」見ると、床に大の字に寝ている沖田広海が僕を見上げていた。「酔っぱらっちゃった・・」眠そうな目が言った。
「こうして寝転んでると、海に揺られているみたい・・」天井の巨大な海の絵を沖田広海は見ていた。大の字になった、とろけるような目で海の絵を見ていた。
近藤はもらったばかりの絵を持ったまま、開けられた窓の外を見た。そこにあったのは自分が良く知っている窓の外の眺めだった。
「ここ、オレの部屋だったんだよ」近藤は窓の外を見ていた。
原風景。沖田広海のそんな言葉が近藤の頭に浮かび上がった。
「へっ、そうなんだ」寝転んだまま、沖田広海は言った。
近藤は窓の外の景色を見ていた。見慣れているはずの景色が、今では懐かしい見覚えのある景色になっていた。それは原風景とは少し違うような、でも、とても懐かしい匂いがした。
僕は手の中にある沖田広海の海の絵を見た。半年くらい前に原宿の道端で彼女の店先に並んでいる時と同じ、強烈な光を放っていた。海が放つ光、絵が放つ光。
「どこにあるんだろうね?」
近藤がぽつりと漏らした言葉。それに沖田広海は反応した。
「どこに?」
「うん。この光っている海、どこにあるのかな?」
近藤はもらったばかりの海の絵を見ていた。沖田広海は手放した絵を見てはいなかった。
「どこかにあるんだ、きっと」
どこもみていない、部屋中に置いてある海の絵すら見ていない、空っぽの視線をした沖田広海は言った。
「うん、それを探して。うん。探せないから今も絵を描いているんだろうね」
探せないから絵を描いている?どういうことなのか?もし、探せて、見つかったら、もう絵は描かないと言うことなのだろうか?
寝息が聞こえてきた。見ると沖田広海は大の字のまま眠っていた。近藤はもらった夕陽の海の絵を慎重に畳の上に置くと、寝転がった。
昔の俺の部屋。今は海の絵がある部屋か。
近藤春人は大きなあくびをした。近藤も畳の上に大の字になった。天井の巨大な海の絵が目に飛び込んでくる。
海に揺られているみたいか。確かにその通りだ。近藤が眠りに落ちるまで、そう時間はかからなかった。
読了ありがとうございました。
まだ続きます