2−1
梅雨に入っていた。今は小雨だった。
夜十時過ぎの阿佐ヶ谷駅を降りる人間はまばらで、小雨の中、足早に駅を離れていく。
大勢の帰宅者に混じって近藤春人は改札を出た。
角を曲がるとすぐに家が見えてくる。近藤の家の前に車が停まっていた。黒のベンツ。車の前に人影が二つ見えた。
困るんだよね。人んちの前に車止められると。別に具体的に何に困るかってことはないが。ただ、やっぱり停められちゃ困る。なにせオレんちだからね。
「あのさ」僕は車の前にいる二人組の女に言った。「ヒトんちの前に車、停めないでくれるかな」
二人とも、びっくりしたように僕を見た。
一人は、ベンツの持ち主だろう。ベンツに見合った服を着ている。赤い髪に黒のコートが似合っている。もう一人は、カーキーのトレンチがあまり似合っていない黒髪の女の子だった。
「これ、違います。ウチらの車じゃないです」車の持ち主っぽい方が言った。
「あ?」トレンチの方が僕を指さしている。「見たことある」みたいな顔をしている。
しかし、当の近藤は相手が誰なのか分からなかった。
言われてみると見覚えがある。どこで会ったのだろう?思い出せない。
会社の人間でもないし、取引先の人間にはいないタイプに見える。誰だろう?僕が思い出すよりも先に、カーキートレンチの女の方が先に思い出したらしい。
「覚えてる。原宿の、ほら道端のお店で絵を売っていた・・・」先にトレンチの方が言った。
原宿の?道端?
思い出した。冬の原宿、表参道。絵の店の女の子。警察に追われて、表参道を走って、殴られた、あの女の子。
「絵を売っていた、君か」名前は聞いたような聞かないような。
「そう、絵を売っていた君よ」女の子は言った。「久しぶり、二億四千万円のお客さん」思い出した。僕があのときに、夕陽の海の絵に付けた値段だ。
「偶然だね。どうしたのこんなところで」驚いた。たった一日、それも街中で、ほんの少し喋っただけなのに、こんな所で会うなんて。
「どうしたもこうしたも。私のアパートここだもの」女の子が指さした建物は、僕の家だった。
「へ?」びっくりした。「ここ、俺の家だよ」
「じゃあ、お隣りさんってこと」女の子は言った。
「いや、俺んちは一階」
「じゃあ、大屋さん?大家の近藤さん?」
「まあ、大家は俺の親父だけどね」
「あらま」彼女は目を丸くした。それから深く頭を下げた。
「二階を借りています。沖田広海です」そして頭をあげた。そう、沖田広海。そういう名前だ。確か、広い海って字を書くんじゃなかったっけ。
「近藤春人です。よろしく」
なんという偶然。住む家が一階と二階だったとは。
「ねえ、立ち話もなんだし」もう一人の女が割り込んできた。「広海の部屋で話の続きしない?何の話か知らないけど」女は言った。
「私の部屋?」
私の部屋?ということは沖田広海の部屋、ということはつまりは女の子の部屋だ。それも一人暮らしの女の子の部屋。
「ダメよダメ。散らかってるし、それに何でわたしの部屋なのよ。ダメダメ。絶対ダメだからね」
そりゃそうだろうな。女の子同士ならともかく、男が一人でもいれば話は違う。それに僕たちは、そんなに知り合いでもない。
「でも、雨降ってるよ」確かに。小雨だが雨は降っていた。
「じゃあ、飲み行こうよ」言ったのは沖田広海だった。
「これから?」
「飲みに行こうよ。それで決定」と、勝手に決定されてしまった。
「それじゃ、十分後にここに集合。それでいいよね?大家さん、近藤さん」僕は、勢いに押されて、首を縦に振ってしまった。
「ねえ広海?この人、大屋さんなんだっけ」
「そうだよ、大屋さんの近藤さん」
「じゃあ、車置いていいですよね?」
赤毛の女は停まっている黒いベンツを指さした。
読了ありがとうございました。
まだ続きます。