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沖田広海は、喋りながらスケッチブックに「絵」を描き始めた。中腰で、左腕でスケッチブックを抱えてペンを走らせている。
沖田広海の視線が、モデルとスケッチブックの間を行き来する。
モデルの近藤は、沖田広海の視線よりも、通行人の視線の方が気になっていた。
絵の値段のやり取りをしていた時には意識しなかったギャラリーの視線。その視線の行方が見える。自分に注がれているのかが。だから気になっていた。
沖田広海が絵を描くこと、およそ十五分が過ぎた。
モデルの近藤春人はその様子を見ている。小さく、大きく、細かく、大胆に走るペンの動きは、止まらなかった。
モデルの近藤は、まったく動かなかった。いや、動けなかった。目線のやり場にも困っていた。スケッチブックとモデルの顔を行き来する沖田広海の目が、近藤を捉えていた。
沖田広海の店先にはギャラリーが集まってきた。ギャラリーが沖田広海の背中を取り囲んでいた。
男も女も若者も年寄りも日本人も外国人も、男連れも女連れも親子も沖田広海の描く絵を見ていた。
客の誰もが、描き上がっていく絵とモデルを見比べ、不思議そうに首を傾げていた。ギャラリーのおかしな様子は固まっているモデルの近藤にも見て取れた。
なにがおかしいのかな?オレの顔に何かついてるのか?そりゃ、もっとまとな顔に生まれてくりゃよかったけど、あいにくオレはこんな顔だ。でも、そんなに変な顔かオレは。何かヘンなのか?
沖田広海は急に立ち上がった。目が険しい。その視線はモデルの近藤を見てはいなかった。
「ゴメン、今日はおしまい。お客さん、どいて」沖田広海は、近藤を押し退けた。
木の箱をひっくり返すと、その中に商品の絵を片付け始めた。慎重に一枚一枚片付けて行く。
ほっとした。モデルから解放されて。それにしても、なんか慌ただしい。何が起こったんだ。
「何か・・・マズイの?」とても聞けるような状況じゃない感じがした。それでも聞いてみた。
「警察よ警察」沖田広海はあごで、示して見せた。
彼女があごをしゃくった方を見た。道路を挟んだ反対側の歩道に、警官の姿がある。
何やら他の店の人間にあれこれ言っている。隣の店の人間も、店をたたみ始めている。
「見廻りみたいだね」
「許可書、持ってないのよ」
「許可書?」
「こういう所で道端でお店出す時は、なんか許可取らないとダメみたいなの。それがないの」
「それで逃げるの?」
「そういうこと。家出少女に間違えられたらイヤだし」沖田広海は、すべての商品を片付けると木の箱の閉じた。
「お客さん、それじゃゴメンね」彼女は大きな木の箱を持ち上げようとした。両手いっぱい広げてもギリギリ届くくらいの大きな箱。
そりゃそうだ。なんせ、バカでかい、かさばる絵が入っているんだ。おまけに持ち手もない。箱だって重そうだ。女の子が持てるわけがない。
そうはいっても警察は待っちゃくれない。急いで逃げないと。なんだオレまで焦ってくる。さて、オレはどうしたものか。
さあ、どうしようか・・・。
「どいて」お客の近藤は沖田広海をどかせた。箱の前にしゃがんみ、両手を箱にまわして力を入れる。
結構重い、どころじゃない。
持てるか。持つしかない。それこそ引っ込みがつかない。踏んばった。こういうのは一気に行かないと。踏んばった。持ち上がった。重い。とっても重い。
近藤は一気呵成に木箱を持ち上げた。
「お待たせ」声を出すのもツライ。
沖田広海は、箱が持ち上がったのを見ると走り出した。
僕たちは走った。駆け降りる。表参道を。とてもキツイ。後ろは?追ってくるのか。赤信号だ。渡れない。どうする?
「こっち!」彼女が振り返った。左か?
沖田広海と、近藤は表参道から明治通りに入った。二人が通った後を通行人が振り返る。だが、二人の後に追っ手の姿はない。
沖田広海は、時折後ろを振り返った。箱を抱える近藤の向こうの様子を伺う。警官の姿はない。顔を真っ赤に染めた近藤がついてくるだけだった。
沖田と近藤は、明治通りから竹下通りに入った。表参道よりも道幅が狭いからか通行人の多い。二人は通行人をかき分けて行く。
もう限界だ。足が追いつかない。腕もしびれてきた。
「あっ!」足がもつれた次の瞬間。飛んでいた。
近藤春人の両足が重なっていた。木の箱を持ったまま、地面と体が水平になった。それでも近藤は木の箱を持っていた。
沖田広海は振り返って、木の箱に飛びついた。沖田広海の手が箱に届くと、二人は両側から箱をもったまま、落ちた。
竹下通りに人の輪が出来ていた。
木の箱を中心に寝そべった沖田広海と、近藤は見物人に囲まれていた。
木の箱しか見えない。箱から手を離して起き上がった。正面に女の子が見えた。ええと、誰だっけ。
「ガン!」耳で、そんな音が聞こえた。アゴがしびれている。何が起こったんだ?
「大事に扱ってよね。壊れたらどうすんの!」
近藤の目に女の顔と、握り拳が見えた。
読了ありがとうございました。
まだ続きます