6−4
嵐山京子と近藤春人は喫茶店を出た。
二人はバスで三崎口の駅に戻った。バスは海の上を渡る橋を再び超えて走った。橋の上から見える景色は、もう夕暮れが近いことを知らせていた。赤く染まり始めた空に光る太陽は、海に向かって沈み始めていた。
「帰ろうよ」
え?何だって。
近藤は嵐山京子の方を見た。嵐山京子は棒立ちだった。俯いていた。顔が見えない。
「もう、帰ろうよ、大屋さん」俯いたままの嵐山京子の声だけが聞こえた。
近藤春人は聞いた。帰ろうよ、と。
「帰るって?」近藤春人は聞き返した。
三崎口の駅前、バス乗り場で嵐山京子は近藤春人に「帰ろうよ」と言った。
近藤は嵐山京子の顔を見ようとした。顔は見えない。俯いたままだった。
「どうして?」嵐山京子は黙っていた。顔も見えない。答えも返ってこない。
「どうして?」僕はもう一度聞いた。
「広海、帰ってくるよ」嵐山京子は顔を上げた。「家の前で待ち伏せていればいいじゃない。どうせ二階なんだし。そっちの方が簡単だよ」嵐山京子は近藤に言った。
「絵、返すだけなんでしょ。待ち伏せして渡せばいいじゃない。こんなの無理だよ。絵はがきの場所探して広海見つけるなんて。出来っこないよ。無理だよ、もうやめようよ」
僕は嵐山京子の顔を見た。すごく困ったような顔だ。
「でもさ、絵を返すだけじゃない。連れて帰らないと。留学の話もあるし、連れて帰る約束したんだから」
「大屋さん、あんな人の留学話、まだ信じているわけ?」
嵐山京子はやや鋭く言った。答えに詰まった。完全に信じているわけじゃない。信じてみるには怪しいというよりも、わからない事が多すぎる。
ただ、沖田広海の絵を高く評価していることだけはわかる。
「どこまで探しに行くのよ」怒ったように、嵐山京子は顔をあげた。「どこまで探しに行くの?そんなことまでする必要あるの?」
近藤は観光案内の地図を追っていた。僕は答えなかった。そんな事、今更言っても始まらない。
「大屋さん、いい気になってんじゃないの」振り向くと、嵐山京子が睨んでいた。「外人さんから絵、取り戻せたからって、いい気になってんじゃない」
別に、いい気になっていたわけじゃない。
「そんなに広海の事、好きなの」
ギクリとした。
「そんな広海のこと好きなの」駅前で、人の多い所で。周りが見ている。あの時の、沖田広海と初めて出会った時のような、ギャラリーが僕たちを囲んでいた。あの日みたいに。
「そうだよ」僕は言った。「好きだよ。だから探すんだ。他にあるか?」
「絵を探して、手に入れて、返して、それで広海を喜ばせたいわけ」
「そうだよ」
「話したでしょ。あの絵は」
「だったらなおさらだ」僕は嵐山京子の言葉を切った。
「だったらなおさら、この絵を返さなきゃダメだ。広海がこの絵を超えられないんなら、よけいだ。オレは、広海がこの絵を超えたいんなら、超えさせてやりたい。そのためには彼女にもっと現実を見せなきゃだめだ。これだけの絵が描ける現実、これ以上の絵を描けない現実。それが出来るのはオレたちだけだ。広海の描く絵が好きだから。絵を描く広海が好きだから。自分の絵を捨ててもらいたくない、そうだろ」
僕の言葉を嵐山京子は黙って聞いていた。
「さっき言ったろ、絵を描いてる広海が好きだって。だったら、二人でもっと絵を描かせてやろうよ」
もう、周りの人間は気にならなかった。喋っている相手、嵐山京子だけ僕は見ていた。
「何で広海がいなくなったか、俺にもわからない。でも、自分の意思でいなくなった人間が、わざわざ手紙を寄越すか?探してください、っていってるようなもんだろ。多分、ひっこみつかなくなっちったんだろ。彼女、頑固だし。悩んでいる、多分悩んでいるんだと思う。でも少し悩みが解けたから、俺たちに絵はがきを送ってきたんだと思う。あとはどんな顔してみんなの前に帰ればいいか。それだけだと思う」近藤はまくしたてた。
「帰りづらいだけってこと」
「そうだと思う。ちょっとの踏ん切りだ。だから、俺たちで迎えに行こうよ」近藤は言った。
近藤の言葉に嵐山京子は沈黙した。
目が、嵐山京子の目が近藤を捕らえていた。そして動いた。
一歩踏み出すと、嵐山京子は近藤春人のコートを強引に引っ張った。
「来て」
「帰るんじゃなかったの?」
「乗って」嵐山京子はバスを指さした。油壺行きのバスだった。聞いたことがない地名。
「これに乗るの?」
嵐山京子はゆっくり頷いた。
読了ありがとうございました。
まだ続きます