5−3
知らなかった。絵を描くことが楽しい、楽しそうに絵を描いていた沖田広海にそんな過去が、というよりも悩みがあるなんて。
僕は沖田広海は自分の好きなものを自由に描いているものだとばかり思っていた。
「でもね、それじゃダメだと思ったんじゃないの。絵、大切にしないとダメだって。だけど自分の手元にあったんじゃ、いつ壊しちゃうかわからない。
だから、大屋さんに渡したんじゃないの。絵を大切にしてくれる人に。広海から聞いたわけじゃないけど。多分、そうよ」嵐山京子は言った。
絵を大切にしてくれる。それが俺だって?
「ねえ、わかる大屋さん。大屋さんは広海の一番の理解者なのよ。理解者。大屋さんだけなの、広海を日本に留めておけるのは」
「どういうことだ」僕は、彼女の嵐山京子の言っていることが分からなかった。
「広海は絵描きになりたいのよ。そのための勉強で、留学、それも海外だったら、こんなチャンスはないもの。ヒロミは外国に行っちゃうに決まってる。私はそれが嫌なの」嵐山京子は言った。
「なぜ?」
「なぜって、どうしてみんなどこかに行っちゃうの。みんなここにいればいいじゃない。今日も、昨日も、明日も、ここにいればいいじゃない。
何も変わらないで。どうして同じ所に居ようとしないのみんな。どうしてここから離れていかなきゃならないのよ」彼女は、嵐山京子は半べそをかいていた。
何が嵐山京子をそこまで不安に陥れているのか。正直僕ではわからない。
かわいそうな話だが、嵐山京子については他の誰かに頼むしかない。僕では手に負えないとかそういう問題ではなく、僕が口出しをする問題でもないような気がした。
じゃあ、僕が口だしできる問題ってなんだ?
僕が解決できる問題って何があるんだろう。
玄関の方で物音がした。誰か入ってくる。近藤と嵐山京子はキッチンの方へ戻った。
「不用心ね。ロックぐらいしなさい」入ってきたのはアオヤマ・スミレだった。
「あんた!いつも来る外人だ」嵐山京子は言った。「前、話したよね?広海の店に良く来る外人がいるって」
「あら、ヒロミのオトモダチね。久しぶり、元気だったかしら。大家さん。ヒロミはどこなの。ヒロミは」
近藤春人は、アオヤマ・スミレにことの次第をすべて話した。アオヤマ・スミレは黙って聞いていた。
「それは困ったわね」アオヤマ・スミレは言った。
「ヒロミから留学の答えを聞くつもりだった。イエスでもノーでも。本部が答えを待っているのよ。ノーならまだしもイエスだったら、早くしないと、留学が取り消しになってしまう。
あなたたちヒロミはどこにいるか知らないのね?」僕たちは首を縦に振った。
あんたよりもこっちが知りたいくらいだ。
僕と嵐山京子と顔を見合わせた。留学が取り消しになってしまう、ということは、沖田広海はまだ留学をするかしないかの答えを出していないということだ。
アオヤマ・スミレは腕組みをした。
「あなたたち、ヒロミを探せない?友達でしょ」などと外人は簡単に言った。僕は嵐山京子と顔を見合わせた。
探す。そりゃ、本当にいなくなったのなら、探さなきゃいけない。でも、本当にいなくなったんだろうか。
「まったく、ヒロミは慌てているのかしら。手紙をよこしたのはいいけど、何にも用件が書いてないじゃない」アオヤマ・スミレは言った。
手紙?手紙をよこしただって?
「アオヤマさん、その手紙ちょっと見せてもらえます」言葉より先に手が伸びていた。アオヤマ・スミレはすんなりと手紙を渡してくれた。
手紙の表にはアオヤマ・スミレの名前と四谷の画廊の住所。裏を見るとそこには海の絵があった。横長に広がる海岸線があるだけの海の絵だった。絵は白黒だった。
僕は手紙を何回もひっくり返した。何回ひっくり返しても住所と海の絵しかないのはわかっている。
でも、沖田広海はなんでこの手紙を出してきたのか。なんのために。それもアオヤマ・スミレだけに?
本当にアオヤマ・スミレだけにか?
僕や、嵐山京子には手紙を出していないのか。
近藤は沖田広海の部屋を出た。自分の家のポストを開けると、そこには一枚のはがきが入っていた。
はがきの表には、近藤の家の住所と近藤の名前が描いてあった。
はがきの裏には、モノクロの絵があった。絵はがきだった。
海の絵が、描いてある絵はがきだった。
「広海の絵だ」いつのまにか嵐山京子が隣に来ていた。
僕は絵はがきの表を見た。僕の名前、僕の家の住所、それに消印。
「消印だ」僕は声に出した。
「一昨日の消印」嵐山京子も絵はがきを見ていた。「一昨日まではここにいたってことよ」
「どうしました?二人で慌てて」のんびりとした口調で、ゆっくりとアオヤマ・スミレが階段を降りてきた。僕は絵はがきを改めてみていた。消印と、手描きの絵はがき。
読了ありがとうございました。
まだ続きます