3−2
「ありがとう、また来てね」
沖田広海は、絵を買っていったお客の背中に手を振った。
まったく夏らしくない冷たい夏はようやく終わった。秋は例年のような爽やかさで過ごしやすい風を伴ってやってきた。
休日の原宿は人が多かった。表参道を歩く人は秋の空気を楽しんでいた。
週末、沖田広海は店を開いていた。絵を並べ、木の箱に座って。嵐山京子と近藤春人が脇を固めていた。
この所、週末を沖田広海の店で過ごす。荷物運びが主な役目だけど、それはそれで構わなかった。
沖田広海の絵は意外にも人気があった。立ち止まる人間は多かった。
でも、なかなか売れなかった。人気が必ずしもセールスに結びつかない。そんな典型のような商品が沖田広海の店には並んでいた。
不思議なのは彼女の絵は日本人よりも外国人が良く目にしていくということだった。
何が、どこが違うのまではわからないが、絵を買っていった客も外国人だ。
「二枚、売れたね」沖田広海は二枚の一万円札をヒラヒラさせた。
今日、売れた絵は一枚は朝焼けの海の絵、一枚は流氷がある冬の海の絵。買っていったのは外国人の老夫婦だった。
映画にでも出てきそうな上品という言葉がピッタリの老夫婦が沖田広海の絵を買っていった。自分たちは大使館で働いていて、朝焼けの海の絵はダイニングに、流氷の海の絵は書斎に飾るとか話していた。
「あと一枚も売っちゃえば良かったのに」嵐山京子は一万円札をピラピラさせている沖田広海に言った。
「売らないの」沖田広海が売らないと言ったのは、あの夕焼けの海の絵だった。
実際、老夫婦が一番買いたい、寝室に飾りたいと言って食い下がったのは、あの「夕陽の海の絵」だった。沖田広海は断固として売らなかった。
あの「夕陽の海の絵」の所有者は今のところ僕になっている。
酔っぱらった沖田広海が勢いで僕に渡したままになっている。僕は、沖田広海の店に出向くたびに、あの夕陽の海の絵を持って行く。そして夕陽の海の絵を店先に並べる。
あの夕陽の海の絵は不思議と人目をひく。あの老夫婦も、僕もその一人だ。
あの夕陽の海の絵は目立つ。沖田広海が御守りと言ったのもうなずける。絵を買うかどうかは別にして、客を呼ぶことは確かだった。
やっぱり、あの夕焼けの海の絵は何かがあるんだ。
僕にはわからない、嵐山京子にもわからない、沖田広海だけが知っている何かしらのナゾみたいなものが。だから売らないのだろう。
原宿に夕方がやってきた。沖田広海たちは店じまいを始めた。
絵を一枚一枚、木の箱に絵を並べて片付けていく。木の箱に片付けた絵を、嵐山京子の車のトランクに載せた。
「絵、売れたから何か食べに行こうか」
そんな提案もあって、僕らは車を路駐したまま夕方の原宿を歩いた。
週末の夕方。店はどこも人でいっぱいだった。十分くらい歩いてようやく見つけた店は原宿にとても似つかわしいとは思えない古ぼけすぎた喫茶店だった。
僕は沖田広海と嵐山京子の向かいに座った。
「二枚、売れたね」向かいに座っている沖田広海は言った。
「二枚しかでしょ。本当はもう一枚売れたハズなんだから」突っ込んだのは嵐山京子だった。
「あれはダメ。大屋さんにあげたもんだし」
「そんな気にするなよ」僕は返した。
「気にしてないけど、やっぱりあげたものはあげたものだし」沖田広海は言った。
君に気にしろって言ってるんじゃないんだ。僕が気にするんだ。あんなに大切な、それもなんか訳ありの絵なんか、なまじもらっちゃったばっかりに。
「広海は」嵐山京子はコーヒーを飲んだ。「ゲッ、なにこのコーヒー、激マズ。ヒロミは絵を大切にしすぎるのよ。だから、売れないのよ」などと言った。
「大切にしちゃダメなの京子?」
「そういうわけじゃないけどさ。ゴメン、車に携帯置いてきちゃった。ちょっと車に行ってくる」そういって嵐山京子は席を立った。
うまく逃げやがって。案の定、沖田広海の目が僕の方を向いている。
同じ質問、されるんだろうな。
「ねえ、大屋さんはどう思う?」
「どうって?何が?」
「絵、大切に思っちゃダメかな」
「ダメじゃないさ」ダメじゃないよ。自分の大好きな物を大切にするのは全然悪くないよ。「でも・・」
「でも?」
「売り物って考えたら、大切にするのはどうかって思うよ。絵を売って生活していくって考えたら、売るものだって割り切らないと」
「それはわかる」沖田ヒロミは頷いた。
「でも、あの絵は、もう二度と描けないかもしれないでしょ。同じ絵は二度も描けないもの。その時の気持ちとかあるし」
それはオレにもわかるよ。オレは絵を描けないけどね。
「あの絵は世界に一枚しかないものだし、もう二度と描けない絵だったら、ねえ」大切にして当然でしょ、と言いたげな顔で、沖田広海は僕を見た。
「私ガ描カイタ大切ナ絵ダカラ、アナタモ大切ニアツカッテネ」
そんな無言の声が聞こえてきそうな顔だった。
「描けるでしょ」僕は言った。
「へっ」
「描けるでしょ、同じ絵は。描けるよ」軽い一言だった。沖田広海の表情が変わった。僕には違って見えた。怒っているのでもない。何か言いたそうでもない。
寂しそうな顔が、僕を見ていた。寂しそうな目が僕を見ていた。僕は、その寂しそうな視線に耐え切れなくなって、コーヒーを飲んだ。とてもマズいコーヒーだ。
「大変、大変!」嵐山京子が戻ってきた。「大変、車レッカーされちゃった」立ったまま嵐山京子は言った。
「レッカー?」停めてたのはまだ十分くらいだ。「早すぎないか、持っていかれるの?」
「でも、ないの」
三人は店を出て、車を路駐した場所に走った。その場所には嵐山京子のベンツはなかった。
路駐の車がズラリと並ぶ中で一か所だけ虫食いになっていた。嵐山京子の車が止めてあった場所には、警察が書くはずのチョークの文字がどこにもなかった。
「ねえ、大屋さん。レッカーされた時ってどうすればいいの」嵐山京子は焦っていた。そりゃ焦るだろうけど。僕も営業車が持って行かれた時はさすがに頭が混乱していたのを思い出した。
「そりゃま、警察に行ってだな、金払えば返してくれるけど」
それにしてもレッカーされるのに早すぎないか?
何時間も停めっ放しでチェックも無視していたら、持っていかれるのはわかるが、停めていたのは10分くらいだ。どうしてそんなに早く持っていかれるのか。
それになんで嵐山京子のベンツだけが持って行かれたのだろう。
「じゃあ、早く警察行こう。アレ、アニキの車なの、早く取りに行こ。警察に行こ」嵐山京子は近藤の服の袖を引っ張って急かした。
「ねえ、大屋さん。絵は大丈夫なのかな」沖田広海も近藤の服の袖を引っ張った。「絵、警察に没収されたりしないかな」
僕は沖田広海の顔を見た。困った顔が僕を見ていた。
「大丈夫だよ。そんなことで没収されたりしないよ」僕は沖田広海に言ってあげた。
それより何より、僕が気になったのは、道路に警察のチョークのメッセージが何もなかったことの方だった。
読了ありがとうございました。
まだ続きます