3−1
その年の夏は寒い夏だった。一日の最高気温が二十度を下回るような日も多く、夕立ではない寒々とした雨が多く降る夏だった。晴の日よりも曇の日が多い夏だった。
近藤春人は会社のデスクで伝票を整理していた。
携帯電話が呼んでいる。誰だ。見たこともない電話番号だ。
「もしもし?」
「もしもし?大屋さん?」女の声だ。大屋さん?間違い電話だろう。でも、聞き覚えがあるような。
「近藤ですが」
「そうそう、近藤さん。二階の沖田広海でーす。元気?」
聞き覚えのある声に、歓声が混ざってくる。
「元気だよ、元気。久しぶりだね?」僕は小声で話した。
「久しぶりだね。何?今仕事中なの。声が小さいけど」
「そう、仕事中だよ」時計は六時半を回っていた。窓の外は、もう夜に近い。
携帯から沖田広海の声が消え、波の音が聞こえてきた。波が打ち寄せる音が聞こえてきた。
「聞こえた?」
「ああ、聞こえたよ。波の音だね」
波の音。久しく、聞いていない音だ。
「そう、海の音よ。そっちの天気はどう?こっちは珍しくきれいな夕焼けよ。ちょうど陽が沈むところよ」
「へえ、こっちは曇りだよ」窓の外は、くすんだビル街しか見えない。夕焼けか。そういやここんところ太陽なんでまともに見ちゃいない。
「すごくステキよ。太陽の光が海に映って、キラキラして。眩しくて、目が見えない。でも、キレイ。なんていうのかな・・・その、とってもキレイ」
携帯から聞こえてくる声は、言葉が少なかった。ただ、その少ない言葉だけで、僕は、なんとなく今、彼女の目の前にどんな景色が広がっているかわかるような気がした。
海と、太陽と、夕焼け。たったそれしかない景色。その他に何が必要なのかな。砂浜もあってもいい、砂浜には波が打ち寄せていて、それから海の向こうを船が横切ってでもいくのかな。
「どうしたの。黙ったまんまで」
僕は言葉が少なくなっていた。すっかり、想像してしまっていた。窓の向こうは曇った夜になっていた。おもしろくない景色だ。
「いや、そっちの夕焼けの景色を想像してみたんだ。そういや、ここんところ、海にも行ったことがなけりゃ、夕陽なんてみてなかったし」口に出してみると、結構みじめだった。
今は夏だ。それなのに、ここは海でもなければ、夕焼けもない。夕焼けどころか太陽もない。冷夏とはよく言ったものだ。海にも行きたいと思ったこともなかった。夕陽もどうでもよかった。多分、泳ぐ気もなかったし、夕焼けを見なくても全然気にならなかった。夜になれば仕事が終わる、夕陽を見なくても。海水浴に行かなくても夏はやってくるものだった。今までは。この電話、海からの電話、沖田広海からの電話をもらってから急に海に行きたくなった。夕陽が見たくなった。夏を思い起こさせてくれる沖田広海の電話。
「いいなあ、俺も海に行きたいよ。夕陽の海が見てみたい」沖田広海が見ている海が見たい。そう思った。それが言葉になって出た。
「大屋さん、元気!」声が変わった。沖田広海の声じゃない。
「京子だよーん。今、広海たちとキャンプに来てるのよ。聞こえるー!」電話口から叫びいくつも聞こえた。海も、夕陽も、夕焼けも消え失せた。酔っているみたいなしゃべり方だ。
「館山はサイコーよ。ビールもおいしいし、今、焼肉してるのよ焼肉。聞こえる」肉が焼ける音が聞こえた。
「聞こえる聞こえるよ」
「それじゃ、またねー」
電話は切れた。
結局、僕が言った最後の言葉は誰にも伝わっていなかったわけだ。焼肉の音に負けたわけだ。おセンチになった自分が急にバカバカしくなった。言わなきゃ良かった。僕は仕事に戻った。考えたところで海に行けるわけでもないし、夕陽が出てくるわけでもない。
帰ったら酒でも飲むか。
しかし、
大屋さんはねえだろう、大屋さんは。
読了ありがとうございました。
まだ続きます