〔2〕
クリスマス・イブの朝は、この時期の房総半島では考えられない寒い日になった。
空と地上との間を薄いベールが覆い尽くし、大気中の細かな水蒸気が、昇ることも降りることも出来ずに冷えて集まりつつある。
沖の海流から運ばれてくるべき暖かい風は、どうしたわけか勢いが弱い。このままでは、かつてこの地で経験したことのない天気が訪れそうだった。
終業式を終え校舎を出た秋本遼は、ぴりぴりと頬を刺すような冷たい風に身震いしてコートの襟を立てた。
普段は学生服の下に薄手のセーターを着るだけで事が足りているが、さすがに今朝はコートを引っ張り出した。先月、実家に帰った際に無理矢理、母親から持たされた物だ。
クリーニングの袋からもう何年も出していないそれは、肩が少し窮屈だった。
そういえば、今日は雪が降るかもしれないと誰かが言っていた。
以前、北国に住んでいたというそのクラスメイトは、雪が降る前には空気の匂いでわかると言って皆に一笑されたが、遼には信じられる気がした。
自分もまた、そんな空気を感じていたからだ。
「おおい、秋本! 探してたんだ、捕まって良かったよ!」
裏門の前で呼び止められ振り返ると、一年先輩の須刈アキラが寒そうに背中を丸めて走ってくる。
「今日は寒いですね、アキラ先輩。僕に何か?」
「おう、ちょっとな」
アキラは、手に持っていた小さな箱を遼に差し出した。
「何ですか?」
「クリスマスプレゼントだそうだ」
いぶかしげな目つきで遼は、アキラを見た。
「俺からじゃないよ、預かり物だ。来栖が、おまえに渡してくれとさ。自分が渡そうとしても受け取らないだろうからって頼まれたんだ」
少し思案にくれたが、アキラが頼まれた物を、むげに突っ返すことは出来ない。
そう思い、取り敢えず遼は箱を受け取った。縦が二十センチくらい、横は十センチほどの箱で、奥行きは七、八センチくらいだろうか。パールの光沢のある厚紙で出来ていて、蓋は一カ所だけ天使のシールで留められている。
「そんなに気色悪そうな顔するこたぁ無いだろう? 何ならここで開けて見ろよ、気にいらなけりゃ返してきてやるからさ」
溜息混じりにシールをはがす。
大貫の一件以来、来栖が遼につきまとうことは無くなったが、好きになれない事にかわりはないのだ。
箱の中には、クッション材に包まれた包みがあった。何だろう、と、顔を見合わせ包みを開く。
「あ……」
それは精密で美しく、もの悲しさの漂う小さなブロンズ像だった。
少女が、小さな椅子に腰掛け膝にスケッチブックを広げている。
顔は斜め前方に向けられ、まるで彼方の情景を写し取ろうと思いを巡らせているかのような遠い眼差し。
「姉さん……?」
「はあ、さすがだねぇ。あいつは、やっぱり天才かもしれないなぁ。で、どうする? 返品するか?」
遼は黙ったままブロンズ像を見つめた。
今でも時折、美術室で絵里香の姿を見ることがあるが、だんだんそのイメージが遠いものになりつつある事を感じていたのだ。
手の中のブロンズ像に、胸を締め付けられるような息苦しさを感じた。
「いえ、もらっておきます」
アキラが肩を竦めると、遼は微笑んだ。
「だからといってモデルを引き受ける気はないと、伝えておいてもらえますか?」
「OK、あいつも下心があるようには見えなかったしな。ところでこれから『ゆりあらす』に行くんだろ、篠宮は一緒じゃないのか?」
「今日は用事があるからって、先に帰りました。多分千葉だと思います」
「ああ、そうかぁ……」
篠宮優樹の母親が、千葉の大学病院にもう長い間入院していることをアキラも知っている。
優樹は毎月必ず一度は見舞いに行くのだが、病院に行くとは決して言わない。
ただ金曜日に「明日は用事がある」と言うだけで、遼も何の用かは敢えて聞かなかった。
母親が仕事で不在がちのため学生寮から学園に通っている遼は週末、優樹の下宿先であるペンション『ゆりあらす』で過ごす。
ほとんどの学生が実家に帰る中、一人で居るのは可愛そうだと両親と親しいオーナーの田村がそうするように言ってくれたからだ。
しかし優樹が不在の土曜日は、館山の実家に帰るか寮に残るようにしていた。
無意識に、優樹の内面に関わることを避けようとしていたからかも知れない……。
一度『ゆりあらす』で病院から帰った優樹を迎えたことがあるが、いつもの彼とは違い口数が少なく、近寄りがたい雰囲気があった。
「アキラ先輩も、田村さんに誘われているんでしょう? 一緒に行きませんか?」
遼の誘いにアキラは空を見上げる。冷たいベールは高度を下げ、今にも細かい結晶となって地上に舞い降りてきそうだ。
「うーん、そうだな。約束の時間には少し早いけど、今のうちに出た方が良さそうだ。田村さんに渡すプログラムとコートを取りに行くから、少し待ってもらえるか?」
「構いませんよ。じゃあ、ここで待ってます」
片手を挙げ、立ち去ろうとしたアキラに思いついて遼は声をかけた。
「アキラ先輩、何故これを届けてくれたんですか? どちらにしても『ゆりあらす』で会えたのに」
振り向きざま、ニヤリと、アキラは笑った。
「まさか、受け取るとは思わなかったからな。他の奴らの前で突っ返されたら、さすがに来栖が気の毒だ。おまえも、体裁が悪いだろうし……。何にせよ、雪でも降らなきゃいいんだけどね」
苦笑する遼を背に、アキラは両手をポケットに入れ身震いすると足早に走り去った。