その6 己が力――見せる者、危惧する者――
「く……。二日酔いか」
早朝5時。目覚まし時計にせかされて目を覚ました古川を待っていたのは,強烈な頭痛だった。確実に昨日の酒が原因だ。
しかし、外は快晴。仕事は休めない。彼は鎮痛剤で痛みを無理やり押さえ込むと、仕事場――甲子園へと、足取りも重く向かった。
「小林さん。何で今日も……」
「あん? 昨日、わしの方であの新米の面倒見てやるって言ったじゃねえか」
甲子園のスタンド。今日もなぜかいる小林に疑問を挟んだ古川は頭痛と共に昨日の記憶を蘇らせた。
「ああ……。言ってましたね。そして、OK出してますね」
だろう、と言いたげな顔で古川を見る小林。しばらくして、頭を押さえつつ沢井もやってくる。こうして、今日の観戦も始まるのだった。
<天才>――。そう呼ばれるようになってから、どれほどの時が経っただろうか。
リトルリーグ、そしてシニアリーグでその名を轟かせた男、前田悟は、愛知の名門、中京崇城のユニフォームに身を包み、当然のようにレギュラーを奪って今年の甲子園に参戦、先日の初戦では勝利を決定付けるタイムリーを放っていた。
しかし、2戦目となったこの日の第1試合。彼はさらに強烈なパフォーマンスを観客に見せ付けた。
美しい打撃フォームから放たれた一撃が、ピッチャーの頭上を貫いていく。
「あっと、打ちました! センター前に落ちる! ランナー帰って1点追加。6回表中京崇城、3―1と再び突き放します。<天才>、今日は絶好調の3安打!」
追加点に盛り上がる中京崇城側スタンド。しかし前田はさも当然かのように1塁ベースに立っていた。
「さすがは<天才>。あの程度なら当然、か」
「そんなにすごいんですか? 彼は」
記者席で感想を言う古川に沢井が問う。
「これを見りゃええ。奴のシニアでの全成績だ」
そこに2人の右隣から割って入った小林が数枚の紙を差し出す。
「あ、ありがとうございます。……って、何ですかこの成績は!? 全国の強豪を相手にしていてもシニアの通算打率7割以上って……」
紙を見た沢井が驚愕する。そして、さらに読み進めると、もう1つ驚くことになった。
「こ、これって……。もう化け物じゃないですか!」
開いた口がふさがらない彼女に向けてそうだと言わんばかりに2人がうなずいた。
5―2で迎え、中京崇城の楽勝ムードが漂っていたはずの9回裏、マウンドに立つエースナンバーの顔がこわばっていた。
疲れから打ち込まれて1点を奪われ、なおもツーアウトランナー1、2塁。長打で同点、本塁打でサヨナラの大ピンチとなっていた。
(仕方ない、ここは奴に頼ろう)
「タイム!」
ついにここで中京崇城ベンチから伝令が飛び出す。そして、恐るべき事態が発生した。
数分後、スタンドはいまだざわめきに包まれていた。マウンドに立ったのは先ほどまでレフトにいた前田。この場面での1年の起用に誰もが驚きを隠せない中、彼は冷静だった。
(さてと。まあ、1球投げ込んでみるか)
細身の体をしっかりと操り、淡々と、しかし迫力を持ったフォームで、彼はボールを放つ。そしてその球は一瞬でマウンドとホームを切り裂き、スピードガンは142キロを記録した。
「高校初のマウンドが甲子園でも関係なし、か……」
スタンドの古川が呟く。そして、沢井も続いた。
「シニア時代の通算防御率1点台。その力が、これなんですね」
「わしも長年見てきたが、このタイプはあまりに少ない。まさに<天才>じゃ」
小林もやれやれとため息をついた。
「さてと。もう1球行くか」
再びそのフォームから球が放たれる。外角一杯のストライクに入り、今度は145キロを記録する。もはや観客は静まるのみ。ブラスバンドの応援も空しく響く。
(と、とにかく当てるんだ。三振だけは避けないと……)
バッターボックスを外し、呼吸を整える相手打者。だが、その行為も<天才>の前には無に等しい。
(甘いね。これで、終わりだ)
最後の1球が放たれる。そのフォームは過去2球と、まったく同じ。しかしその球の前に、バットは空しく空を切った。
「古川さん、あの球は……」
「彼の決め球チェンジアップ。しかもフォームは直球とまったく同じ。故に空振りする」
「なるほど……」
1年とはとても思えないそのマウンドさばきに、沢井は息を呑むことしかできなかった。
春堂高合宿所。神楽はこれまで見ていた、中京戦のテレビを消して呟く。
「あーあ。やっぱり俺より上かあ」
「まあ、仕方ない。あちらは才能のかたまりだ」
そこに勝田が追い討ちをかける。
「そうは言ってもな……。あ、ミーティングの時間だな。行かないと」
「そうだな」
勝田をさえぎり、走り出す神楽、そして勝田はそれを追う。
「あの球威にあのチェンジアップ。そう簡単には打てないだろう。だが、穴はあった。1つだけだが、それを見抜けば、とてつもなく大きい」
勝田のわずかな呟きが、そこに少しだけ残った。
「おい、次の相手は中京崇城に決まったぞ」
佐渡島の宿舎。ランニングから戻ってきた宮本に、仲間の1人が言う。
「うん、分かった。後でテープを見せて」
「了解」
仲間の応答を背に、笑顔で自室へ向かう宮本。しかしその顔は、わずかに引きつっていた。
「大会前から予想していたとはいえ、相手は<天才>。さて、どうしようか……」
かすかな不安が、彼を苦しめていた。
9回表、最後の1球がミットに入ると同時に、エースは淡々とマウンドを降りた。
「まだ2つ勝っただけ。だが、必ず天下を取る。誰にも止めさせない」
冷静な表情の裏に、確かな決意と野望を忍ばせて、押本は頂点のみをただひたすらに目指す。最終結果は14―2。チームも彼を後押ししているかのような戦いぶりだった。
去年の夏、その男の闘いを見て体が震えた。そして1年後の今、その男への挑戦権が手に入ろうとしている。
阪神翼陵高校(兵庫)2年、谷岡昭文。チームの次世代を担うべき俊足巧打の1番打者の憧れは、今大会最高クラスの右腕、押本神威その人だった。
(後1球、これで……。あの人に挑める!)
9回裏、最後の打者がツーストライクに追い込まれると、セカンドで彼は心の中で喜びをかみ締めた。しかし、相手とて県の代表校。その最後の1球に闘志を見せる。バットが球を捕らえ、濁った打球音と共に白球が、彼の守備位置へ転がる。
「!」
一瞬反応が遅れた谷岡。だが、素早くボールをキャッチすると体勢を崩しつつも1塁へ投げ、打者を寸前で仕留める。
「ゲームセット!」
審判の声が響いた瞬間、汗と土にまみれ続けた彼の心は歓喜に溢れていた。
「谷本か。今年はまだまだだが、来年は要注意だな」
「ああ。わしもそう思う。さてと、明日からは三回戦、どんな闘いが見れるのかのう」
「ええ。楽しみです」
記者席の3人もそれぞれに感想を語り、各試合をまとめだす。その日の夕焼けは、今後の激闘を予感させるかのように真っ赤に染まっていた。