断章之三 あるべき姿
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活動報告にて、記念小話ネタ募集中です(四月下旬まで)
信長は片眉を上げて、不快を表す。
「別に? 怒ってねえし」
「それが怒ってるというんだよっ」
「じ、十郎様。落ち着いてくださいませ」
「私は冷静だ!!」
「それのどこが冷静なツラだよ、女怒鳴ってんなよ馬鹿垂れ。いいトシして、恥ずかしくねえのか」
「私は真面目に話してるさ! あんたの方こそふざけていないで、少しは当主らしく振舞ったらどうなんだよ」
死肉の中に埋もれていたことは、奈江の前では言いづらかった。
十郎自身、あまり思い出したくない出来事というのもある。出会いが出会いだっただけに、きちんとした口調も長く持たなかった。いや、信長の方がまともに取り合ってくれないからだ。
やはり当主ではないから、軽んじられるのだろうか。
坊官たちはいつもそうだ。布施をきちんと払う者には丁寧に対応するが、そうでない者には見下した態度をとる。ろくに学問も修めていない愚か者と嘲笑うのだ。
学べる範囲を制限しているのは、本山の威を借る坊官たちなのに。
「阿呆か。家来もいないのに、威張ってどーすんだよ」
「いるわよ」
「あん?」
「昨日から森……ナントカっていう人が、屋敷の外で待ってるの。余所者は目立つから、出ていけば見つかるんじゃないかな」
「あいつめ」
「あ! 怪我はしていたけど、ちゃんと手当したから安心して。本願寺の人たちに見つかったら少し困ったことになるから、早々に引き取ってほしいところね」
これは十郎も初耳だった。
どこに隠れているのか知らないが、屋敷を出入りした際には全く気付かなかったのだ。奈江の手引きもあって、人目につかない場所に潜んでいたに違いない。
気が付けば、信長がこちらをじーっと見ている。
「土産」
「……何がほしい」
「茶。あれは美味かった」
「ダメよ! 作法も知らない人間がいれたら、せっかくのお茶が台無しになるじゃないっ」
「お前が入れたのか」
「そ、そうよ。おいしかったでしょう?」
「ああ、美味かった」
率直な賛辞をもらって、奈江の顔が誇らしげに緩む。
彼女が幼いころから厳しい指導を受けていたのは十郎も知っていた。せっかくの茶を粗末にしない意味もあるが、客へ出すものを不味く淹れるのは礼儀に反する。特に坊官、真宗教団の者たちは茶の良しあしにうるさいのだ。
奈江が茶を入れるようになったのは、今年に入ってからのことだ。
「淹れ方の作法か」
ふむ、と信長が顎を撫でている。
無精髭をしごくように手を動かしているのは、考え事をするときの癖だろうか。彼の目がどこか遠くを彷徨っている。
十郎は内心穏やかではなかった。
これに奈江がついていくと言い出すのでは、と冷や冷やしていた。屋敷で客人に出す茶を淹れるのは夫人の役目だ。奈江が知らなかったとは考えにくい。十郎の嫁候補として、幼い頃から厳しい教育を施されてきたのだ。
幼馴染である彼女が妻になることを、疑いもしなかった。
今日のこの時までは。
「あいつらが待っているなら猶更、長居は無用だな。茶の作法を習っている暇はないし、次の機会に回すとするか」
「おい、まさかまた来るとか言うつもりじゃないだろうな?」
「この茶渋染の着物も気に入ったんだ。反物ごと買い取るには、直接交渉した方が早いだろ」
「そうやって気まぐれで金を使うから、民が苦しむんだよ。何故、それが分からない!?」
「いや、俺のポケットマネーだから問題ない。レシピごと売るから、特許みたいに使うたび金が入ってくるわけじゃないんだよなあ。まあ、手続きも面倒だからシステム化するつもりはないが」
「な、なに?」
「十郎様、この人何て言ったんですか?」
奈江が袖を引っ張ってくるが、十郎も意味が分からなかった。
「つまりだな、俺が商人と取引して得た金だ。領民の金じゃない」
「なんで織田家当主が商人と直接交渉しているんだよ! あんた、おかしすぎるぞっ」
「俺も側近たちに丸投げしたいんだが、元締めが俺と直接交渉じゃなきゃ嫌だって駄々こねるんだから仕方ねえだろ。くそ忙しい時に呼び出される身にもなってみろ」
「当主を呼び出すだってえ!?」
「あー、やかましい。くそう、ハリセンも盗られたのか。牛一に筆記用具を預けておいて正解だったな。ちり紙と落書きに使われたら俺が泣く」
腹をぼりぼり掻きながら、また分からないことを言っている。
十郎はもう理解するのを諦めた。
おかしいとか、おかしくないどころではない。次元が違う。住んでいる世界に大きな隔たりがある。そもそも城一つしか持たない楠家とは比べようもなかった。
差がありすぎて、凹む気にもなれない。
「好きにしろ」
「そう拗ねるな。勝手に人んちへ入り込んだのは俺たちの方なんだ。お前らは怒ってよし! 俺が許す」
「何様のつもりだ」
「俺様」
ふふんと自慢げに言われた。
奈江の様子を確認すると、何とも言い難い表情になっている。
呆れを通り越して幻滅してくれればいい、と十郎は思った。身分ある者は妻を何人も得るのが通例だが、既に正室のいる男のところへ行っても不幸になるだけだ。
それから大量の茶葉を土産としてせしめた信長は、家臣と共に尾張へ帰った。
代わり映えのしない夕餉を食む。
いつものように奈江が給仕をしてくれるが、彼女が食事をするのは十郎の後だ。
「奈江」
「はい、十郎様」
「この長島の屋敷に移ってきて、何年になるかな」
「五年ほどだと思います。……どうしたんですか、急に」
「うん」
この飯が美味いと思う男のことを、少し思い出した。
日々の糧として必要なものであっても、美味いとか不味いとか考えたこともなかった。守るべきものに関して、十郎は義務しか感じてこなかったように思う。
茶渋で染めた着物を、いいものだと褒めていた。
奈江の淹れた茶を、美味いと言っていた。
「私は、何も言ったことがない」
「え?」
きょとんとする奈江に向ける顔が分からず、麦めしに汁をぶっかけた。
「ちょっと、十郎様!?」
あの男がやっていたように、ぞぞぞと流し込む。
全てを平らげるどころか盛大にむせて、奈江が慌てて背中をさすってくれた。
食べ方ひとつ変えただけで、いつもと違うような心地にならない。これが美味いというものだと思い込もうとしても、心が受け入れたがらない。
だが十郎は止まらなかった。
ガツガツと箸を鳴らしながら、乱暴に食べる。口の中が一杯になって、またむせそうになったら茶で流した。なんだか、しょっぱい。食事はこんなに塩の味がするものだったろうか。
十郎は塩の形を知らない。
あの男は伊勢布や伊勢茶のことを知っていたのに、十郎は他国のことを何も知らない。守るべき民が何事もなく暮らしていること、平穏を脅かす輩がいることだけを気にしていた。
尾張のうつけが常識破りなのは、嫌というほど理解した。
尾張国がどんな国なのかを、十郎は考える。
あのおかしな人間が生まれ育った土地だから、それはもうおかしな国なのだろう。だが信長は大経を朗々と唱えてみせた。一向宗が最も大事にする経文を、他宗の門徒も大事にしているということだ。考えれば考えるほど、分からなくなる。
「奈江、私は楠の者だ」
「はい」
「いずれ父の跡を継ぎ、楠城の主となる」
「そうですね。十郎様なら、いいお殿様になれると思います」
奈江のまっすぐな言葉は、以前の十郎なら嬉しくなっていたかもしれない。
ありきたりで、使い古された響きに気分が落ちていく。信長に対してはあれほど威勢よく、ぽんぽん言い返しては反論していたというのに。
あらゆる点で、十郎は信長に負けている。
きっと信長には恐ろしいものなど一つもないのだ。
だから死肉にまみれても平然としているし、裸同然で村を歩き、食欲も失わない。態度は偉そうだったが、無礼ではなかった。正しい座禅ができて、箸の持ち方もちゃんとしている。
六角氏の侵攻に耐えた北伊勢だが、織田氏が攻めて来たら負ける。
ぞくり、と震えた。
「そうだな。いい殿様にならないといけない」
奈江や民を守るために、十郎は強くなりたい。
漠然としか見えなかった未来が今、はっきりとした像を結びつつあった。
次から本編に戻ります




