【閑話】 世良田次郎三郎元信
酒井さんは大人枠なので、今回出てきません
無事に元服の儀を終えて、元信はホッと息を吐いた。
大人たちが去っていったので、ようやく落ち着ける。そつのない愛想笑いが抜け、幼さの残る顔立ちが無表情になった。視線が下を向いてしまうのは、もはや癖のようなものだ。長い人質生活は謙虚を通り越して、卑屈な心を育ててしまった。
そこへ複数の足音がパタパタとやってくる。
「竹千代様! おめでとうございます」
「違うだろ、鍋之助。もう元信様とお呼びしなければ」
「あ、そうか」
「気にしなくていいよ、呼び方なんて」
「そうは参りませぬ」
今度はゆったりとした足音がやってきて、元信の眉がへにょりと下がった。
4つ上の彼は一足先に元服を済ませている。松平家が抱える鷹匠の一人で、名は本多正信という。先にやってきた二人と同じく年頃が近いことから、元信の遊び相手として傍にいた。
「お前たちも、いずれは元服するのだ。幼さゆえの振る舞いと許されるうちに、臣下として相応しき作法を身につけよ」
「正信、そう厳しく言わなくてもいいじゃないか」
「なりませぬ」
ぴしゃりと言い切る強さに、二人の子供も首をすくめる。
気の強そうな顔をした背の高い方が鍋之助で、落ち着かなさげにきょときょとしている方は亀丸という。遠い未来で徳川四天王に数えられる本多忠勝、榊原康政である。とはいえ、今はまだ何も知らない幼子だ。
奸臣と呼ばれ、腸の腐った男よと蔑まれる正信もまだ口煩い青年にすぎなかった。
彼らを一人ずつ見つめ、元信は小さく笑う。
「元服したら何か変わるかと思ったけど、変わらなくて安心した」
「え?」
「……我らを見くびってもらっては困りますな。竹千代君、改め元信様。三河国に生まれし時より、主へ変わらぬ忠誠を誓うものと心得ております。そして主とは今、目の前におられる方のことでございます」
すると幼子二人が顔を見合わせる。
「今、竹千代って言った」
「うん、言った。正信も間違えた」
「間違えてなどおらぬ!」
「いや、間違えたっ」
ムキになって怒鳴り返すのは鍋之助だ。
早くも涙目になって袖を引っ張る亀丸を振り払い、ずいっと前に出る。同じ年頃の子供よりも背が高いので、正信とも視線の高さが大体合う。正信の背があまり高くないともいうが。
くだらないことで睨み合う二人に、元信は額を押さえる。
「ぼくのために喧嘩するなんてやめてくれ。亀丸も泣くな」
「だ、だって」
「喧嘩などしておりませぬ! 我が意を通さんとしたまれっ」
啖呵を切ろうとした矢先、ガチンと歯が鳴った。
正信が呆れ顔で首を振る。
「舌が回らぬのに無理をするな。馬鹿め」
「う、うるひゃい!!」
「鍋之助、だいじょうぶ? いたい?」
「いらくないっ」
またしても亀丸は振り払われ、尻餅をついた衝撃で大いに泣き出す。
鍋之助は今がまさに成長期であり、どうしても力の加減が上手くいかないのだ。鍛錬をする時もさんざんに打ち負かし、相手を泣かせているという。正信がニヤニヤ笑いながら報告してくれたのだが、元信の頭痛を増やしていることには気づいていまい。
三人三様の姿に、ふと懐かしい日々が蘇る。
今よりも手足がもっと短かった頃、元信の視線の高さで目を合わせてくれた人がいた。くしゃくしゃと頭を撫でてくれる大きな手は、いつも不思議なものを生み出していた。
彼は多くの人に好かれていたが、特に三人の側近と仲が良かった。
「そういえば、御子が生まれたそうですな」
「氏真様の?」
「いいえ、上総介信長様に待望のご嫡男誕生という報告が」
「それは目出度いな!」
今川氏真は義元の後継者だ。
北条家から正室を迎えたばかりだと思っていたのに、早くも子が生まれたのかとぼんやり考えていたら違ったらしい。思わず椅子を蹴立てる勢いで立ち上がれば、半眼の正信と目が合った。
なんとく椅子を元に戻し、そっと座り直す。
「……その、えっと、正信に聞きたいことが」
「元信様、はっきりと申されませ。大体予測はついています」
「うん。三郎あに……信長様に祝いの品を送るのは、まずいよね」
「このように話題にしている時点で、色々とまずいですな」
しかめつらしく正信が答え、またしても鍋之助がずいっと間に入ってくる。
「じゃあ、なんで竹千代様に喋ってるんだ」
「あ、鍋之助! 竹千代様じゃなくて、たけち……元信様だよ」
「どっちも同じだ!」
「違うよ! 鍋之助のばかっ」
「お前、正信が馬鹿って言ったから馬鹿って言ったな。お前も馬鹿だ!」
「馬鹿って言った鍋之助の方が馬鹿だよ!!」
「ばーかばーか!」
「うわああぁん、ばかーっ」
亀丸がこうなると止められない。
だから言ったのに、と元信は心の中で呟いた。泣き虫於亀と呼ばれるくらいに、亀丸はよく泣くのだ。少年期の甲高い声でわめき倒すので、頭にガンガン響く。鍋之助が顔をしかめているのは、泣かせてしまった罪悪感からか。はたまた喧しくて辟易しているだけなのか。
「…………場所を移しましょう」
「そうだね」
正信に促され、二人でそっと広間を出る。
とっくに儀式の片付けも終わって、後は元信が部屋へ戻ればよかった。縁側から空を見上げれば、春のぽかぽかした陽気が降り注いでくるように感じる。少し前に義元が催した桜の宴に参加したが、振舞われた酒はあまり美味しくなかった。
百薬の長というのも、どこまで本当なものか。
『干し柿は面白いよな。渋い柿が、こんなに甘くなる。ついでに栄養たっぷりで体にもいい』
干し柿を手づかみで齧りながら、信長はそんなことを言っていた。
ぽんっと投げ渡された時にはどうしようかと迷ったものだ。正信が傍にいたら、毒を危惧して絶対食べさせなかっただろう。見た目重視の冷えた料理よりも、焼きたてを直接かぶりつく肉の方がずっと美味しかった。竈の火力調節を間違えて、鍋をコゲつかせて苦い苦いと言いながら食べたこともある。
息ができなくなるほど走って、気絶するように眠った。
短い人生の中でほんのわずかな期間が、こんなにも懐かしく輝いている。正信たちがあの楽しい日々を知らないのが、とても悔やまれた。楽しかった記憶を共有できないし、昔語りとして笑い合うこともできない。
特に正信は、いちいち顔をしかめるのだ。
松平家のご嫡男として、ふさわしくない振る舞いだと諫める。信長も何度となく、そういう言葉に晒されてきたのだろう。それでも堂々としていた姿に、強い憧れを感じる。
彼の息子は、どんなに幸せだろう。
待望の男児誕生を、どんなに喜んだだろう。竹坊と呼ばれていた頃にしてもらったこと以上に、たくさん遊んでもらえるに違いない。それが妬ましく、羨ましかった。
「元信様?」
「あ、いや……ごめん。光が眩しすぎたみたいだ」
子供の泣き声はいつしか聞こえなくなっている。
泣き疲れた亀丸ともども寝てしまったのかもしれない。風邪の心配をする季節もであるまいし、冷えてきたら目も覚める。あるいは大人に見つかって叱咤され、飛び起きる。
もちろん、放置した責は主である元信にある。
「まあ、いいか」
「コッソリと送ることもできなくはないですが」
そっちじゃない、とは言わなかった。
今川家と織田家は敵同士の関係にある。既に一度、水野某が居城を巡って一戦交えたと聞く。あれから着実に力を蓄え、尾張国で最も勢いのある武家へと成長した。
信長はあの頃と変わらず、前を見据えて駆け回っている。
「ねえ、正信」
「何でしょうか」
「ぼくは世良田次郎三郎元信、と名乗ろうと思う。今の岡崎城は松平家のものじゃない。松平家はあってないようなものだ。ぼくはぼくのものを取り戻すまで、世良田元信になる」
「ほう、八幡太郎義家様のご子孫を名乗られますか」
「だめかな?」
「そこで相手の顔色を窺うようでは、まだまだでございます」
「…………」
「しょんぼりとしたところで何も得られませぬぞ、世良田元信様」
「正信!」
ぱあっと顔を輝かせれば、困ったような苦笑が返る。
「尾張のうつけ様も、上総介を自称しておられます。少なからず悪影響……もとい、背伸びしたいお年頃の我が君が多少格好をつけても問題ないでしょう」
「お前は誰の味方なんだっ」
「心外ですな。いつでも我が君の御為になればと心を砕いている所存でございます」
「正信の言い方は、いつも回りくどい。分かりづらい」
「できれば、深謀遠慮と」
「絶対言わない」
思わず口を尖らせれば、正信はくすくすと笑った。
世良田元信は影武者の本名という説もありますが、元康に改名する前に源氏の末裔っぽい名前として自称していた可能性もあるようです。
本多正信:鷹匠から参謀にまで上り詰めた智将。家臣団からの人格的評価が悪く、後世には奸臣と伝わっている。ひたすら家康のために尽くした人であり、家康のためになるのなら手段を選ばない非道な一面を持つ。
本多平八郎忠勝:徳川四天王の一人。言わずと知れた生涯無傷・戦国最強の猛将にして、家康の右腕。に成長する予定だが、今はまだヤンチャ盛りのガキ大将である。
榊原康政:通称は小平太。忠勝と同じく徳川四天王の一人に数えられ、達筆で知勇に長けた名将。に成長する予定だが、今は泣き虫於亀である。実は気配り上手で、突進しがちな鍋之助の補佐として一緒にいることが多い。




