【閑話】 傅役と教育係
※二話連続更新しています
日が落ちれば、途端に辺りは足元もおぼつかくなる。
蝋燭に火を灯すのは小坊主たちの役目だが、この小さな寺にいるのは痩躯の和尚一人きりだ。それでも明るい時間には、周辺の村で生まれた子供たちが賑やかしにやってくる。親よりも若い和尚は、誰よりも博識で話し上手であることを知っているからだ。
ぎしぎしと軋む廊下を過ぎ、本堂に足を踏み入れる。
滅多に驚かない和尚だったが、灯りに照らされた姿に一瞬言葉を忘れた。
「……相変わらず、いいお顔をしてなさる」
「御仏のご尊顔は、分け隔てなく手を差し伸べる慈愛の現れでございますからな」
「うむ」
どちらともなく合掌し、黙祷を捧げた。
それぞれの胸に去来するは異なる面影だったろうが、最近めっきりと老け込んだ男の用件はだいたい察した。ここ数年、いやもっと前から唯一人のことに心砕いている。
皺の数だけ悩みがある、とは言いすぎだろうか。
沢彦は裾をさばいて、ゆるゆると本堂へ足を踏み入れた。
再び仏へ礼をして、蝋燭に火を移していく。ぼうっと燃えだした赤が、周囲の闇をわずかに払う。隣に腰を下ろそうとすれば、男が慌てて円座を譲ろうとするので押し留めた。
「お客人に譲らせるなど、滅相もない」
「いや、しかし沢彦殿」
息子ほども年の離れた若造に、頑固な男は再び円座を譲ろうとする。
身分だけで言うなら、男の方が遥かに上なのだ。城におわす主君に一言囁くだけで、この小さな寺は消し飛んでしまう。互いにそれを分かっていて、この態度。
苦労人、という言葉が実に似合う。
「平手殿」
様をつけるのは非常に嫌がられて、話が進まないのでこう呼ぶ。
「この時期の夜は短きもの。かような問答をしていては、本題へ入る前に日が昇りましょう。慌てて戻ったところで、大事な若様は姿をくらましておいででしょうな」
「…………いやはや、本当に三郎様は何を考えておられるのか」
掴んだままの円座に縋るように、平手政秀は頭を垂れた。
肩を落として力ない姿は、文武に勝る剛の者という印象はない。泣きだしそうに声が震えているものの、こけた頬は乾ききっていた。
「わしには分からぬ。三郎様は一体、どうなさりたいのか」
「面と向かって聞けばよろしかろう。他でもない平手殿の問いかけに、あの若様が無下になさるとは思いませぬ」
「そうさな、わしの言葉を無視なさることは決してない。だが、困ったように笑うのだ。わしの小言を、まるで子供の駄々のように流してしまわれる。何もわかっておらぬのはわしの方だと、三郎様の目が語っておられる」
「ふむ……」
沢彦は目を眇めた。
織田信秀によって傅役を命じられて以来、政秀は誰よりも吉法師の傍に在った。物心つく前より問題だらけの御子ゆえに、次男の勘十郎の大人しさが際立って見えたものだ。
今川家に人質として預けられたことも、政秀の心を痛める要因であろう。
力及ばず、我慢の日々を重ねることになった。幼い子供にどれだけの負担を布いたのかは、尾張へ戻ってきた途端の暴挙で明らかだ。よりによって織田本家が居城、清州城でボヤ騒ぎを起こすなど通常は考えられない行いである。
吉法師は非凡の子ゆえに。
発想とは、己の裡より生まれ出るもの。突飛な行動は、思いついた事柄を体現することに他ならない。これは何か、という疑問を吉法師は己の五感で確かめずにはいられなかったのだろう。
物事に答えを求めようとする心理は、何も特別なことではない。
原因と結果は常に隣り合わせだ。
「おそらく、今川家で何かをご覧になったのでしょうな」
「何かとは?」
「それは拙僧の与り知らぬこと。全ては御仏の導きでございます」
「三郎様が変わられたのは、仏の意思だと申されるか」
「如何にも」
教育係を任されたとはいえ、沢彦も万能ではない。
せいぜい蓄えた知識を、常道から逸脱しない程度に教えるだけだ。ともあれ、吉法師は行儀のよい教え子だった。説法が始まった途端、くうくう寝始める取り巻きたちと似ても似つかない。
そして従順に教わるだけの勘十郎とも違う。
疑問に思ったら質問をし、納得いくまで食い下がる。
いきなり寺まで押しかけてきたと思ったら、泥がついた草について問われた。名前ではなく、効能や食べられるかどうかを知りたかったらしい。
狩りも好きだが、腕が悪い。
罠を仕掛けようという発想は合っているのに、不器用ゆえに上手くいかない。そのうち、実行するのは全て取り巻きたちに任せることを覚えた。吉法師は口を出すだけだ。
本来、上に立つものはかくあるべき。
沢彦が教えずとも、政秀が口酸っぱくして訴えてきたことも、吉法師はいちいち体験してから覚えようとする。疑い深いといえば、そうなのだろう。あらゆるものに疑問を呈するため、織田家の人間はすっかり吉法師のことを見下すようになってしまった。
勘十郎は賢い、勘十郎は素直でいい子だと土田御前が褒めそやす。
あれは母としてどうなのかと沢彦は眉を顰めたものだ。
さすがに吉法師が哀れになるのだが、当の本人は一向に気にした風もない。
「そういえば」
「平手殿、何か?」
「乗馬にまだ不慣れであった頃、三郎様――当時は吉法師様とお呼びしていた――が少々……その」
「ああ、尻に大痣を作られた時のことですな」
「う、うむ」
仮にも仕える主のことだ。
本人も忘れたいだろう大失態を、教育係とはいえ他人に話すのは抵抗があるようだ。それでもここを話さなければ次に進めぬとばかりに、政秀は渋い面持ちで続ける。
「さすがに安静にする必要もあって、数日ほど寝込んでおられたのだ。これに懲りて、馬に乱暴を働くこともあるまいと思っておった。いや、わしが言いたいのはそこではない」
「何か奇妙なことでも始めましたか」
「家臣一人一人の名前を片っ端から聞いて回ったそうだ。とうとう本格的に頭がどうにかなったのだ、と憐れまれたよ。廃嫡の日も近い、とな」
当時のことを思い出して、政秀はぷるぷると拳を振るわせている。
今川家より戻って、吉法師は齢9つを数える。尾張から長く離れていたとはいえ、わざわざ家臣たちの顔と名前を一致させることに何の意味があるのか。
沢彦はハッとする。
「確認したかったのではありませぬか?」
「そのようなことをせずとも、近しいものだけ覚えておれば済む。たとえ分家でも末端の者まで声をかけるなど、次期当主のなさる行いではないぞ」
「ですから、敵と味方の確認ですよ」
「…………なに?」
がばりと政秀が顔を上げた。
唾がかかりそうな近距離だったので、沢彦はそっと位置をずらす。
「若様は昔から、疑問に思ったことには答えを得るまで諦めぬ性格です。落馬した衝撃で、周囲のことが見えるようになったのかもしれません」
「まさか、三郎様は……」
「弾正忠様が何も仰らないのをいいことに、御方様と信行様を擁護する声がこちらまで聞こえております。密かに若様を亡き者にせんという企みも」
「し、痴れ者が!! 妄言でも聞き捨てならぬぞっ」
政秀は顔を真っ赤にして、今にも飛びかからんばかりだ。
吉法師改め、三郎君を狙う悪党が沢彦だと決めつける勢いに眉をしかめる。唾のかかった袖を揺らし、その陰でそっと息を吐いた。なんだかんだで、政秀は三郎君が大事で仕方ないのだ。
「お静かに」
「だが!」
「ご安心めされよ。若様もとうに気付いておられますゆえ」
「あっ、安心できるか!! お命を狙われておるのだぞ。それを知りながら、何故素行を改められぬのだ。そこまで気付いておるのなら、きちんと振る舞うようになさればよい!」
「まこと嫡男、次期当主に相応しき方と認められれば問題ないと仰いますか」
「当然であろうっ。三郎様はやればできるお方ぞ」
政秀は少々盲目的に過ぎる。
三郎君は人並み外れた発想と探求心を持ち合わせているわりに、文武共々そこそこ程度である。できないことも多いのだが、それは言わずにおく。
「家臣に認められても、尾張の外は如何なものでしょうか」
「……む」
「北に美濃、東に今川。情勢は未だ厳しいものだと聞いております。尾張の虎と名高き殿様がご存命であるからこそ、均衡が保たれているのです。城にこもっていては、外のことは見えませぬ。外ばかり目を向けていても、足元が崩れ始めては元も子もない」
「むむう」
「平手殿。どうぞ、若様とじっくりお話しなさいませ。泣き落としでも何でもよいではありませぬか。固く口を閉ざし、誰にも告げぬ胸の裡を問うてみるのです」
「話してくださるであろうか」
「さて、はて」
「沢彦殿!?」
あえて答えず、くすりと笑う。
三郎君からは「何か企んでいる顔」と評される笑みだが、政秀の背を押す一助にはなったようだ。もしも話していただけぬなら、傍に仕える意義なしとまで覚悟を決めた。
沢彦もまた、密かに決める。
政秀にまで見限られるようなら、三郎君もそれまでの人間である。類稀なる魂を持って生まれた以上、これからの生は波乱に満ちたものになるだろう。
未だ始まってすらいない。
どう転ぶか予測つかないから、人生は面白い。
「全ては御仏の導くままに」
じゃらりと数珠の鳴る音に合わせ、蝋燭の炎が揺れた。
たまに主人公以外の別キャラ視点を書きたくなるので、今後も閑話がちょいちょい入ります。
本編が中断されるので連載を分けた方がいいという意見などございましたら、メッセージなどでお聞かせください。今後の参考にさせていただきます。