58. 信長暗殺計画
数日後、俺たちは那古野城へ帰ってきた。
ちなみに信広は末森城へ直行したので、ここにいない。
重傷者の何名かは置いてくることになったが、俺の討ち死も危ぶまれていた戦の大勝利に場内は沸いた。特に俺の嫁の反応は顕著で、具足を外す間もなく抱きつかれてしまった。
「お、おい、お濃」
「よかった。無事で、帰ってきてくれて……本当に、よかった」
「うん」
頭を撫でようとして、ゴワゴワした手に顔をしかめる。
だが帰蝶の髪も心なしか、美しい艶がない。首に埋まって見えない顔も、やつれている気がする。具足越しの感触はもどかしい限りだったが、この場で襲ってしまうよりはマシだ。
「ただいま、戻ったぞ」
「はい、……はい! お帰りなさいませ、あなた」
「泣いているのか、珍しいな」
「わたくしだって泣くこともあります! それに嬉し涙ですわ」
「うん、綺麗だ」
「もうっ」
涙がきらめいて綺麗だったのに、お世辞だと思われた。何故だ。
それから帰蝶に名前で呼んでもらえなくても、別にいいかと思えてきた。
お帰りなさいの後に続いた「あなた」という響きは悪くない。実に悪くない。むしろ帰蝶にしか呼んでほしくない。
どうやって、それを徹底させるかだ。
帰蝶を抱きしめたまま思考の海に沈みかけると、後方でわざとらしい咳払いが聞こえてきた。無視するが、ゲホゲホとしつこい。
「うおっほん!」
「なんだ、五郎左。邪魔すんな」
「そういうのは具足を外して、城の奥で存分に。今はまだ城の入り口でいちゃつかれますと、非常に目の毒でござる」
「だから、お前らもさっさと嫁を」
「ごめんなさい、わたくしとしたことが。部屋に戻ります」
「え、ちょ……お濃さん!?」
あれだけ熱烈なお出迎えをしてくれたのに、すっと離れる。
涙の痕もきれいに拭って、いつも通りのすまし顔だ。数人の侍女を連れて、奥の間へ帰ってしまう。中途半端に広げた腕からは、小姓たちが武装を取り外していく。
足にも取りつかれてしまえば、俺はもう動けない。
「五郎左」
「何か」
「その、助かった」
「元舎弟として、当然のことをしたまでです」
側近ではなく舎弟として進言したという長秀に、苦笑が浮かぶ。
同志だ、仲間だと言い張っていたのは俺の独りよがりだと思っていた。
この男はいつでも俺の理想を理解し、俺のやり方や意図を汲んでくれる。小さな心の揺れすらも、読まれているのかもしれない。顔も見たことのない異母兄よりも、ずっと兄貴らしい存在だ。
「今日は皆も疲れているだろう。細かい処理は明日に回してかまわん。その代わり、卯の刻には評定を始める。……叔父上もそういうことでお願いします」
「あいわかった。三郎殿もゆるりと休まれよ」
「ありがとうございます」
仲良きことは美しきかな、と笑って立ち去る。
「叔父貴も結構お茶目さんだよな。あー、恥ずかしいとこ見られた」
「不可抗力では?」
具足を手に、橋介が顔を上げる。
たくさんいた兵士たちも散っていき、もう側近しか残っていない。
「予想外だったが、嫁が可愛かったから何も問題ない。それよりも俺たちは休む前にやることがあるからな。まず美濃勢には早々にお帰りいただく。半介、恒興……情報統制はしっかりな」
「はっ」
「お任せあれ」
「内蔵助と、犬! お前らは馬鹿が馬鹿をやらかさないか見張っとけ。明日の評定は早いから、遅れるんじゃねえぞ」
「「合点承知!!」」
戦のあとはどうしても気が高ぶる。
寺本城で少し発散させて、城へ戻ってくるまでにも数日あった。
行軍中にオイタをせぬよう気を配っていたから、帰ってきたという実感がわく前に気が緩んでしまう可能性もある。成政たちがいれば、乱闘騒ぎがあっても「またか」で済むだろう。
女に無体を働くより、数倍マシだ。
もちろん夫婦関係なら何も問題はない。
急にかしこまった態度に変わった安藤守就にお礼を述べ、美濃国でゆっくりしてくださいねと言い添えておく。帰る場所があるのはいいことだ。無事を喜び、出迎えてくれる人間がいるのはとても幸せなことだと思う。
俺も帰蝶のところへ向かうはずだった。
着替えを済ませ、いそいそと寝所への近道を急いでいたときである。
「殿」
「……一益か」
しゅたっと闇から現れる影。
最初の頃は忍者っぽいと喜んでいたが、もうワクワクしない。楽しみを邪魔されて、とても不機嫌である。かといって無視できるものでもない。
「お耳を」
「うむ」
「暗殺計画あり。大和守主導」
俺は震えた。
耳に息を吹きかけられたからじゃない。
とうとう動き出したか、という武者震いだ。これでも坂井某が糸を引いている可能性もあるが、奴は敗戦から影響力を低下させている。発言力を奪われていた主君が、別方向に気合を入れたようだ。
それにしても早すぎる。
襲撃の噂を信じて、籠城を決め込んでから五日ほどだ。村木砦をめぐる戦いに勝利した報告が、既に信友のところにまで届いているというのか。
「ああ、そういえば林兄弟が荒子城に……荒子!?」
「殿?」
荒子村は利家の縄張り、もとい故郷である。
うっかりしていたが、この頃の前田家がどれくらいの地位にあるのかを把握していなかった。利家が家族について何も言わなかったのもあるが、俺自身が訊ねようともしなかった。成政ともども、気楽な次男三男であるという。
「嫡男じゃなきゃいい、ってもんでもないだろ」
今更過ぎて頭が痛い。
林兄弟はどうせ、俺と心中したくないからボイコットしたのだ。俺は勝つための努力を惜しまなかったが、信行贔屓の彼らには悪あがきにしか見えなかったのかもしれない。
余裕で勝ったけどな、ははは!
なんて笑っている場合でもない。暗殺計画が実行されれば、普通にヤバイ。俺には滝川一族がいる。寝所に忍び込む前に仕留めてくれる。
「…………今夜は我慢するか、はあ」
「是」
「もしも密告者がいたら、丁重に保護しろよ。本家から見たら裏切り者だ。バレた時点で、命を狙われかねない。俺の味方は俺のものだ。傷つける奴は許さん」
「承知」
こくりと頷いて、一益が闇に溶ける。
何度見ても、仕組みを疑いたくなる現象である。
彼に言わせると、忍にも何種類かあるらしい。俺の想像している忍者は、間諜や情報操作を得意な「草」と呼ばれる。素破や乱破は、荒事向きのようだ。そして忍衆の棟梁って、武家や土豪の一族として表に出ることも多いとか。
そのうち一益も、俺の家臣として表舞台に出てくるようになるのだろうか。
奴も未婚のはずだ。いかん、早く子作りせねば!
「だから、お前が言うなっていう」
一人寂しく呟いて、がっくりと肩を落とした。
数日後、全て片付いたとの報告を一益から受けとる。どうやら守護代義統の家臣に知られた挙句、自分の家臣からも密告者が出たようだ。斯波氏の方は後から使うために放置して、密告者である弥五郎という青年を家臣に加えた。
若い奴らには人気あるんだよなあ、俺。
いきなり城に住まわせるわけにもいかず、城下に屋敷が建つまでは那古野村の護衛をさせることにした。幸に一目惚れして、そのまま住みつくことになる。
那古野弥五郎:信友の家臣でありながら信長暗殺計画に反対し、信長へ知らせようとしたところで一益の配下に保護される。
以後は信長の家臣として名を連ねることになるが、ほとぼりが冷めるまでに隠れていた地で村娘に一目惚れ。猛アタックの末、見事に夫婦の契りを交わす。弥五郎夫婦は村の管理職を村井貞勝から譲られて、代々那古野姓を名乗る。




