【閑話】 上総介の妻
婚儀後から村木へ出立までの回想を含みます。
作中に出てくる女郎花(40話参照)は、有名な和歌をネタにしています
新年早々というか、小正月が過ぎるのを待っていたのか。
信長は軍勢を連れて、出陣していった。
その規模は大きいのか小さいのか、実際に戦へ出向いたことのない帰蝶には分からない。だが父・道三が送ってきた安藤日向守守就の軍は多い方だという。
「お父様ったら……」
「何か、気になることがございましたかな」
「いいえ」
短く答え、父からの文を丁寧にたたんだ。
文箱へしまうために受け取った侍女・由宇も、向かい合わせに座っている小六も気遣わしげな視線を向ける。尾張国の城にいながら、この部屋の全員が美濃国出身だ。
人払いはとうに済ませていた。
帰蝶が何を言い出しても大丈夫なように手配してくれたのだろう。
無用な気遣いだと思う。余計なお世話だとはねつけるのは簡単だったが、それも帰蝶を思うがゆえだと分かっている。心のどこかで、彼らに縋りたいと考えてしまう。
自分はこんなに弱かっただろうか。
「由宇、移動する用意を。女衆は皆、離れに移ります」
「えっ」
移動すると聞いて喜色に輝いた顔が、訝しげなものに変わる。
「上総介様は、守就の軍に留守居を任せたのよ。万が一ということもある。男衆の邪魔にならぬよう、わたくしたちは大人しくしていた方がよいのです」
「万が一、とは」
「その先を言わせるつもりかしら、山賊風情が」
「姫様は相変わらず手厳しい」
むさ苦しい顔で髭を扱く様に、眉間のしわが寄る。
美濃国にいた頃はあまり気にならなかったが、この五年間で信長の顔に見慣れてしまったからか。髭だらけの顔に嫌悪感を抱いてしまう。信長の髭はかわいらしいのだ。ちょっとだけ生えているそれを、綺麗に撫でつけるのが楽しくてたまらない。
くすぐったくて嫌がる信長を宥めるのも、また楽しい。
そうやって仲睦まじいのに、何故子が生まれぬのかと由宇はぼやく。
最初の数年は指一本触れてもらえなかった。
政略結婚で結ばれた仲だ。何度も愛を囁いてくれる信長が、実の親よりも道三を警戒しているのを知っている。美濃国と敵対したくないから、帰蝶を大事にするのだ。
『こ、これは……その! わたしに届いた文でございますっ』
顔を真っ赤にしながら、くしゃくしゃになった文を抱きしめた由宇が浮かぶ。
婚儀の場にも由宇はいた。たった一人の侍女だ。彼女がいなければ、帰蝶は何もできない。野山を駆け回り、食べ物すら自分たちで用意できる信長とは違う。
そんな彼だから、純然たる姫よりも由宇の方が美しく見えるのだ。
婚儀の後、何度か文が届いた。
由宇は信長に対して良い感情を持っていない。主の夫から恋文をもらっても素直に喜べないのは、帰蝶にも分かる。ぷりぷり怒っている顔が、帰蝶に見つかった途端に赤く染める。
辛かった。
けっして言葉にすることはなかったが、自分のことは気にせずに側室でも妾にでも召し上げればいいと思っていた。隠れてコソコソされるくらいなら、その方がずっといいと思えた。
だって信長は、帰蝶を大事に扱ってくれる。
村に行きたいと言えば連れて行ってくれるし、妹である市姫も慕ってくれる。那古野城で不自由を感じることなど、一つもなかった。不満の種は芽吹くことなく、心の底で眠りにつく。
ある日由宇が鬼の首を獲ったような顔で、報告してきた。
『うつけの放蕩がすぎて、とうとう金が尽きたそうですわ! 困り果てた顔ががいい気味です』
誰が聞いているとも分からないのに、迂闊な侍女を叱る。
彼女としては帰蝶が喜ぶと思っていたのだ。もう信長に対して不満を抱いているのは由宇だけだというのに、乳兄弟である彼女は分かってくれない。己の不満を押し付けているだけだということに気付いていない。
美濃国には気になる男がいた。
遠くから眺めるだけの淡い恋だったが、いつかはと思っていたようだ。勇気を出す前に帰蝶の縁談が持ち上がり、侍女としての矜持を優先させた。自分で決めたことなのに、と帰蝶はそっと溜息を吐く。
それすらも由宇は信長に何かされたのだと勘違いする。
息まく侍女をよそに、道三へ文を書いた。
遠く離れていても愛する父への思いは消えない。
どんな些細なことでも喜んでくれるので、色々なことを綴っては美濃へ届けさせた。文を運ぶのは美濃国から連れてきた下男の役目だ。あの男から、尾張国の内情は伝わっていることだろう。
だから帰蝶は当たり障りのない話と、報告を補填できる内容をまとめることにした。
金塊が届いたのは、きっとそのおかげだ。
帰蝶は嬉しかった。
父の愛が、信長に対する評価の高さが嬉しくて、まるで自分のことを褒められたように浮かれた。なのに信長は、帰蝶に届けられたものだからと受け取らない。
そんなに道三が怖いのか。
貸しであるなどという文言は、父なりの洒落だ。
文句を言いたかった。
でも信長は冷静で、淑やかな振る舞いをする帰蝶を褒める。だから何も言えなかった。顔を見たら文句を言いたくなるから、部屋にこもった。
心配して様子を見に来てくれたら、勝手な行動を謝ることもできたのに。
信長は来なかった。
そして由宇に、文が届いた。女郎花の花を添えるなんて、いやらしい。
しばらく彼女に構えなかったことを詫びたかったのか、そんなことはどうでもいい。一人で泣きたくて、帰蝶はますます部屋に閉じこもった。
そんなときのことである。
信長の父・信秀が急逝。いきなり倒れて、そのまま目覚めなかったという。
帰蝶は部屋から飛び出した。
これは道三が懸念していたことが起きる。織田弾正忠家は、信秀の一本柱で立っていたようなものだ。帰蝶は大いに反論したいところだが、対外的にはそうだという。
信長はひどく憔悴していた。
疎遠になっていたとはいえ、実の父親だ。当主として尊敬しているとも言っていた。そんな人を喪って悲しくないわけがない。それなのに悲しみよりも、別の何かがあるように思えた。
『死に目には会えなかった。なら、急いでも無駄だろ』
葬儀に遅れるつもりなのかと問いただしたら、これである。
思わず叩いた。いつか必要になろう、と道三から送られた「はりせん」を使った。使う側もすっきりするし、使われた方も目が覚める素晴らしい品だ。帰蝶と結婚する前に、信長から贈られたものだという。
ずるい。父はずるい。
帰蝶が思っているよりも、道三と信長は親密だ。
こっそり二人で会ったりして、本当にずるい。帰蝶だって贈り物をもらっていないわけではない。だが手渡しされたことがない。どれも素晴らしく高級な品ばかりだが、使いの者が持ってくるだけで喜びは半減する。
信長手製の品で、信長の目を覚ます。
その効果は絶大で、信秀の喪が明ける頃には立派に当主としての務めを果たせるようになっていた。それで済まないのが尾張国の内情である。
道三が懸念したように、家臣の裏切りが起きた。
これはすぐに対応したのに、今度は主家がちょっかいを出してくる。そして駿河の今川家が同盟相手である水野氏を攻めているという報告が来た。
入念な準備を経て、信長は出立する。
絶対生きて帰る、と自信満々で告げていった。
『美濃衆と、留守を頼む』
あの時ほどの喜びがあっただろうか。
頼むと言われたのだ。他の誰でもない帰蝶に、信長が後事を託していった。帰蝶は五年目にしてようやく「妻」として扱ってもらえたように感じた。それは女としての悦びよりも勝る。
いや、新婚旅行が嬉しくなかったわけではない。
宿に着くたびに抱き潰されて、ほとんど観光できなかった。子供のためだとはいえ、信長は熱心すぎる。これで懐妊できなかったら、信長はどれほど落胆するだろう。
帰路の途中で道三にも会えた。
兄・義龍に気をつけろと忠告する信長に、美濃の内情をどこまで知っているのかと戦慄する。道三が尾張国を見張っているように、信長もまた美濃国を見張っているのだ。互いにそれを知りつつ、仲がいい。
異母兄の信広とも、最近は軽口を叩き合う仲だ。
帰蝶にはそれがとても羨ましかった。
女のくせに、女が出しゃばるなと兄にはさんざん言われた。男であれば、父の代わりに信長と笑っていたのは帰蝶だったかもしれない。
そんな不安を見抜いてか、信長はまた激しく抱く。
那古野城に着いてから、腹心の一人が自刃したとの報告を聞く。
信長の放蕩を諫言するためということだが、どうにも信じられない。信長は次の戦の準備で余裕がないはずだ。
帰蝶はこっそりと手の者に調べさせるよう命じた。
これまでを振り返っているうちに、五日は瞬く間に過ぎた。
平手政秀の死について新しい情報も入った。これは朗報になる。信長が帰ってきたら、真っ先に知らせよう。小さくたたんで懐にしまい込んだ。
帰蝶にはもう一つ、やらなければならないことがある。
「由宇」
「姫様、何か? あっ、やっぱり戦の状況が気になりますよね。わたし、日向守様に聞いてきましょうか」
「いいのよ、それは」
「でも」
「お前に謝りたくて」
「え?」
由宇は目を真ん丸にする。
表情豊かで、思ったことが顔に出やすい彼女が隠し事などできるはずがない。そんな簡単なことに、帰蝶は気付けなかった。あの風変わりな若者、信長に心底惚れてしまったからだ。
恋というのはおそろしい。誰かを愛するということは恐ろしい。
首を絞められ、殺されかけたのにあろうことか、帰蝶はひどく安心してしまった。信長は情の厚い人で、身内に対しては特別甘い。その一人にしてもらえたのだと実感できたのだから。
「ずっと疑っていたの。上総介様が本当に一目惚れしたのは、由宇の方なんじゃないかって。文を何度かいただいていたでしょう。だから、わたくし」
「ち、違います! あの文は」
「怒っているわけじゃないわ。本当に、もういいの」
「どうか聞いてください、姫様。あれは姫様宛の御文だったんです。い、今は違いますけど……あの頃はわたしも誤解しておりまして。このまま不仲になればいい、なんて浅ましいことを考えていたんです」
「まあ」
美濃に帰りましょうと、由宇は何度も訴えていた。
好いた男がいるからと、一つの物事だけで分かった気になっていた己を恥ずかしく思う。信長の妻として在るなら、もっと様々な要素から情報を取り入れるべきだった。
ふと思い立って、二の丸へ向かう。
そこには安藤日向守以下、美濃衆が滞在している。本丸へは誰一人立ち入っておらず、男衆はほぼ出払っているので諍いも起きていないらしい。
「こ、これは姫様! わざわざお越しいただくとは」
「様子を見に来ただけですので、おかまいなく。稲葉山とは色々と勝手が異なるとは思いますが、今しばらく耐えてくださいね。じきに吉報が届くと思いますわ」
「ご、ご存知でしたか。さすがでござる」
安藤日向守はしきりに汗を拭いている。
帰蝶の訪問を聞いて、慌てて出てきた割には少々様子がおかしい。場所が変わって体調を崩したのかと思ったが、殊更に気遣えば武将の恥になるかもしれない。
そう思って、にっこりと微笑んだ。
「わたくしは上総介様の妻ですもの。当然です」
「いや、全くその通りにございますなあ。ははは……」
無理をさせるのも可哀想なので、早々に二の丸を辞した。
「何かあったのでしょうか」
「分からないわ。そんなことよりも由宇、確証もないのに言葉にしてはダメよ。今後は特に気を付けるように」
「あ、はい。姫様」
「それと、わたくしのことは濃姫と呼びなさい」
美濃の姫だから、濃姫。
信長が付けてくれた、この通称を帰蝶は好きになれそうだと思った。
汗だく安藤の心境。
荒波へ突撃したうつけを笑っていた翌日には村木砦を完全包囲、完璧な布陣、たった一日で砦を落とすなどの報告が次々届けられて、那古野城を奪い取る気概は完全に失った。そこへ濃姫の登場で、悪企みを探られた心地に。
事前に蜂須賀小六より、濃姫が完全に信長派だということを報告されている。
美濃衆の世話を担当する下女たちより、濃姫がどれだけ溺愛されているかも聞かされ、民衆からの評価も高いと知る。
もうやだこんな城、早く出たい。美濃に帰りたい(涙)




