5. 一大決心
日数調節のため、二話更新します
その日、俺は勉強のために自室にこもっていた。
教育係の沢彦が所用でいないため、平手の爺こと平手政秀が代わりを務めている。
「最近の若様はまたお変わりになられましたな」
「ん? うーん、そうか?」
「隠さずとも、爺には分かります」
その割にまったく嬉しそうじゃないんだが。
ちなみに今読んでいるのは、漢書の一つである『韓非子』だ。この時代にコピー機はないから、手書きで写した写本になる。元々の筆記体がそうなのか、写した人間のクセなのか分からないが、思ったよりも読みやすい。
漢語はもともと嫌いじゃないんだ。堅苦しい文芸書よりも、よほど面白い。
「若様は深い悩み事がございましょう」
ぎく。
肩を震わせ、写本越しに爺を見やる。
実際の年齢を考えれば、まだまだ爺さんと呼ぶには早いかもしれない。だが実父である信秀よりも高齢なので、必然的に爺呼びが定着してしまったのだ。あるいは今川家から戻った時、自ら爺を連呼しながら号泣されたからだろうか。
随分と皺が増えた。
気苦労をかけている自覚はある。
尾張のうつけ、大うつけと呼ばれるたびに、心を痛めているのも知っている。だが放浪は止められない。それに長く城を空けるわけではないのだ。無駄金を使い、遊びまくっているわけでもない。
今、それを白状せよと訴えられているのか。
俺はこの人が好きだ。親身になって心を寄せてくれる平手の爺は、親父殿よりもよほど親父らしい。だからこそ言えなかった。
俺の考えを理解してもらえるとは、思えなかったのだ。
「爺と違って、俺は若いからな。悩むこともあるさ」
「さもあらん……」
「恥ずかしいから言いたくない、では通じんか?」
「若様、それは狡うございますぞ」
「すまん、爺には甘えてしまうらしい。成長しないな、俺は」
嘘を吐くには、本音を混ぜて真実味を増すこと。
だが爺には嘘を吐きたくない。言わぬだけで押し通す。付き合いの長さが、勝手に推測を生んでくれることだろう。心が痛まないとは言わない。
理解してもらえないという現実に、直面するのが怖いだけだ。
前世の記憶があって、それが500年近く未来のことで歴史の大まかな流れを知っている。
算術ができるのも、前世では義務教育があったからだ。
この時代の人間が当たり前にできることはぎこちなく、できないことを慣れた風にやってのける。
死ぬべき運命を、仕方なしと受け止められない弱さ。
この手が血塗られることに怯える理由すら、誰にも言えない。
それだけじゃなく、俺は大それたことを仕出かそうとしているのだ。
すなわち時代への反逆。
小さな変化になるか、大きな変動になるかは未知数だ。
今を生きる者にとっては遠い未来の話であり、確実にやってくる現実でもある。
溜息が出た。
何度考えても、言えないという結論に至る。今更ながら、占いは怖いと思った。可能性の一つだといいながら、内容を告げてしまった時点で未来が確定してしまう。
俺はほぼ確定している未来を知っている。
それを告げたら、未来が変わる。変えたいのは、ほんのわずかな可能性だけだ。大きな流れを変えることなく、手が届く範囲の小さな変化を生みたい。
気が付けば、漢書はさっきから一ページも変わっていなかった。
「若様は変わられた」
「爺?」
「わしは、若様が何を考えておるのか分かりませぬ。その眼差しは遠く、遥か遠くを見つめておられる。憎々しい敵でもいるかのように、きつく睨んでいるのを自覚しておりますまい」
ああ、それでか。
犬千代や皆が怯えたように俺を見ることがある。
万の敵軍にも退かない男たちが、まだそこまで成長しきっていないからだと思っていた。原因は俺か。考え事をする度に放ってくれるのは、気遣いだけじゃなかったのだ。
「若様の信頼を得られぬ家老など、無用でござりまする……」
「ま、待て。爺! 早まるな」
慌てるあまりに台を投げ、平手の爺に迫った。
顔と同じように皺だらけの手を握る。いつの間に、これほど細くなってしまったのだと驚いた。頻繁に会っているつもりでも、単純な変化に気付いていなかった。
先のことばかり考えて、今を見つめる重要性を忘れていた。
「若様、爺はお役御免にございましょう?」
「だから違うと言ってんだろ! その証拠に、今日は爺と二人で勉強しているじゃねえか」
「言葉が乱れておりますぞ」
「爺がおかしなことを言うからだ」
「ほほ、異なことを」
笑みすらも弱弱しい。
俺は焦っていた。
平手政秀が自刃する未来を知っている。
それは親父殿、信秀の死から一年ほど経った頃だ。行状を改めない信長を諫めるためだとも、平手の息子が生んだ確執のせいだとも云われている。
だが、それはまだ先のことだ。
この人たちが死なない未来を模索したくて、俺は悩んでいる。
自決を避けても老い先短い爺の命で、歴史が大きく変わるものか。弟の命も救えない愚か者が、第六天魔王を名乗れるものか。
うつけと呼ぶなら、呼べばいい。
愚かと馬鹿は違う。
「いいか、爺。よく聞けよ」
「………………」
「俺は世の中を変えてみせる。全てはその為に動いている。人生50年、一瞬たりとも無駄にはできんのだ。夢幻のごとき生なればこそ、俺は俺が望むように生きたい」
そう、俺は飢えていた。
もっと生きている自覚を得たい。充実感がほしい。この時代で学ぶ全てが楽しく、面白く、夢中になれる。疑問に思うことも多いし、うまく説明できないもどかしさも感じている。不便なところを便利に変えたい欲求もある。何もかもを変えてしまったら、どうなるか。
頭の悪い俺でも分かる。この世界はあっけなく壊れてしまうだろう。
だから慎重に、慎重を重ねなければならない。
「見届けろ、爺。親父殿から傅役を言い付かったのだろうが。生きて、しっかりと開けた両の目で、俺の生き様を焼きつけろ……!」
「若様」
溜息のように吐いた声の続きは、ちゃんと聞こえなかった。
俺が握りしめた手に額を当てている。
「う、うう……っ」
小さな背が揺れていた。
これで良かったのだ、これで本当に良かったのか。肯定する意思と失態に怯える心が、俺の中で同時に存在している。本来はこの台詞すら、誰にも言うつもりはなかったのだ。
だが言わなければ、平手 政秀は史実よりも早く自害を選んだかもしれない。
俺は失いたくなかった。
共にバカをやる仲間でなく、血の繋がりも感じられない名ばかりの親でなく、守るべき弟妹たちでもない。真摯に俺のことを憂い、案じ、行く末を導こうと心砕いてくれる人を失いたくなかったのだ。
とまあ、これだけだとちょっとイイ話で終わるのだが。
実はまだ、続きがあった。
「てめえ、沢彦。爺に聞いたぞ。よくもハメやがったな!?」
「おやおや、吉法師様。今日も元気でございますなあ。重畳、重畳」
「糞坊主!」
「そのように罵ってばかりですと、傅役殿に叱られますぞ。いや、また泣かれてしまいますかな」
「うぐぐぐ」
そう。孔明の罠ならぬ、沢彦の罠。
この時代は寺に配備される住職が、武家の教育係を務めるのが一般的だ。がらんと広い本堂のど真ん中で、からからと笑っている僧形の男が沢彦宗恩和尚という。
痩せているように見えて、脱ぐとスゴイ坊さんだ。
「平手殿に相談されたゆえ、拙僧なりの助言を授けたまでのこと。そのようにお怒りになる理由が、とんと分かりませんなあ」
これである。
ニヤニヤ、ニヤニヤと笑いながら言うことか。
全部読んだ上で、俺がカードを切らざるを得ない状況に追い込んだのだ。確かにああ言わなければ、本当に平手の爺は救えなかった。仏の導きにて、迷える魂を救ったわけだ。
さすがは影のラスボス、侮れない。
悔しさに歯をギリギリしていると、沢彦がふと真顔に戻った。
「それにしても、吉法師様もお人が悪い」
「あ?」
「何やら長期的な企みを練っておられるそうですな。よろしければ、この沢彦にも聞かせていただけませぬか。あの平手殿が男泣きに泣くほどの、感動的な一大決心だとか」
「………………」
「御仏の救いは、何も死後のみにあらず。何をするにせよ、手が多いに越したことはありますまいよ」
「多ければ、多くなった分だけ目端が届かなくなる。俺は見えない部分まで手を伸ばすほど欲張りじゃねえ。確実に届くものだけを、俺は掴む」
「届かぬ先は如何」
「諦める」
きっぱりと言い切った。
腹の底ではグラグラと揺れる何かがある。不平不満と呼んでしまっていいものか判別つかない曖昧な感情だ。見捨てることを良しとしない、平和な時代に生きた俺の心が騒いでいる。
だが取捨選択は、いつの時代にもあった。
俺も何度となく選んできた。選ばなかったもののことを考えなかっただけだ。いちいち気にしていたらキリがない。後ろばかり気にしていたら、いつか転んで大怪我をする。
「俺は一人じゃない」
「然様。吉法師様には、多くの手がございます」
「だが俺は一人だ。手も二本なら、足も二本。舌は二枚に分かれてねえし、頭も悪い。それなりに戦えるようにはなったが、犬千代たちには負ける」
自虐ではない。卑下もしていない。
「知恵はないが、知識はある。それも和尚にゃ遠く及ばんだろうが。あんたも知らないネタを、俺は知っている。無知の知、っていうだろ? できないことをそう簡単に諦めたりしないが」
「吉法師様」
「んだよ」
演説を途中で止められて、ちょっと不機嫌になりながら返事をする。
沢彦はもうニヤニヤ笑っていなかった。
代わりにおそろしいほど底冷えのする光が、両の目に宿っている。悪さをして叱られた時も、こんな目じゃなかった。俺は踏んではならない何かを思いっきり踏み抜いたらしい。
リセット不可ですか、そうですか。
セーブとロードもありませんか。マジこれ現実。うん、知ってた。
「その覚悟はおありですかな」
「…………ある。覚悟だけは、ある」
中身はこれから作る。
そう足したら、何故か爆笑された。とりあえず最悪の事態は回避できたらしい。
影のラスボス怖い。これからは怒らせないようにしよう。
長さが一定しなくてすみません。
次に閑話挟んで、本編へいきます