【閑話】 家老と住職
※独自解釈を多分に含みます
平手五郎左衛門政秀はぼうっと、空を眺めていた。
「寂しくもあり、嬉しくもあり」
ぽつりとこぼれ出た言葉は、そのまま心境を表すものだ。
この二十年、ただ一人の為に全てを捧げてきた。この先もそうなるだろう。息子たちはどうにも不安な部分も多く、ちゃんと仕えられるか心配ではある。だが、なるようにしかならない。
最近は腰を据えて、ゆっくり見守る余裕ができていた。
『爺、話しておきたいことがある』
いつになく緊張した面持ちで現れた信長。
違和感を覚えつつも、軽い気持ちで請け負った己は愚かだ。
生まれる前から傍近くに仕え、誰よりも信長のことを知っているつもりでいた。そうではないと分かった瞬間の衝撃は、なかなか言葉にするのは難しい。
生まれ落ちたその日から、信長は唯一の人だった。
主命でなければ、とうに傅役など放り出していただろう。手がかかる、などという程度ではない。人の姿をとっているのが不思議なくらいに、型や枠に収まらない言動の持ち主だった。
次第に成長して話を聞いてくれるようになるかと思えば、そうでもない。
うつけよ、できそこないの若様よと笑われ、実の母親にすら拒絶される始末。哀れなことであると同情していたのは否定できない。それを見抜かれ、当の本人から憐れむ目を向けられた恥ずかしさといったらない。
いや、それは政秀の被害妄想というやつだ。
この年寄りを父のように慕っているのだと、信長は言ってくれた。喜んではならぬと思いつつも、歓喜の震えが止まらない。先代・信秀が倒れてからは毎月のように見舞いをしていたが、結局は父子としての情はわかなかったという。
信長は常人とは違う。
妙に納得し、それがまた信長に困ったような顔をさせる。
胸に抱く大志を打ち明けられた、あの日のように。
『俺は、生まれる前の記憶がある』
この告白には驚いたが、疑いはしなかった。
さもあらんと思った。信長が普通と違うのはそのせいである、と理由をつけられたような気がした。そして政秀が驚かないのを見て、信長はホッとしたようだった。
語られる来世の話に、また驚かされた。
信長にとっては過去世にあたるのだろうが、数百年以上も先のことだと言われても想像できるわけがない。それでも一生懸命語るものを、どうして無下にできようか。
ときどき信長は、ずっと遠くを睨んでいた。
憎しみすら感じる視線に、皆が怯えていたのを覚えている。
あれは己の死を睨んでいたのだ。波乱に満ちたどころではない。乱世に雄多くとも、信長ほどに苛烈な生き方はできないだろう。彼はそんな運命を憎み、きつく睨んでいたのだ。
その中に、政秀の死があった。
どうやら信長の収まらぬ行状に、命を以って諫める覚悟を決めたらしい。
一度はその覚悟をした記憶がある政秀は、笑い飛ばすことができなかった。信秀の死後、やたらと構ってくるのはそのせいであった。周囲に気を配り、税務にまで積極的に関わる。
そんな勤勉な姿を見て、どうして死ぬことができようか。
まだ信長の子も見ていないのだ。
聡明な帰蝶姫との間に生まれる子ならば、きっと織田家を盛り立ててくれる。どちらに似ても、将来が楽しみでならない。子供時代から続く側近たちの絆は固く、これから何が起きようとも揺らぐことはないだろう。
そんな風に勝介と笑って語り、酒を交わした。
信長は「酒の肴にするな」と怒ってみせたが、明らかに照れ隠しである。初めて信長の子供らしい一面を見た気がして、政秀は涙が出そうになった。
「御子が楽しみだのう」
政秀と長話をした翌日、信長は帰蝶姫を連れて尾張を出た。
新婚旅行、というものらしい。
供連れをせずに二人きりで旅に出るのが決まりなのだと言い張るので、とうとう政秀の方が折れてしまった。過去世の話を聞かされたばかり、というのもあるだろう。
滝川の一族が影として付くと知れば、もう止める理由はなくなってしまった。
今頃はどこにいらっしゃるのか。
子宝祈願もしてくるというから、本当に信長は帰蝶姫を大事にしている。多少無理をしてでも縁談を調えた甲斐があったというものだ。
「子が生まれれば、わしはもうお役御免じゃな」
「ええ、その通りです」
「何者!?」
「不用心ですね、平手殿らしくもない」
すっかり日が落ちて、闇の帳が辺りを包んでいた。
いつかのように蝋燭立てを持った男が、ゆらりとそこに佇んでいる。場所は本堂と屋敷の違いはあれど、後から沢彦和尚が現れるところまで同じだ。
「はて、何か御用がありましたかな」
小さな違和感。
蝋燭の火のように、ふっと消えてしまいそうな儚い何かを政秀は感じ取る。淡い光に照らされて見えるのは、見知った住職の顔だ。やや不吉めいて映るのは何故だろう。
清貧を尊び、民に広く慕われる沢彦に不穏な影などあるわけがない。
むしろ土田御前にすり寄る高僧たちの方が、よほど怪しい。
葬儀に参列できていれば、何かおかしな点に気付けたかもぬ。そう悔やんでも、とうに一周忌も終えてしまった。法要にはあの高僧どもが出ていたが、何やら信長に対して怯えている様子が伺える。手の者を使い、密かに調べさせているが報告はまだだ。
いや、それよりも目の前の住職である。
「……沢彦殿? ぐ、うっ」
「困るのですよ。あなたがいると、どうにも上手く事が運ばない」
「な、にを……」
ごぼりと溢れて、言葉が出ない。
前のめりになる体を、冷たく笑う仏僧が支えた。振り払いたくとも、腹に埋まったものが命を削り落としていく。声が出せなくなった代わりに、渾身の力で何かを掴んだ。
「……っ、この老いぼれが」
老いぼれで結構。
信長は爺と呼んで、慕ってくれた。爺と呼びながら、親代わりを求めてくれた。遥か高みに昇る夢を、まさに巣立つ瞬間を見せてくれた。
腹から勢いよく引き抜かれたのは刀か。
倒れこむ政秀を置き去りにして、沢彦和尚は去っていく。気配が遠のいたのか、感じられなくなったのかもわからない。無我夢中で、手足を動かした。
「う、ご…………あ……、はっ」
庭に転げ落ち、石を掴む。
これでいい。これがあれば、十分。
がくがくと全身を揺らしながら、政秀は会心の笑みを浮かべていた。きっと信長は気付いてくれる。生涯を通じて唯一無二の主と定めた人だ。最後の願い、きっと叶えてくれる。
そして誰にも看取られることなく、一人の家老が死んだ。
朝になっても姿を見せない父を不審がった五郎右衛門が、庭で遺体を発見した。
自刃をするにしては白装束を纏っておらず、腹を割いた刀は室内に転がっている。不審な点はいくつかあったものの、信長に対する不信感を抱いていた平手の息子によって「諫言による死」と断定される。
これは信長を主君として認めたくない者たちによって、瞬く間に広められていった。




