【閑話】 虎の後継者
※地の文多め(当社比)
※不快になる表現があります
どうしてこうなった。
騒然とする場にあって、信行はまともに働かない思考を持て余していた。ほんのわずか前まで、一片の迷いすらなかったのだ。むしろ、一種の高揚感に包まれていたかもしれない。
その道は輝かしく、真っ直ぐ続いているように見えた。
険しい山を登るかのような苦難の道ではなかった。
慄き嘆く母を支えながら、信行はぼんやりと位牌を見つめる。
物心がついた頃から、大人に囲まれていた。
それが当たり前だと思っていた。
年の近い兄弟たちにはほとんど会えなくとも、母が傍にいてくれたので寂しいと思わなかった。正室である母に言わせれば、異母兄弟は兄弟に数えられない。そして信行こそが、織田弾正忠家を継ぐ正統な血筋なのだという。
何故なら、二人の兄はどちらも人質経験があるからだ。
人質は最悪の場合、殺される危険がある。お家存続のために何よりも大事な存在を、人質に渡すわけがないというのが母の主張だった。
父・信秀は文武において、抜きん出た才を持つ。
御家来衆は皆、父に忠誠と信頼を寄せていた。特に同世代の者は直臣陪臣を問わず、唯一無二の主として身も心も捧げている。偉大な父を誇らしいと思っていた。
そんな思いは成長とともに、少しずつ変化していく。
尾張国を包む環境はとても厳しい。
それなのに主家を敬うどころか、我こそが尾張国の主と言わんばかりの行動が目立つようになった。戦を仕掛けては負け、攻め込まれては押し返す。何人も死んだ。治らない傷を負う者が増えた。城を失い、一族を失い、それでも戦い続ける父の考えていることが分からない。
もっと分からないのは、同母兄である三郎信長のことだ。
母の思惑はどうあれ、父が嫡男として認めているのは信長である。元服の儀では、烏帽子親となった林秀貞をはじめとする四人の家老が介添え役を務めた。このことからも父が、信長に次期当主としての期待を寄せているのが明白だ。
そして信行も、母の口添えで少し早めの元服を終えることができた。
元服を済ませたからといって、一人前だとは思っていない。
己は未熟であることを常に念頭に置いて、たゆまぬ鍛錬を続けるのが大事であると勝家は諭す。勉学をさぼっては遊び歩き、武芸の未熟さを棚に上げて他人任せにする。そんな人間に誰がついていきたいと思うのかと、厳しい顔で嘆いてみせる。
信行は皆の期待に応えたい。
分家とはいえ、弾正忠家は清州三奉行の一柱である。主家に睨まれるということは、主家が堕落する余裕を与えない影響力を持つということだ。父のようになりたいと思う心、父のような生き方はしたくないという反発心。
二つの矛盾を抱えながら信行は生きていく。
次代を担う者として、尾張の虎の後継者として――。
『私には分かりません。何故、信長なのですか』
『このわしに「何故」と問うか』
『分からないものを分からないと言って、何がおかしいのです? 誰一人として、信長が次期当主に相応しいと思っている者はおりません』
『……下がれ。三郎が次期当主。それは揺るがぬ』
『父上!!』
『分からぬか、勘十郎。誰が認め、誰が認めぬなど些細なことよ。己の目で見て、己の目で感じ、己の目で考えることだ』
その後のことは、よく覚えていない。
まるで信行の目が曇っていると言わんばかりの言葉だった。
寝る間も惜しんで勉学に励み、倒れるまで武芸を磨いてきたのだ。難解といわれる兵書も多く読んだ。刀だけでなく、槍や弓も一通り扱えるようになった。家臣たちにも信頼してもらえるようになり、信行こそは次代を担う者と褒められる。
寡黙で厳格な勝家が笑ってくれた日は、嬉しくて飛び上がりそうだった。
もちろん我慢した。虎の子として、相応しくない行動は慎むべきだ。
「答えてください…………父上、どうしても私には分からないのです」
信長の乱入で、葬儀は中途半端に終わってしまった。
正室となる帰蝶姫との婚儀に遅れたのは、式の日取りを忘れていたからだという。そんな男に葬儀のことを伝えても、ちゃんと来るはずがない。ましてや父子の不仲は、誰の目にも明らかだった。わざわざ火種を生むこともないという進言に従い、信行は那古野城に知らせなかった。
だから驚いた。
葬儀の最中に現れ、暴言と抹香を投げつけて去っていった。
おかげで半狂乱になった母を宥めるのに苦労したし、機嫌を損ねた高僧たちには色々と便宜を図らなければならなくなった。家臣たちはざわめき、忌々しげに信長の悪口を言う。
あの行為は、亡き父を貶めたも同然だ。
それなのに何故だろう。
信長の振る舞いに対して腹が立たないのだ。
もう更生は望めないと割り切っているのかもしれない。だって信行は何度となく忠告してきた。最初は激しすぎる父に殺されるのではないかと心配し、逆に信長が恨みに思っていないかと怖くなり、本当に命を狙われている事実を知って、なんとか行状を改めるように言葉を尽くした。
静まり返った部屋で位牌を見上げていると、誰かが傍へ来た。
「信行様」
「美作守、か。私が那古野城へ知らせなかったばかりに、お前の兄・秀貞は葬儀の参加ができなかったことを恨んでいるだろう。私情に目が曇っていたせいで、申し訳ないことをした」
「いいえ、謝られることは何もございませぬ。兄は自らの意志で、那古野城にいたのです。信長めを城へ留めることは叶わなかった由、兄に代わってお詫び申し上げます」
一瞬、思考が止まる。
否定と肯定が渦を巻いて、信行は何を考えていたのか分からなくなった。いつもの倍以上の時間をかけて振り向けば、初老を迎えた男が微笑んでいる。
林美作守通具は、信長の筆頭家老である秀貞の弟だ。
「…………今、何と言ったか」
「中断してしまったとはいえ、先代の葬儀をまとめた手腕は見事であったと皆が褒めておりましたぞ。お若き身でありながら、喪主を務める様は堂々たる佇まいで」
「無理に褒めてくれなくてもいい。結局、最後まで恙なく終えることはできなかった」
「そのようにご自分を責められますな。信行様はよくやっておられます」
何度も聞いた台詞が、頭の中を素通りする。
通具をはじめとする家老たちはそうやって褒めてくるが、民はこぞって信長を支持している。織田の若様といえば、信長のことだ。美濃国の斎藤利政にも認められていると聞く。ただ親しく文を取り交わしていることは、大和守信友が「主家に対する挑発行為」と不快感を示していた。
信行は何一つ命じられていないのに、信長は次々と仕事を与えられていた。
(ああ、そうか)
肩の力が抜ける。
自分は認められたかっただけなのだ。偉大な父に、民に慕われる兄に、身内として受け入れてほしかった。褒め言葉などいらない。織田家の為に、国の為に、何かしたかった。
未熟であることが理由なら、どうして信長は元服前から名が売れているのか。
飢饉にあえいでいた村を復活させたとも聞く。
商売の流通を増やし、鉄砲の交渉を進め、いくつかの発明もしたそうだ。せっかくの技術をまるごと売ったのは理解できないが、それで津島の商人たちが織田家の評価を上げたのは間違いない。
民に媚びを売るなど情けない、と家臣たちは嘲る。
父は「大うつけ」と罵って、何度も信長を折檻している。信行は哀れに思って「見せしめのような真似は止めるべき」と進言したが、とうとう父には受け入れてもらえなかった。
(だが、もう遅い。何もかもが手遅れだ)
はたはたと涙がこぼれる。
隣で通具が何やら言っていたが、もう判別つかなくなっていた。父は死に、兄は信行のことを見限ってしまったに違いない。ようやく理解できた。分かってしまった。
葬儀で見せた怒りは、父に向けたものではなかった。
正式な次期当主を認めたくない愚かな感情も、くだらない策を弄した信行にも怒っていたのだ。母は激しすぎる兄の様子にあてられ、恐慌状態に陥ったのだろう。
「どうすればいい。何をすれば、償える……?」
隣の声はもう雑音にしか聞こえない。
信行は呆けたまま、月のない夜を見上げる。輝かしい道などなく、険しくも確かに存在していた登坂ですら所在をなくした。何がどうして、こうなった。
分からない、分からないと繰り返す。
気が付けば数日が経ち、血相を変えた小姓が知らせてきた。
「の、信秀様が…………先代様が、還ってこられました!」
「そんな、そんなはずは」
あやふやな声で呟いたのは信行ではない。
真っ青な顔で腰を抜かし、座り込んだ林通具だった。
林美作守通具:信長の筆頭家老・秀貞の弟。信行を信奉するあまりに信長を憎悪するレベルに達している。そのため、過激な発言もたまに飛び出す。
信行には積極的な行動を求めているが、なかなか動いてくれないのが不満
自分なりの信行考察です。
史料的には「信勝」のようですが、本作では「信行」で固定。跡目争いが表面化するまでは詳しく調べないと分からないので大半が推測。
信長を嫡男(次期当主)にしたくない家臣、母の溺愛、大きすぎた父の影などが少年時代の信行に影響を与えていったのではないかと考えています。
(もちろん素行の悪い兄への反感も含まれる)
ちなみに信広に関しては戦働きのことで尊敬できるが、あくまでも一族の者という認識なので嫉妬の範囲外です。




