36. 抱き枕、再び
外の明るさに、朝が来たのだと感じる。
待て、なんか妙だ。俺の本能が警告を発する。
ベッドのふかふか感からオサラバして何年も経つが、やけに固い。そして腕の中が柔らかい。いい匂いもする。天日干しにした太陽の匂いじゃなくて、柔らかな芳香だ。
ちょっと……いや、かなり酒臭い。
「サケ?」
魚の鮭ではない、念のため。
目を開けた途端に、俺脳内エマージェンシーが鳴り響いた。パトカーについている赤いアレがぐるんぐるん回っている。色即是空、空即是色。
どうして、こうなった。
「う、んん……」
悩ましげ声の後、もぞもぞと動く肢体。
上もヤバいが、下もヤバい。
ぼかして説明すると、絡まっている感じがする。切実な問題として今すぐ飛び起きたいくらいなのだが、それは俺の窮地を明らかにする行為だ。崖っぷちでガタガタ震えながら、半歩下がるようなものだ。
荒くなる息を止めるべきか。いや、遠からず俺が死ぬ。
激しく踊りだす心臓を止めるべきか。間違いなく、俺は死ぬ。
残念ですが、死亡フラグしかありません。白衣を着た眼鏡のおっさんが、表向き沈痛そうな顔で宣告する。ちょっと待て、何か余計なのが混ざっている。
落ち着け、俺。オーケー、冷静になろう。
「……おはようございます」
「オハヨウ」
「どいてもらえるかしら」
「もちろんだよ、ハニー」
目覚めの一発は慈悲の欠片もないくらい、熱く激しかった。
行く先々で、誰も彼もが顔をそむける。
いいぜ、笑えよ。
存分に笑えばいいだろ。指を差して大爆笑したからって、片っ端から無礼討ちにする暴君じゃない。だから我慢なんかするなよ。体に悪いぜ?
「ふん」
ぽくぽく、と馬の蹄が長閑な音を立てている。
横座りしている嫁は、どうあってもこっちを見たくないらしい。筋肉痛になりそうな体勢を意地で維持している。これは洒落などではない。嫁の涙ぐましい努力を描写しているのである。
泣きたいのはこっちだっつの。
じんじんと疼く頬にはでっかい紅葉が刻印されていることだろう。
舎弟改め、織田信長御家来衆が揃って笑い転げてくれた。地位をランクアップする代償に、俺への敬意や謙虚な気持ちを消滅させてしまった気分だ。
あえて言おう、不可抗力である。
誓いの盃を交わして、酒宴に突入したところまでは覚えている。
運び込まれてくる酒樽を次々空けて、とうとう酔い潰れてしまったのだろう。生まれて初めての朝帰りは二日酔いと共に、なんて素敵すぎる経験じゃないか。
古寺の中は酒の臭いが充満する酷い有様だった。
ふらふらと出ていく家臣の諸君は、さながら墓地から甦った死者のごとしだ。そういえば、恒興と小姓を置いてきてしまった。子供じゃないんだから、自分で戻ってくるだろう。
「あー」
頭がガンガンする。
なんとか身なりを整えたものの、着替えずに寝てしまったので多少ヨレている。帰蝶も一人で直すのは限界があったようで、漂う空気からして「何かありました」と白状しているようなものだ。
俺は般若心経を唱えている。
円周率なんざ、最初の部分しか覚えていない。
俺の煩悩を封じるには、般若心経が一番効く。どういうわけか、300文字足らずの経文を丸暗記しているのだ。沢彦は臨済宗の僧であるし、般若心経が教えに含まれていても不思議ではない。
「あなた、抱き枕がないと眠れないって本当だったのね」
思いっきり噎せた。
「い、いきなり何を言い出すんですか、帰蝶さん」
「妙な話し方をしないで。気持ち悪い」
「ひどい!」
「わたくしは夜のうちに、城へ帰りたかったのだけど」
「ごめんなさい」
ここはひたすら謝るに限る。
酔い潰れた俺がしっかり抱きしめてしまったせいで、動くに動けなかったそうだ。助けを求めようにも、次々と脱落していくので諦めたという。胸に忍ばせた短刀でブスリ、とやられなくてよかった。体の感覚からして、抱きしめる以上のことはしていない。
何も、なかった、はずだ。
チラッと帰蝶を見る。夫なのに無視された。
「お濃、のうのう。悪かったってばよ」
「妙な呼び方をするなら、金輪際返事をしないわ」
「ごめんなさい」
惚れた弱みである。
彼女の気の強いところも、美人なところも、頭がいいところにも惚れている。
前世を含めての初恋だ。遅れてやってきたのに、一目惚れした。政略結婚が当たり前に通用する時代じゃなかったら、何回でもプロポーズしては断られていただろう。
「抱き枕かあ。そういえば親父殿にポイされて以来、作っていないな」
「手作り、なの?」
「簡単だぞ。綿布団を紐でぐるぐる巻きにするだけ」
「……それがないと、眠れないの? 本当に?」
「まあ、寝つきは悪くなる。なんだかんだで寝る暇がない日もあるし、どうしても睡眠時間を確保したい時は気絶する」
帰蝶の目がまん丸になった。
ちょっと気の抜けた感じがとても可愛い。やっぱり、うちの嫁は最高に可愛い。お市ほど可愛い存在はいないと思っていたが、甲乙付けがたい可愛さだ。
「呆れた」
やっとそれだけを言った彼女は、本当に呆れている。
後日、匿名で抱き枕が届いた。
綿布団を紐でぐるぐる巻きにしただけの簡単抱き枕だったが、すごくいい香りがする。
そこで俺は、この抱き枕に「蝶」の絵を入れた。三角形を二つくっつけただけの不格好な絵柄は、のちに小姓たちの間で謎の暗号として広まっていくのだった。
ツンデレの定義が行方不明です。誰か探してください
ノブナガ発明品?「抱き枕・蝶」...これを抱いて眠ると、嫁の夢が見られる




