35. 誓いの盃
いつもより長く感じた梅雨が終わり、暑い夏がやってきた。
冬もそうだが、夏も前世のことを振り返ってしまう。ボタン一つで快適空間を演出してくれるクーラー、冷菓をはじめとするつめたーい食べ物たちが恋しい。この時代に砂糖はもちろん、氷も超貴重なブツである。金で取引されるといえば、お分かりいただけるだろうか。
実は織田弾正忠家って、お金持ちなのだ。
三丁しかなかった鉄砲がある日突然、三千丁に増えているくらいに。
それでも飢饉にあえぐ村があるのだから、根本的な改革の必要性をひしひしと感じている。内政に専念させてくれるなら、チートうんぬん贅沢言わずに頑張ったかもしれない。
ちなみに親父殿は、梅雨があけたら元気になった。
「無理しなきゃいいが」
「それ、あなたが言うの?」
すっかり傍にいるのが定番となった帰蝶が、フッと笑う。
可哀想な舎弟たちには、このクールさが分からんのですよ。
照れ隠しにスナップの効いた平手打ちをくらった日には、女王様と呼びたくなること請け合いだ。ゴミを見るような目は正直辛いので、これは心の箱にしまっておく。俺の嫁はツッコミスキルが生まれつき高いのである。
「仲良いっすね」
「そうだろ。そうだろ」
「村の子供たちで鍛えたんで、養育係を任せてくれてもいいっすよ」
「だが断る」
犬が調子に乗るとイイコトがない。
がーん、と顔に書いてある利家を置き去りにして古寺へ入った。
ここには楽しい思い出も、辛い思い出もある。一益から聞きたくない話を報告されてから、そんなに経っていないのか。あっという間に過ぎていくようでいて、時間は一定速度で流れていく。
皆等しく、年を取っていく。
誕生日の概念がない時代だから余計に、そんなことをしみじみ思う。
「お濃、ここでは円陣を組むのが決まりになっている。城の時みたいに隣でもいいし、どこでも好きな場所に座れよ」
「そう」
短い返事と、つんとすました顔に信盛たちが顔をしかめている。
本当に分かっていないな、こいつらは。
帰蝶が腰を下ろしたのは俺の斜め後ろだ。良妻の基本姿勢とされる、夫を立てて後ろに下がるを体現している。慌てて小姓が円座を出して、その固さに眉がちょっと動いた。
何も言わないので、我慢するつもりらしい。本当に可愛い。
「若様、ただいま戻りました」
「うむ」
旅装束の長秀と藤吉郎が揃って頭を下げ、それから円陣に加わる。
「皆、よく来てくれた。久しぶりにここで集まったのは他でもない、今後に関わる重大発表をしようと思う」
「おおっ」
「いよいよか」
「おい、松ぼっくり。何が発表されるか知ってんのか?」
「知るわけねえだろ。つうか、知っていてもいうわけねえだろ、馬鹿犬。あと俺のことは内蔵助って呼べ。様、つけてな」
「はあぁ!? 呼ぶわけねえしっ」
「静かにせんか!」
長秀の怒号も、二人して悶絶する姿も久しぶりだ。
一同が呆れた目で見守る光景も、これで見納めになる。泥まみれになって走り回っていた頃を思い出せば、懐かしさで涙腺が潤みそうになった。いや、泣くのは早い。
嫁の冷ややかな視線に急かされ、俺は咳払いをした。
「利家、成政、長秀、信盛、藤吉郎、恒興、一益。お前ら全員、舎弟から除名だ」
名を呼ぶ度に顔を上げた面々が絶句している。
思考が停止して固まっている、が近い。
「あなた」
「何だよ、お濃。今イイトコなのに」
「言葉が悪いわ」
「そうか? 舎弟じゃなく、正式に家臣へ組み込むんだから何も間違ってな――」
「信長様あああああぁ!!」
「うおっ」
最後まで言うことなく、俺は舎弟どもに押し潰された。
そんなこんなあって、俺たちの手には酒杯があった。
まだ鼻を啜っている奴もいるにはいるが、朱塗りの盃を囲んでの円陣はなかなかに壮観だ。そして全員が、俺の言葉を待っている。
「よーし、酒は行き渡ったか?」
「おおっ」
「かつて劉玄徳が義兄弟と誓ったように、とは言わん。親と子が殺し合う、そんな時代だ。何が起きるか予測できなくて当然だと思う。しかし、忘れるな!」
しんと静まり返った古寺に、俺の声だけが響く。
「俺たちは同志だ。同志ってのは志を同じくする者だ。身分の上下すら超えて、同じ方向を見つめている奴らのことだ。いいか、てめえら! 今日この時より、全員の命は俺の所有物だ。俺は、俺のものを傷つける奴を絶対に許さん」
「応!!」
「勝手に死ぬな」
「応!」
「己を殺すな」
「応!」
「俺は決めたぞ、尾張国を統一する。このクソッタレな世の中を変えてやる。そんで美人の嫁と、たくさん子供にイテッ」
「の、信長様。大丈夫っすか」
「ああもう、後はいいや。面倒くせえ。野郎ども、俺についてこい!!」
「オオオォッ」
皆一斉に盃を掲げ、雄叫びを上げる。
帰蝶もしぶしぶ合わせてくれるのが嬉しくてニヤけていたら、やっぱり睨まれた。そんな一コマはさておき、乾杯の声も待たずに酒宴が始まる。
一升では足りないとみて、次々と酒が運び込まれてきた。
手配したのはニヤニヤ笑っている信盛だろう。さっそく酌をしに回っている藤吉郎は、飲み潰れないための予防策とみた。利家と成政は、何故か結託して長秀に酒を勧めている。
そんなわけで、真っ先に出来上がったのは長秀だった。
「一番、鬼五郎左!」
どこから取り出したか、赤ら顔の長秀が小鼓を構える。
すると帰蝶が横笛を取り出して、聞き覚えのある調べを奏で始めた。ここまでお膳立てされては、俺が立たないわけにはいかないだろう。
懐から扇子を取り出し、構える。
「思へばこの世は常の住み家にあらず……」
「オッ」
「草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし……」
利家も心得たもので、しっかりと合の手を入れる。
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ
信長が愛したとされる『敦盛』の謡だ。
厳密には能とは違う舞であるらしい。平手の爺の案内で舞台を見せてもらった時、衝撃のあまりに動けなくなった。芸能はすごい。演目中は外国の言葉を聞かされているような気分だったが、意味が分からなくてもすごいのは分かる。
そして平手の爺による解説を聞いて、深く納得した。
どうして信長が『敦盛』の舞を愛したのか、桶狭間の戦いが始まる直前で舞うことにしたのかがスッと染み込んだ。帰蝶はたぶん、爺に話を聞いたのだろう。
今日の日を選ぶなど、にくい演出ではないか。
「って、この一節しか覚えてないんだけどな!」
「最初から期待していなくてよ」
「おっと、奥方様はお厳しいですなあ」
笛を下ろした帰蝶が毒舌を吐けば、長秀がからからと笑う。
「いーもん見た。オレ、一生忘れねえっ」
「忘れるに酒一升」
くぴっと一気飲みしつつ、成政が挑発する。
それで釣れるのは馬鹿犬だけだ。こちらも負けず劣らず顔が赤い。その隣で飲んでいる信盛はちびちびやりつつ、例の目力でどこかを睨んでいる。
「んだとお!? 馬鹿にすンなよ、忘れるわきゃねえだろうが」
「そんだけ飲んでおいて、何を言ってやがる。まァ、俺様は忘れねえけど」
「松ぼっくりのくせに偉そうな口叩きやがる。おい、猿! こいつに酒だ」
「内蔵助様と呼べって言ってんだろが。猿、その馬鹿犬にたっぷり注いでやれ」
「ひゃあ、忙しい忙しい」
「猿」
「ほいほいっと。お呼びですかのう、信長様」
「呑め」
「ちょ……わしは今、酒はちょっと」
「俺の酒が呑めねえってか」
「い、いやあ、それは」
チラッと目線で帰蝶に助けを求めているが、華麗に無視。
まあ、当然だな。俺の嫁が猿の味方をするわけがない。蝮じゃなくて蟒蛇だったのかと疑いたくなるほど、ペースが早いのは見なかったことにしておこう。
酒はどれくらい用意したんだ。
暗くてよく分からん。
蝋燭の灯りは消える前に小姓が替えてくれるのだが、こっちも酔っぱらっているらしい。うっかり触って倒そうものなら、火事になってしまう。いち早く気付いた天才的な俺は、こっそりと立ち上がって片っ端から消して回った。
あちこちで悲鳴やら罵声やら上がるが、皆で死ぬ運命は回避成功だ。
そのことに俺はとても満足して、寝た。
混沌と書いて、カオスと読む




