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ノブナガ奇伝  作者: 天野眞亜
雌伏編(天文13年~)
43/284

【閑話】 米五郎左

今回は、ほぼ地の文だらけで読みづらいかもです

 正徳寺会見で、利政と信長の関係は堅固なものとなった。

 そのことに安心した丹羽長秀は、主である信長が理想とする時代を導くために率先して働くことになる。尾張国に根差す土豪の一族である佐々家や前田家と違って、もともと丹羽家は斯波氏に仕える家柄だった。

 その斯波氏も、応仁の乱以降は次第に領地と権威を失っていく。

 織田大和守家は守護代でありながら、庶流である弾正忠家の台頭を許してしまう状況だった。尾張国を守るべき一族は衰退の一途を辿る。沈むのが分かっている船に残るほど、長秀は能天気な性格でなかったのだ。

 幼い信長――当時は吉法師――との邂逅は、まさに運命の出会いだった。

 長秀もまた元服前で、幼名を万千代と称する。

 他に犬千代、松千代がいたために長秀は「万」と呼ばれるようになった。ともすれば考えなしに暴れまくる二人の面倒を見るのが、長秀の役目である。年長者として不満はなかったものの、馬鹿騒ぎを放っておく信長には少なからず落胆もしていた。

 主たるもの、臣下の振る舞いにも気を配る必要がある。

 不甲斐ない大人たちを見てきたせいか、10歳にも満たない子供にしては老成した思考の持ち主だった。ちなみに信長はその上を行っていたので、それほど目立たなかった。

 信長の気まぐれは、実に退屈しない。

 自由に山野を駆け巡っては、そこで得た食材で腹を満たした。臨時収入があったと言って、町の飯屋の一角を占拠したこともある。あちこちに出没する信長はいつしか「若様ご一行」として知られるようになった。

 身分を問わずに話しかける気安さに、領民たちが打ち解けるのも早かった。

 長秀が困ったのは、そのせいで陳情が信長へ集中したことである。


『猫がいなくなったので探してほしい』

『水をとられたので何とかしてくれ』

『店に泥棒が入ったので捕まえてほしい』


 どう考えても嫡男に頼んでいい内容ではない。

 信長は「ケーサツ」がどうのと呟いていたが、長秀が陳情を割り振らなかったら全て受けていたのかと考えるだけで頭が痛い。中には年貢が重すぎるだの、野盗の被害に関する申告もあったため、こちらも適宜報告を上げていく。

 これを織田の重臣たちが快く思うはずもなかった。

 あることないことをでっち上げ、尾張のうつけの悪い噂を広めてしまったのだ。舎弟たちも同罪とされ、利家たちも身内から冷たい目で見られるようになった。だが長秀も利家たちも、まったく気にしなかった。

 信長は、根も葉もない噂を笑い飛ばすからだ。

 それどころか少しも気にしていない。噂のほとんどを知らないのではないだろうか。情報収集は何より大事だと言っておきながら、自身の評価には疎かった。

 このまま家臣に取り立ててもらえるかもしれないという淡い期待は、裏切られる。

 それぞれが元服の儀を迎えるにあたって、信長が「絶縁」を宣言したのだ。


『しばらく放っとけ』


 急に姿を見せなくなったと思えば、これである。

 最初のうち憤っていた利家たちと溜まり場にしていた古寺へ集まった。そこに当たり前のような顔をして信長が待っていたから、腰を抜かすほど驚いたものだ。利家たちはともかく、長秀は色々と口煩くしていた自覚もあった。

 愛想を尽かされたのだと思っていたのに、信長は笑って手招きする。

 絶縁は嘘なのだと知った。

 思わず涙が出そうになるほど、安心した。

 だが信長は「家を大事にしろ」と言う。やはり悪評を気にしていたのだ。いつまでもヤンチャな子供ではいられないから、将来の為にも家の為にも行動を改める必要があると告げた。

 急に言われて改められるなら、誰も苦労しない。

 当の信長がこっそりと美濃の蝮の顔を拝みに行き、父・信秀に叱責を受けたのである。信長を守り切れなかった恒興、一益の不甲斐なさは筆舌に尽くしがたい。

 自分が傍にいればと長秀は悔やんでも悔やみきれなかった。

 しかし、この程度で折れないのが信長である。

 死に絶えるのを待つだけだった村を、半年も経たないうちに復興させた。年貢を納めるだけの収穫があってこその成果だが、既に周辺各地でも噂になっている。

 もちろん良い噂だ。

 春もまだだというのに、ひっきりなしに人が訪れる。

 長秀たちはその応対に追われ、ますます忙しい日々を送っている。村の子供をすべて舎弟にすると言い出した時には本気で止めたものだが、信長の判断は間違っていなかった。

 男の子供は馬廻り衆となり、女の子供は内職でめきめきと才能を伸ばしている。

 信長の教育係であった沢彦が、子らに勉学を教えたのもある。商人たちから見習いから雇いたい、という申し込みも殺到して雑務処理が追い付かない。

「そういや、あの竹坊って子供は」

「聞くな」

「……ああ、訳ありなんか」

 藤吉郎は痛ましそうな顔をするが、信長も人質経験がある。

 信秀が竹千代の世話をするように命じたのも、信長なら気持ちを分かってやれるという確信があったのだと思っている。実際、その通りになった。信行には申し訳ないが、二人は実の兄弟のように仲が良い。

 そんな中、美濃から姫君が嫁いできた。

 蝮の娘らしく、見目麗しくも毒のある性格である。

 信長はすっかり骨抜きにされて、暇さえあれば嫁の機嫌取りに勤しむ。婚儀をすっぽかすという前代未聞の失態を何とかしたいのだろう。この懸念は、美濃の蝮と正式に会見することで払拭されたが。

「いい加減、家臣として抱えてもらえぬものかな」

 犬犬呼ばれた利家はすっかり『忠犬』になってしまい、信長なくして生きられない。

 成政は『松ぼっくり』を返上したものの、何かしら功績を上げようと余念がない。

 手駒がほしい、舎弟がほしいと言っていた信長は有言実行、着実に味方を増やしている。そのうちに長秀のことなど、忘れていってしまうのではないかと不安にもなる。

 猿と呼ばれて可愛がられる藤吉郎は、何を馬鹿なと笑い飛ばす。

「長秀様は、巷で何と呼ばれとるか知らんのじゃな」

「若様には五郎左と呼ばれているぞ」

「米五郎左、っちゅうんじゃ。わしらは米を食わんと生きていけん、その米じゃ。信長様に言わせると、長秀様は何でもそつなくこなす万能選手なんじゃと」

「……嘘であれば、舌を抜くぞ」

「ひえぇっ、嘘じゃねえ! わしは信長様に直接聞いたんじゃ」

 小さくなって震える藤吉郎の向こうには、青々と茂る稲田がある。

 信長が心血注いで育てている米がある。

「米五郎左か」

 なくてはならぬ存在だ、と思ってくれている。

 そのことが震えるほどに嬉しかった。

 できれば信長自身から聞きたかったものだが、その信長は末森城にいる。信秀が倒れたと聞いて、見舞いに向かったのだ。那古野城の留守居役は他にいるとはいえ、村を守る人間は多いほどいい。

 夏から初秋が正念場だと聞いている。

 信盛はモノづくりに精を出しているので、長秀は売り出す方に力を入れている。弾正忠家のお膝元である津島は商人の町――商業都市というらしい――だ。

 口の上手い猿をお供に、商売の交渉をする。

 独りぼっちだった頃は想像もしなかった生き方だ。

「おっ、酒屋があるのう。信長様に土産で買っていったら、喜んでくれるかもしれん」

「お前が飲みたいだけじゃないのか」

「あっちゃあ、バレてもうた! なっ、ええじゃろ。皆で飲む酒じゃ」

「ふむ」

 長秀は少し考えてから、五升ほど買い付けた。

 秋には那古野城まで届けてくれるらしい。信長のいい噂は津島でも評判で、次は本人も立ち寄ってくれるようにと是非に頼まれた。主への褒め言葉は気分がいい。

 更に一升追加して、これは手土産にした。

 信長は大いに喜んで、誓いの酒として舎弟たちに振る舞うことになるのである。


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