34. 観音様と御坊様
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傷心の俺を打ちのめしたのは、沢彦の言葉だった。
「どうしようもなければ、諦めると言ったのは信長様ですよ」
「黙れ」
「禍福は糾える縄の如し、でございます」
「史記の『南越伝』ね」
「お濃、なんでここにいる」
「妻ですもの」
さも当然とばかりに答えた帰蝶は、出された茶を飲む。
相変わらずの美人さんで、仕草の一つ一つが洗練されていた。俺は読み解くのに苦労した覚えしかないが、嫁の教養の高さには舌を巻く。素直にすごいなと思う反面、この頭が良すぎるところも信盛たちの癪に障るのだろう。
舎弟たちと帰蝶の関係は冷え込んだままだ。
嫁いできたばかりで数か月こもっていた――俺のせいでもある――帰蝶は、虚勢を張っている部分があると思う。可愛げがないと言えば、それまでだ。
愛くるしいお市に比べて、どうしても態度の悪さが目についてしまう。
村に来れば、幸と帰蝶の喧嘩が始まる。幸は村で欠かせない労働力となっているため、帰蝶のせいで仕事が滞ると苦情が出てくるようになった。
頭が痛い。
舅殿にはよろしく頼むと言われているし、嫁は大事にしたい。
どうして立て続けに色々起きるのか、と文句を言いたくなっても仕方ないだろう。暑い夏がくれば、村で育てている水田も正念場だ。なんとか乗り越えれば、実りの秋が待っている。俺が村に行けない日は、信盛や恒興たちが様子を見に行ってくれていた。
そこへ現れたのが沢彦である。
復興が軌道に乗ってきた頃、自身の寺へ戻って以来だ。
「大和守様が古渡城を攻めたのはご存知ですかな」
「ああ」
本家を継いだ織田信友が古渡城を攻めたのは去年の話になる。
これと前後して親父殿の甥――俺からみて従兄弟――が謀反を起こし、今川家との戦いではいくつかの城を失っている。末森城は完成直後に、弾正忠家の主城となった。
「斯波義統様を擁立したのは大和守信友様ということになっておりますが、織田本家は御家来衆の坂井様らの発言力が強いのです」
「ええと、つまりは何か? 信友の指示で斯波氏が信行にコナかけてるんじゃなくて。更に後ろから糸を引いてる奴がいると」
「はい」
「ふうん。小坊主もいない寺の和尚は、大きな耳を持っているのね」
帰蝶の様子からして、美濃にも伝わっている情報だな。
頭痛が増したぞ、くそったれ。
信友が今川家と結んだら、弾正忠家は東西から挟みうちにされる。信行が担がれて挙兵したとしても同じだ。あと少しで復興できそうな村を思い浮かべた。
戦が起きれば、真っ先に田畑が犠牲になる。
なるべくなら戦は起こしたくない。だが、信行の様子からして話し合いで済む段階を超えてしまっているのかもしれない。沢彦は俺の背を押すつもりで、姿を現したのだ。
次期当主の不興を買うことまで覚悟して――。
ふうっと溜息を吐いた。
「お濃」
艶やかな黒髪を揺らし、帰蝶がこちらを見る。
「世話をかける」
「……何のことかしら」
「尾張のうつけがどう噂されているか知らないが。ガキの頃から面倒みてくれている奴を手討ちにするほど、俺は短気じゃねえつもりだ。ただし、腸は煮えくり返っている」
「存じております。信長様は、まことに弟思いであられる」
「皮肉か」
「そのように拗ねる癖は変わりませぬなあ。まだまだ幼い」
若いじゃなくて、幼いときたもんだ。
心配そうに見やる帰蝶の手前、フリでも怒ってやるわけにはいかなかった。舎弟たちとは似たような際どいやり取りを何度もしてきている。平手の爺に至っては、俺のせいで何度切腹の危機を乗り越えたか分からない。
そう、帰蝶は知らないのだ。
俺のことも、舎弟たちのことも、尾張の民のことも何もかも、伝え聞いた情報だけで判断しようとしている。だから危うく見えるし、周囲との調整が上手くいかない。
「沢彦」
「なりませぬ」
「嫌だ。俺は嫌だぞ。まだ子供だと笑うなら、最後まで聞け」
「…………若様……」
「俺は親父殿が倒れたと聞いた時、罠だと思った。すぐさま真偽を調べさせて、数日経ってから見舞いに行った。親父殿は、俺を殴る力も失っていた」
帰蝶は口を挟まないものの、目を丸くしている。
そこまで酷いとは知らなかったらしい。
沢彦はそれとなく聞いていたのか、表情が変わらないので心は読めない。瞑想をしているような半眼で、俺の話に耳を傾けている。
「あんなに喋ったのは初めてだった。親父殿は病床にあっても、尾張の未来を案じていた。戦ばかりして、民のことを顧みない暴君だと思っていたが、俺の勘違いだった。でも、信行は違った」
「やはりお会いになられましたか……」
「俺が見舞いに行ったのを誰かに聞いたんだろう。血相を変えてやってきて、親父殿に近づくなと怒鳴られた。俺が、親父殿を殺しに来たと思ったらしい」
「そんな!」
「嫌な時代だよなあ。親が子を、子が親を……親戚も、姻戚も殺し合う。大事にしたいと思っていても、大切にしようと努力しても、気持ちが届かないってことは辛いよなあ。それでも諦めたくない俺は、どうしようもない奴だよ本当に」
ああ、隣に帰蝶がいてくれてよかった。
さりげなく手を握ろうとしたら、ぺいっと振り払われてしまったが。
「沢彦」
「何でしょう」
「これ、俺の観音様なんだ」
「は!?」
「それはそれは」
「御仏は男だと聞いているしな。観音様の方が似合うだろ」
「ちょっと、真面目な話はどこへ行ったの!」
ぷんぷん怒っている帰蝶をよそに、俺と沢彦は笑みを交わす。
いつか信盛と交わした笑顔とは程遠い。笑えば笑うほどに心は沈み、口の中に苦さが溜まっていく。まるで特製の薬を含んでいるようだった。蝮の毒は、きっと甘い。
とろとろにとろけて、死ぬまで幸せでいられる。
だが俺は死ねない。死にたくない。
信長という人間を生かす薬は苦すぎて、とても飲み下せそうになかった。沢彦の目に、顔を歪めて笑う俺が映っている。情けなくて、嫌になる。
なんてクソッタレな世の中だ。
噛みしめた奥歯が変な音を立てて、砕けた。




