33. 父と子
暗い話が続きます
「何しに来た」
開口一番、それかよ。
しわがれた声に、思わず苦笑も浮かぶ。
落ち窪んだ目の光はまだ失われていない。じろりと睨んでくる様も相変わらずだ。違うのは俺が片膝をついていることと、親父殿が床に就いていることだった。
「恒興、人払いを」
「はっ」
乳兄弟が深く頭を下げたのを合図に、部屋から人間が出ていく。
その間、俺たちは一言も喋らなかった。
もともと口数の多い関係ではない。一方的に命じられ、それに答えるのが常だった。おそらく、昔からそうだったのだろう。親父殿の顔に鬱陶しさはあっても寂しさはなく、わざわざ見舞いに来た息子を疑わしげに睨んでいる。
「俺が寝込んでいた時は、見舞いに来てくれたじゃないですか。そのお返しですよ」
「ふん」
「倒れた時、頭とか打っていませんか」
「貴様と一緒にするでないわ」
不機嫌そうにしながらも、ちゃんと返事をくれる。
なんだか立場が逆になってしまった。覇気のない親父殿を見ていると、心の一部がガサガサする。穴が空いて、そこから冷たい風が吹き込んでくるようだ。
この感情をどう呼ぶのか、俺は知らない。
「経過は順調、と聞いた」
一瞬何を言われたのかわからなくて、俺はポカンとした。
うつけ、と叱責の声が物理的な痛みを伴う。いつの間にか手にした扇子で、額を叩かれていた。その弱すぎる疼きに、堪えなければならない何かがせり上がる。
「わしの脅しなど、恐ろしくもないか」
「修羅の国の人だと思っていますよ。今でも」
「……くだらんな」
「え。結構、本気で似合うとイタッ」
「うつけめが」
今度はちゃんと痛かった。
怒らせたせいで活力が戻ってきたのなら、それはそれでいいことだ。
親父殿が倒れた原因を俺は知らない。聞いても教えてくれなかった。まるで俺が原因だとばかりに睨まれて、その坊さんは肩を怒らせて去っていった。
この時代の医者は、ほとんどが坊さんだという。
薬師という役職もあるそうだが、その処方薬を親父殿が突っぱねたらしい。曰く「寝ていれば治る」という、医学的根拠の欠片もない啖呵だった。
「三郎」
「はい」
「民と戯れるは、楽しいか」
「楽しいですよ」
「くだらん。城を放り出して、弱者に施しをして、家臣どもに媚びを売り、聖人にでもなったつもりか。蝮に気に入られ、その娘を娶った小賢しい男が」
偽善者と言いたいのか、これは。
過去最高に親父殿が喋ってくれているので、揚げ足をとるような真似はしたくない。美濃の蝮と喧嘩していたのも、西三河をめぐって今川家と争っていたのも、はたまた織田本家とぎくしゃくしているのも親父殿の所業だ。
そこに政治的思惑があったとしても、舅殿や嫁の悪口まで言われたくない。
俺が黙っていると、親父殿は鼻で笑った。
「よく回る口はどうした」
「考え中です。しばらくお待ちください」
「敵は、待ってくれぬぞ」
ぎくりとする。
「わしが死ねば、尾張の情勢が変わる。確実にな」
「はい」
「返事をするだけか、この大たわけが」
「だから考え中でイタッ」
「もういい」
親父殿が勢いよく横に転がる。
慌てて介助しようと伸ばした手は、邪険に振り払われてしまった。俺自身、どうして助けようと思ったのかが不思議だった。もそもそと布団が動いて、嘘の鼾が聞こえ始める。
「親父殿、また来ます」
「…………」
「養生してください」
どうか、どうか少しでも長く生きてくれ。
平手の爺に、舅殿にも願ったことを親父殿にも願う日が来るとは。そう考えるだけで、俺はやっぱり自分勝手な人間だと自嘲する。病に倒れた姿を見て、哀れに感じたのだろうか。
なるべく音を立てないように気を付けて、部屋の外に出る。
すると息を切らせた信行がいた。
「お」
「父上に近づかないでいただきたい!」
「信行」
「殺すなら、弱っている今が好機と思っているのは知っているんだ。そうはさせない。僕が父上も、母上も守ってみせる。兄上に、信長に害させたりしないっ」
息を吸って、吐く。
「大きな声を出すんじゃない。親父殿の眠りを妨げるな」
「無理矢理眠らせた、の間違いでしょう?」
ダメなのか。何もかも手遅れなのか。
叫びたくなるのを、拳を握りしめて堪えた。
今の信行にはどんな言葉も届かない、その事実が何よりも辛かった。お市は幼いから懐いてくれているが、成長したらどうなるか分からない。周囲の言葉に惑わされて、俺を憎むようになるのかもしれない。
「信長!!」
兄と呼んでくれない『弟』の声が追いかけてくる。
親父殿を案じるなら、俺と喋っている場合ではないだろうに。俺が親父殿に無体を働いたと思うなら、さっさと様子を見にいけばいい。
背中に突き刺さる視線が痛い。
扇子で打たれた額よりも、じりじりと焼かれる背の方がずっと痛かった。




