32. 尾張の虎、倒れる
※不快な表現があります。ご注意ください
日が暮れてしまう前に、嫁と連れだって城へ戻る。
どこかの職人が土管について聞きたいと言ってきて、信盛を村へ置いてきたのだ。身分的に護衛の一人もいないのは不用心かもしれないが、俺には滝川一族がいる。
そう思うと二人っきりのはずなのに、二人っきりじゃない気がしてきた。
行きと同様、帰りも言葉少なに馬を進める。
色即是空、空即是色。
むくれた竹千代が仁王立ちで出迎えてくれたおかげで、少し冷静になれた。たまには役に立った褒美に構い倒してみたが、なかなか機嫌が直らない。放置決定。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
嫁の顔をおかずに夕餉もおかわりして、帰蝶と別れた。
寝る前には、風呂へ入るんだろうか。
いや、覗いたりしないぞ。ゲームイベントでは相手の好感度を上げられるが、俺は現実との境界線を見失っていない。向こうから歩み寄ってくれただけでも進歩だ。
俺たちは若い。前世の常識では未成年扱いになる。
だから焦らなくたっていいんだ。
「若様!! 一大事にございますっ」
バタバタと恒興が駆け込んでくる。
しばらく眠れそうになかった俺は、碁盤を引っ張り出したところだった。
漢書を読むのもいいが、囲碁を打つのも楽しい。ルールが分かってきた途端に面白く感じられるのだから、俺も大概に現金なものだと思う。
「なんだ、騒々しい」
「た、大変ですっ」
「だから何だ」
「御屋形様が、信秀様が――…!!」
俺の手から木鉢が落ちて、碁石が散らばった。
立ち上がった拍子にいくつか踏みつけ、その痛みで少しだけ冷静になる。大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。目を瞑ってみる。
俺、ノブナガ。尾張は那古野城の主、織田上総介信長である。
何十年後かの未来で、天下に武を布く男だ。
「……容態は」
「く、詳しくはなんとも。お倒れになった、とだけ」
「一益」
「調べてくる」
一瞬だけ姿を現した影が、また消える。
なんちゃって忍者だと思っていたが、案外本物なのかもしれない。出身地や師については頑なに語ろうとしないので、俺も正確なところは知らない。どこか甲賀忍を目の敵にしている部分があって、因果めいたものを感じている程度だ。
俺は、どすんと座った。
断じて腰が抜けたのではない。慌てても仕方ないと思って、自発的に座った。
「私は、見舞いに向かうべきだと思います」
「もう日が暮れている」
「信行様に先を越されてしまいますよ!」
「だからどうした」
「……っ」
「親父殿は、尾張の虎の異名をとる剛の者だぞ。人を殴って、空へ飛ばすくらい元気だった人間が倒れるわけないだろ。絶対、罠だ」
「若様」
「一益が戻り次第、末森城へ向かう。いつでも出られるよう、支度しておけ」
「分かりました」
それでは、と小さな声で恒興が立ち上がる。
胸に不満を抱えているのは明白だった。舎弟どもを呼び寄せるべきか考えて、すぐに頭を振って消した。そんなことをしたら、今までの苦労が水の泡になる。
元服してから行状を改めることで、彼らの評価は上向きになりつつあった。
利家は少々雲行きも怪しい感じだが、他の二人は問題ないと聞く。信盛に至っては、いつの間にか土管職人を召し抱えたことにしていた。鍛冶に細工に、第二次産業を掌握する勢いだ。
藤吉郎は順調に出世し、木下家の何人かも正式に馬廻り衆へ加わった。
その母だけは住み慣れた土地を離れたがらず、新しく与えた屋敷にも近づかないという。長く農民として暮らしてきただけに、環境の変化についていくのは簡単ではない。
まだまだこれからだ。
家督を継ぐための準備が終わっていない。
「親父殿が倒れた、だと?」
この時代の寿命は、現代日本の平均より遥かに短かったと聞いたことがある。
医学が未発達であること、戦が頻繁に起きていたことが原因だと思っていた。それはつまり、親父殿が重い病気だった場合は絶望的だということになる。
何を、馬鹿なことを。
慌てて頭を振って、この考えも消す。
想像以上に動揺している自分がいた。信長と信行の跡目争いは、当主であった信秀が家督を譲る前に死亡したせいで起きた。だから知っていた、親父殿がもうすぐ死ぬことを。
否が応にも乱世の荒波へ放り込まれてしまう。
知っていたから、準備を急いでいたのだ。
それから俺はじりじりと燃える蝋燭を睨みながら、夜を過ごした。
この時代に時計は存在しない。日時計なるモノがあると聞いたが、日が暮れてしまえば使えない。煙時計は線香の浪費が激しすぎる。
たとえ時計があったとしても、時間が経つのを遅く感じただろう。
散らばった碁石を拾い集めて、碁盤に置いていく。
ぱちり、ぱちりと音が響いた。白と黒が場を埋めていくのだが、いつものように頭が働かない。機械的に手が動いて、目はぼんやりと碁盤を映している。
「へんだな」
誰かの声がした。
「お前、あんな男のことなんてどうでもいいって思っていたんじゃなかったのか」
小馬鹿にして、嘲るような響きだった。
それでいて心が籠っていない。
決められた台詞をなぞっているだけの大根役者だ。誰が敷いたわけでもないレールに沿って歩いて、途切れた端から落ちていった男の声だった。
「今更、息子ぶっても遅い」
前世でも親に先立たれた。
子供の方が後から生まれるのだから、それも自然なことだ。百歳まで生きたら表彰される時代でも、半分までしか生きられなかった。親も、せいぜい70前後だ。正確な数字は忘れた。
「薄情な奴だよな、お前って。自分さえ良ければいいんだろ?」
ああ、そうだ。
織田信長に生まれ変わったと知っても、俺は俺のことしか考えていなかった。同じ運命を辿りたくなくて、超有名人になれたことが嬉しくて、馬鹿みたいに浮かれていた。
歴史通りに進めようと思ったのも、怖いからだ。
未来が変わることよりも、決められた道から外れていくのが怖いからだ。
そのくせ自分が死ぬのは嫌で、なんとか生き延びようと考える。安定の老後なんて、笑わせる。弟妹を可愛がるのも、前世が一人っ子だった反動だ。家族同然のペットを可愛いと思う感情に似ている。
信行はそんな浅ましい心を見抜いて、俺を避けていたのだ。
ダメ人間は、ダメ人間のままだった。
成長した。変われた、と思いたかっただけだ。
「くそっ」
腕を振れば、碁盤から碁石が弾け飛ぶ。
散らかった石を拾い集めるのは億劫で、そのまま突っ伏した。
織田信秀の没年は諸説あります




