31. 嫁談義
嫁が来た。
結婚したのだから、そりゃ当たり前だと思われるかもしれない。
だが目覚め一発に嫁の顔を見て、朝餉にも嫁の顔をおかずに飯のおかわりをして、厩へ向かった先で嫁の顔とご対面する。
さぞ間抜けな面をさらしていたのだろう。
彼女は柳眉をしかめ、ちょっと首を傾げて問う。
「村へ行くのでしょう?」
「いや……まあ、うん。その通りです」
「若殿も奥方には形無しでござるな」
「うるせえよ、半介」
こんなことなら、信盛を呼び出すんじゃなかった。
平手の爺か、恒興辺りが話し相手には相応しいと思われる。竹千代は…………あ、ダメだ。帰蝶は美人だから、初恋の人になってしまうかもしれない。よりによって信盛に謝罪会見する予定の日に、こんな天変地異が起きなくてもいい。
竹千代は置いていこう。
「しかし困ったな。お濃の馬を用意していない」
「ほほう。早速、新しいあだ名を考案なさったか」
「あだ名? どういうこと」
「若殿は我らをあだ名で呼ばれまする。事情があってのことゆえ、そういうものだとご理解いただければ助かり申す」
「別にかまわないわ」
「かたじけない」
やんわりと拒絶されたのに、帰蝶は気にした風もない。
むしろ、俺の方がハラハラと見守ってしまう。
信盛にはもう少し言葉を選んでほしかったし、帰蝶は気位の高さが前面に出てしまって近づきがたい印象を与えてしまう。これから村へ行くのに、先が思いやられるな。
「あなた」
「ん?」
「馬がないのは仕方ないから、そちらへ乗せてちょうだい。まさか歩いていけ、なんて言わないでしょうね」
「奥方様」
「二人乗りでもいいか?」
帰蝶は一瞬目を見開いてから、こくんと頷いた。
そういう仕草をされると、まだ15歳の少女なんだなって思う。現代日本基準でいくと、中学3年生から高校1年生くらいか。思春期真っ盛りの年頃である。当時の俺がどうだったかを思い出すだけで涙が出てくるので、そっと蓋をしておこう。
出発からしてこんな調子だったため、道中はほぼ無言。
ヤバイ、なんかいい匂いがする。色不異空、空不異色。腰に手を回しているのは安全のため、俺はノブナガ・シートベルト。色即是空、空即是色。下心なんかない、あるわけないない。不生不滅、不垢不浄、不増不減。
ああもう、空気が重いんだよ!
だが彼女いない歴が平手の爺よりも長い俺としては、気の利いた台詞なんて浮かんでこない。これじゃあ、信盛のことは責められない。というか、信盛だって嫁をもらってもおかしくない年頃だ。よし、後で聞いてみよう。
そうして村へ到着した途端、歓声が上がった。
「おひめさまだー!」
「ひめさまがきたー」
「ちがうよ、てんにょさまだよ」
「てんにょってなに?」
「すごくきれいなひと」
「きれー!!」
ダメだ、収拾がつかない。
子供たちが一斉に喋り始めて、口を挟む暇もなかった。
騒ぎになるのは予想していたが、想像以上である。ちなみに大人の方は一瞬見ただけで、共同住宅へ引っ込んでしまった。武士身分は俺たちで見慣れているはずなのに、明らかに高貴な人がやってきたからだ。
あれ? それだと、俺の立場ってどうなるの。
「あなた」
「お、おう。どうした、お濃」
「どれがあなたの子なのかしら。まさか、全員とは言わないわよね」
「…………」
「…………」
「ちがいます! 将来のヨメです」
「幸さあぁん!?」
真顔で何言っちゃってんの、この子。
子供たちがまた騒ぎ出したのはともかく、帰蝶の視線がとても怖い。ロリコン疑惑は拭われたはずなのに、こんなところで再燃するとは思わなかった。幸の年齢が10歳くらいだとしても、俺との年の差は6歳だ。高校生と小学生はあぶない。
帰蝶が軽蔑したわ、と呟く。
「噂通り、最低な人」
「何も知らないのに、ひどいこと言わないで!」
「あら? それじゃあ、何を知っているというの。言ってみなさいな。お前はこの村から出たことなんてないのでしょう」
「出たことあるよ。ノブナガに、どうしてもって頼まれたんだからっ」
ああああ、事態がどんどん悪化していく。
「半介」
「幸のこと、ご存じなかったので?」
「うん」
「それはそれは」
「実はてめえ、面白がっているだろ!!」
「いえ、そのようなブフッ。……っと、失礼」
台詞の途中で噴き出すほど面白いか。
そうか、そうだよな! 他人の不幸は蜜の味っていうもんな。
だからって俺が許すと思ったら大間違いだ。ずるずる先延ばしになって、今日こそは変な疑惑をふっかけた件を謝ろうとしたのに台無しである。
幸が懐いてくれているのは知っていた。
だが、まだまだ幼い。年の離れた妹は既にお市がいるとはいえ、幸のことも妹みたいに思っていた。それがこんな事態に発展するとは、誰が予想できただろう。少なくとも、俺は予想だにしていなかった。
視界の端では、まだ帰蝶と幸が喧々諤々やり合っている。
女の戦いに男は割り込めない。二股かけていたわけじゃないのに、この居たたまれなさはどうすればいいのだろう。
「……田んぼの見回りしてくる」
「お供仕る」
「勝手にしやがれ」
投げやりに応じて、はたと気付いた。
止まりそうになった足を無理矢理に動かして、宣言通りに田んぼの見回りを開始する。葉がよく伸びる時期は水管理も大事だが、雑草の除去もこまめにやらなければならない。タニシか何かがいる田んぼは、いい田んぼというのは本当だろうか。
畦から覗き込んでみる。それらしい何かはいない。
「おう、信盛さんよお」
「褌が丸見えでござる」
「こまけーことはいいんだよ。構うな。そして聞け。黙って聞け」
「はあ」
「悪かった」
ぽつんと告げる。
美しい緑の原を眺めながら、信盛が口を開く。
「人の上に立つ者は、そう簡単に謝らぬものでござる」
「長秀みたいなことを言うなよ。あと疑っていたことに関して謝ってんじゃねえ。てめえが確信してねえのに、わざと皆のいる前で疑惑を持たせようとした。何も考えてなかったとは言わん。だが、卑怯な真似をしたのは認める」
「そのことに対する詫びならば、受け取れませぬな」
「そうか」
「よろしいので?」
「よろしいのである」
ただ言いたかっただけだ。
俺が謝った事実を、信盛に知ってほしかった。自分勝手な感情なのは承知の上で、一言謝らないと先に進めない気がしていた。黒幕が土田御前だなんて言えない。
いずれ皆が知ることになろうとも、俺の口からは言わない。
できることなら、誰も知らないまま終わってほしい。愛されていなくても、愛せなくても、親子として交流した記憶がなくても、土田御前は俺の母親だから。信行とお市を生んだ人だから。
古寺に帰蝶が現れた時、観音様が来たのかと思った。
信長の体を間借りしている俺を、連れ戻しにきたのかと思った。
「お濃は、人間なんだよなあ」
「子供らは天女だ何だと騒いでおりますが」
「俺の嫁は美人すぎて、この世のものと思えないんだろ。うんうん、子供は正直でいいなあ。誰かさんと違って」
「美しければ何でも許されるわけではありますまい。あれは毒のある花でござる」
「毒があるくらいで、ちょうどいい」
将来的に魔王と名乗るかどうかは決めていない。
うっかり、その場のノリで言っちゃう可能性は否定できない。たぶん信長の嫁は、美しいだけではつとまらない。賢いだけでも疎ましがられる。どちらも備わっていて『濃姫』なのだ。
「……拙者は惚れた腫れたなど、苦手でござる」
「そんなこと言わずに、嫁もらえよ。いいぞ、嫁は」
「急かされずとも家の為に娶ることになりましょう。男児を生めるなら、何でもかまいませぬ。家を守り、子を育て、夫に従順であるのが良妻と心得ます」
いつの時代の良妻だよとツッコミかけて、戦国時代だったと思い直す。
まだ室町幕府は残っているから、室町時代が正しいか。
嫁談義をしても平行線を辿りそうなので、俺たちは田んぼの巡回に戻った。どの田んぼにもタニシらしき影は見当たらなかったが、なんとオタマジャクシを発見。
さすがに村の子供たちは珍しくもないかと思ったが、一斉に集まってきた。
驚いて逃げてしまったオタマジャクシには、正直悪いことをしたと反省している。
それと拗ねた竹千代は、非常に面倒くさい子になっていた。
ノブナガ は こんらん している !




