30. 知りたくなかった真実
村の水田は順調に育っている。
水路建設は最後まで関われなかったが、俺が想像した通りの土管がきれいな水を運んでいたのは少し感動してしまった。川から分流をひいて、更に水路から田んぼへ。もちろん、これだけでは十分に水が行き渡らない。
耕作の際に余った土を盛って、溜め池も作った。
網にかかった稚魚らしき魚を放して、養殖まがいのことも始めている。特に餌は与えていないので、養殖と言っていいのか分からないが。こういう貯水池は水田のある村には一般的なんだそうだ。
これで井戸が枯れても、水不足で悩むことはない。
荒れ果てた大地だったところは、青々とした苗が揺れていた。
久しぶりに村へ来た竹千代が目をキラキラさせている。
「すっごく広いですねえ」
「どう考えても広すぎだろ」
「オレたち、頑張ったっすよ」
「やりすぎだっつの、馬鹿犬」
「スンマセン!?」
褒めて褒めてと尻尾を振るので、ハリセンの一撃をプレゼント。
こいつらはもう、俺の家臣として公表してもいいんじゃないかと思っている。何故なら舅殿との会見以降、俺に媚びを売る奴らが増えてきたのだ。正直、鬱陶しい。ああいう奴らに限って、いつ頃から参加したとか拘るんだよな。利家たちを新参者扱いしたら、俺はちょっとキレるぞ。
とにかく家中の空気が変わったのは確かだ。
国友銃が届いて、親父殿から一言もらったのも大きいか。
本当に「よくやった」の一言だけだった。
とりあえず崖っぷちの状況からは脱したと言えるだろう。とはいえ、村の再建は今年の収穫量にかかっている。まだまだ油断はできない。
「人が増えたな」
「灌漑事業や、水田の技術について学びたいって毎日やってくるんスよ」
「納得した。それで恒興も囲まれているのか」
「オレは説明が苦手なんで、……へへ」
「知っている」
むしろ利家がカンガイを言えたことに驚いているくらいだ。
長秀には屈強な男たちが多く、恒興には女衆が多いのはなんでだろうな。猿は実際に水田を歩き回って、ツアーガイドみたいな仕事をしている。成政は家の事情で不在だ。
いい加減、こいつらも家督相続の話が出てもおかしくない。
「お前、家はどうするんだ?」
「兄貴が継ぐみたいっすよ。オレ、最近は荒子に戻ってないっす」
「放蕩息子かよ! 家に帰れ」
「えー、三郎様……じゃねえや、信長様だって日参してるじゃないっすかあ。俺も村の行く末が気になるし、悪さをする奴がいねえか見張る担当だって」
必要か不要かと問われたら、確かに必要だ。
「犬なりに考えているんだな」
「いやあ、ははは! オレも、半介なんかに負けてられねえし。先の会見で、信長様がすっげえ格好良かったから。正直、惚れ直したっす。シビレました!」
利家はいつでも真っ直ぐに、俺を褒める。
照れ臭さから茶化してやろうとして、止めた。
舎弟たちが俺のことを持ち上げすぎるのは慣れるべきじゃないが、慕ってくれる気持ちを蔑ろにするのはダメだ。平手の爺や舅殿に対する気持ちを茶化されたり、無下にされたりするのは辛い。
嫁に俺の好意がまったく伝わっていないのも、辛い。泣きそうだ。
そんな時は可愛い妹に癒されるのが一番である。なんというか、年々可愛さを増している。そのうち、可愛さが爆発するんじゃないかと心配になるくらいだ。そして信行は意図的に避けられているらしく、ほとんど顔を見なくなった。
噂では土田御前の嘆願で、どこぞの城主になったとか。
「若」
一益が現れる。
「任務完了」
「よし、報告を聞こう。利家、竹千代を頼む」
「合点承知っす」
俺は一益を連れて歩き出した。
馬に乗って、懐かしい古寺に向かう。村に集まるのが定番になって以来、定期会議も開いていない。本来は、那古野城でやるべきなんだがな。
古寺のジメッとした暗さは、俺の心境を表すかのようだ。
「……一益、いいぞ」
覚悟はしている。
それでも握りしめた手の中で、爪が食い込んだ。一益に頼んでいたのは、あの毒殺未遂の件だ。信盛に仕える与力の話を聞いてしまえば、泳がせておくなんていう悠長な話を言っていられなくなった。
何よりも俺自身が、首謀者を知りたかった。
「黒幕は御前様」
「ああうん、朝帰りのことをそう言うよなー。でも一益くん、俺が聞きたいのはそうじゃなくて」
「土田御前様」
「…………確か、か」
一益は頷く。
「そ、っか。マジで…………おふくろが、俺を毒殺しようとしたんだな。はは、そんなに憎いか……俺が。それほどまで信行に家督を継がせたいのかよ、土田御前は」
「若」
「大丈夫だ、俺は大丈夫だ。分かっていたことだ。憎まれているのも、存在そのものを疎まれているのも……愛されていないことも」
愛されたいと、思ったことすらない。
他人のような会話に違和感をおぼえたことも、寂しいと思ったこともなかった。先にあの人が俺を遠ざけたのか、俺があの人に懐かなかったのか。それは分からない。記憶が途中から失われてしまっている。親父殿ですら、俺は本当の親に思えない。
ただ弟妹は可愛くて、可愛がりたくて、大事にしたい存在だ。
「一益」
「…………」
「悪い、一人にしてくれ。夕暮れになったら、呼べ」
「御意」
人の気配がなくなって、俺は独りになった。
思えば前世の記憶が戻ってから、初めてのことかもしれない。いつだって誰かが傍にいて、どんな時も支えてくれた。笑って、怒って、泣いて、苦しんで――……そうして日々を過ごしているうちに、俺は俺をダメ人間なんて思えなくなっていた。
誰かのために頑張りたいと思った。
誰かを好きだと思った。
死にたくない、生きたいって強く思えた。流されるままに生きて、あらゆるものを恨んで、世の中のせいにして、孤独な生を終えた哀れな俺はもういない。
心の奥底で眠りについている。
「くそ、くそくそくそ……っ」
そのはずだった。
好意を向けなければ、愛さなければ傷つかない。報われない辛さを味わうこともない。幸せになれないが、不幸にもならない人生に妙なプライドを抱いていた。
「違う。違うっ、俺はノブナガだ! 俺は、生まれ変わったんだ!!」
拳を叩きつければ、木の床がめしりと音を立てた。
ほら、違うだろう。
前世の俺はひ弱で、叩きつけた拳の方が痛くなっていたはずだ。心だって成長した。一益に告げた通り、夕方になったら元通りになる。信長らしく、信長として、信長の生を歩む。
なるべく歴史通りに生きて、役目が終わった後で好きなことをしてやる。
未来は変わらない。未来は変えられない。
土田御前は信行を可愛がるあまりに、信長を嫌っていた。嫁の兄を殺して、妹の婿を殺して、一揆衆を殲滅して、僧兵ごと山を焼き討ちして、大量の鉄砲で騎馬隊を殺して、裏切り者を殺して、ころして、コロして……。
「ねえ、あなた」
「…………」
「生きているのかしら。それとも、死んでいるのかしら」
鈴を鳴らすような美声にクラッとした。
花の香りがふわふわ漂って、瞬く間に世界が塗り替わる。のろのろと頭を上げれば、天上の住人みたいな美しい女が立っていた。軽く首を傾げれば、黒髪がさらさらと揺れた。
一瞬、完全に飲まれていた。
観音様じゃないな、天女様が降臨したんだ。
「何か仰いなさいな」
「Oh, no」
「は?」
「美濃の姫だから、濃姫って呼ぼうかと思って……さ。あはは」
何をやっているんだよ、俺。いくら何でも動揺しすぎだぞ、俺。
幻だったら消えないでほしい。
そうだ、幻だ。やっと部屋から出られるようになったのに、今度は逆に面会謝絶の門前払いを受けすぎておかしくなったのだ。彼女に会いたいと思いすぎて、とうとう幻覚が見え始めたらしい。
「幻じゃないわよ」
「いてっ」
「お父様に会ったのでしょう。わたくしに内緒で」
「あ、ああ」
「元気そうだった?」
一瞬、言われた意味が分からなかった。
刺々しく睨んだり、不安そうに瞳を揺らしたり、帰蝶の意図するところが分からない。どうにも最近、色々ありすぎて真意を探ろうとする癖がついてしまったらしい。
「元気そうだった」
「本当に?」
「あ、いや……なんか気になることがありそうだった。それと、君のことを頼まれた」
嘘は言っていない。
義龍のことを話してしまうと、芋蔓式に前世のことまで説明するハメになる。どうせ信じてもらえないし、嫁に来たばかりの彼女を混乱させたくなかった。故郷から遠く離れた尾張の国へ嫁いできて、不安にならないはずがないのだ。
蝮の娘と呼ばれていても、利政が認める高い知性を持っていても。
帰蝶は、15歳の女の子なのだ。
断じてロリコンじゃないぞ。俺もまだ16歳だからな! 前世年齢を足すから犯罪臭を感じてしまうだけで、現実を見るんだ。何もおかしくはない。この時代的に普通の政略結婚だ。
「そう」
小さな相槌に、俺はちょっとだけホッとする。
だが彼女は一枚上手だった。
「それで? こんな古寺にこもって、何をいじけているのかしら」
「違うんだ。め、瞑想をしていたんだ!」
「わたくしの質問に答えなさい。あなた、生きているの? 死んでいるの?」
「めちゃくちゃ生きてる! お濃、愛してるっ」
「……どうしようもない大うつけね」
ため息交じりに呟いて、彼女は颯爽と去りゆく。
俺はその背を、ぼうっと見送った。
あっ、竹千代が空気……




