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ノブナガ奇伝  作者: 天野眞亜
雌伏編(天文13年~)
36/284

28. 療養中の春

 季節は変わって、新緑の春。

 ごろごろと寝ている間に田植えも終わってしまった。折れた(かもしれない)骨は添え木しておけば何とかなるし、起き上がって歩けないほどの重傷でもなかったのに。

 恒興め、いつの間に信盛と仲良くなったんだか。

 こっそり抜け出そうとすれば恒興が駆けつけ、信盛が仁王立ちしている。これらをギリギリ突破できたと思ったら、白装束の平手政秀が神妙に座していた。

 冗談でも笑えないぞ。

 だが、そこまでさせたのは俺だと言われてしまえば何も返せない。大人しく寝ていろの三重奏にしぶしぶ部屋へ戻る。もしかしたら嫁が見舞いに来てくれるかも、という淡い期待もあった。

 さすがに一月以上も経過すると、さすがに――。

 泣いてねえよ。うるせえよ、笑えばいいだろ。

「全部、親父殿のせいじゃねえか!!」

 おっと危ない。報告書を破りそうになった。

 沢彦に「暇で死にそうだ」と訴えたら、漢書と経本をどっさりもらった。平手の爺は「勉強が療養を妨げる」と言いながら、一益に調べさせた結果報告書を山ほど持ってきた。

 おかげで完治するまで部屋に缶詰状態だ。

 片付ける傍から新しいのが届くって、おかしくないか?

 今まで嫡男らしいことを何もしていなかったみたいで凹む。もともと少ない筋肉もすっかり衰えて、いよいよ女装が似合いそうだと信盛には笑われる。

 くそう、すっかり本調子に戻りやがって。

 俺だってなあ、何もできないダメ人間じゃないんだ。

 前世よりは多少マシになった自負がある。考え方も、身体的にも、成長しているはずだ。前世との年齢を合わせたら、平手の爺よりも年上になる。経験の差は、いうまでもなく沢彦や爺に軍配が上がる。

 いいから、笑えよ。

 人生の濃さが違うんだ。仕方ないじゃないか。

「ああ、テンション下がってきた」

 ばさっと机の上に紙を広げる。

 布団の住人は卒業したものの、行動範囲が狭くて息が詰まる。そのくせ、考えることが多すぎてパンクしそうになる。平手の爺はいい笑顔で、よい機会だとか言っていた。

 やっぱり怒っているんだろ、そうなんだろ。

「ワザとじゃないんだ。わざとじゃないんだよ、俺だってスゲー楽しみにしていたんだぞ。いきなりあだ名で呼んだらマズいし、普通に姫って呼ぶべきかーとか。男は黙って盃を交わすまで一言も語らずとかさー。こっそり綿帽子の下覗くにはどうしたらいいか、なんて悩んだりして」

 帰蝶姫は美人だった。超美人だった。

 想像以上に綺麗だった。あれが俺の嫁だぜ、うへへ。今すぐ世界中に自慢したいくらいだが、二度目の出会いはまだ果たせていない。部屋から出られないので謝罪もまだだ。

 一応、文は送った。

 返事はなかった。

「怒っているよなあ。すごい顔して睨んでいたもんなあ。いや、美人は怒った顔も見惚れるレベルだった。お市も成長したら、あんな美人になるのかなあ。夫になる奴は、一度斬り殺してから交換日記で仲を深めてもらおう。婚儀の夜が初夜だとか認めん。俺は認めん」

「若殿。だだ漏れですぞ」

「うるせー、お前らしか聞いていないんだ。別にいいだろぉ」

 今、すごくフテたい気分なんだ。

 呆れて物も言えない信盛に、報告書を読めと促す。怪訝そうにしていた奴も、目を通していくうちに顔色が変わっていった。からかいを含んだ表情から、研ぎ澄まされた鋭さを増していく。

「これは」

「クソ親父、なーにが飢饉だ。年貢以外に取り立てまくったら、飢えるに決まってんだろ。貧しい村から脱落していく。そうなれば当然、領地に空きが出る」

 くっそむかつく。

 周囲が敵だらけなのは知っていた。

 目下の敵は美濃だけだ、と思い込んでいた。三年以上も西三河をめぐって、今川家と喧嘩しているって知らなかった。年に数回出陣するだけで、どれほどの物資を必要とするか。

 考えたくもないし、考えても分からない。

 腹の立つことに去年の稲葉山城攻め、そして三河の安城合戦に平手の爺が参加していた。道理で姿が見えなかったわけだ。やけに優しかったのも、この辺りを突かれたくなかったからか。

「若殿は、平手殿の裏切りを責められるか」

「はあ? 誰が裏切ったんだよ。黙ってただけだろ」

「拙者とは随分と対応が異なりますな」

「生まれる前からの付き合いと一緒にするな。一族としては古参かもしれないが、俺個人に関しては新参もいいとこだろ。言っておくが、舎弟ランクは猿より下だ」

 ランキングの意味は分からずとも、藤吉郎より下と言われて信盛の表情が険しくなる。

 そういえば、野盗の一件でも長秀に斥候を任せたのを不満そうにしていた。面白いことになるかもしれないと思っていたが、信盛は闘争心を燃やしやすいタイプのようだ。

「そもそも爺は、美濃との和睦を結んだ立役者だぞ。三河出陣に関しても、親父が命じなかったら爺が出向くこともなかった。こういうのは実行した人間より、命令した人間の方が責任は重いんだよ」

「成程。では信広様については如何か」

「……よくわかんねえ」

 知らなかった。まさか兄がいるなんて、夢にも思わなかった。

 俺が嫡男と呼ばれても、長男と呼ばれないわけだ。

 城の守備を任されるくらいだから、武将としての実力は親父殿にも認められているのだろう。そのうち会えたらいいなと思うが、そのまま信秀ジュニアだったらイヤだな。

「兄貴には、いつか会いたいとは思う。というか兄貴が捕虜になったのも元はといえば、領土拡大を企んだ誰かさんのせいだろ」

「若殿自ら、大殿に進言なさると」

「ばっか、誰がやるかよ。婚儀をすっぽかして、一撃くらったばかりだっつーのに。今川勢が完全に松平を取り込んでしまった以上、三河に手出しはできなくなった。美濃とは政略結婚が成立したから、すぐに動くことはない。残るは」

 残るは、織田本家。

 苦いものが口いっぱいに広がった。

 何が楽しくて身内で喧嘩しなければならないのか。

 隣国同士で小競り合いしているのも馬鹿馬鹿しいのに、信行に魔の手が忍び寄っているのだ。何をやっているんだクソ親父と罵りたくなるのも分かるだろう。分かってくれ、頼むから。

「意外でござる」

「あん?」

「若殿は常に戦を想定した振る舞いをなさるゆえ、家督を継いだ暁にはうって出るおつもりであると心得ておりました。今の愚痴を聞いている限りでは、戦を厭うておられる様子。ご無礼ながら、武士としては立派な腑抜けでござる」

 戦が嫌いだと? 当たり前だろ。

 あれは殺し合いだ。人道にもとる行いだ。

 だから大義名分を掲げ、戦をする口実を明確にしなければならない。しかも実際に殺し合う人間のほとんどが、普段は田畑を耕していた足軽たちだ。

「勝てない戦をしても意味がない」

「まあ、道理ですな」

「だが竹千代は、俺の舎弟だ」

 あのガキんちょは数回見舞いに来たきり、姿を見せない。

 背伸びしたい年頃なのか、結婚したばかりの俺に気遣っているつもりなのだろう。新婚ほやほやどころか、愛しの花嫁には一度も会っていない。手紙の返事もない。

 いや、そんなことよりも竹千代のことである。

 西三河の情勢が変わったのなら、織田家を出ていく日も近い。今度こそ今川家の人質として、窮屈な生活することになる。あっちに俺みたいな存在がいるとは思えなかった。

「俺のものが、他人の所有になるのは気に食わん」

「勝てますかな」

「知らん」

 俺はあえて、とぼけた。

 例の目力で見つめ、信盛は俺の真意を探ろうとしている。今川義元との戦いは十中八九、勝てる。桶狭間の戦いはすごく有名だからだ。その詳細を覚えていないのが悔やまれる。

 だから明言できない。

 寡兵で不意打ちを仕掛けた場合、失敗すれば全滅する。

 大将首を討ち取ったから、信長は生き延びたのだ。義元を失った今川家はあっという間に衰退し、松平氏は三河にて独立を果たす。幼い頃の約定と、この恩義があるから同盟が成った。

 全ては結果論だ。

「勝てない戦はしない。だが、常勝の将になれるとも思っていない。そんな俺でも、お前はついてくるか? 結構、しんどい道になると思うが」

「若殿に『半介』と呼ばれた日より、この心は定まってござる。お疑いなら、今すぐ腹を掻っ捌いてみせましょうぞ」

「馬鹿か。俺のものを勝手に傷つける宣言するな」

 あ、ポカンとしている。

 似たような台詞を恒興にも言ったな。

「間抜け面」

「不意打ちは卑怯、と申し上げたくもあるが…………若殿には、敵いませぬな」

「この俺を誰だと心得る」

「織田三郎信長様にございます」

 ぷっと噴き出した。

 信盛も目元が緩んで、妙な顔になっている。おかしな顔だと言ってやるために口を開いたら、爆笑が弾けた。つられて信盛も、大いに笑う。

「あっはっはっは!!」

「はっはっはっは!」

 そこへ恒興が何事かと飛び込んでくる。

 奥に控える小姓を見れば、こちらも笑いをこらえている。ますます意味が分からないと首を傾げるのが可笑しくて、俺たちは腹がよじれるほど笑いまくった。


嫁と会わせてもらえないので、ヤサグレ中の主人公


織田信広:信長の異母兄にして、信秀の庶子。十代で何度も出陣するほどの武勇を誇るが、安祥城をめぐる戦いで今川軍に捕らえられていた(竹千代と人質交換で帰国)

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