【閑話】 蝮の娘
※本日、2話まとめて更新しています
帰蝶が織田家に輿入れしてから、十日以上が経過した。
政略結婚とはいえ、次期当主の正室として迎えられたのだ。那古野城の一角を与えられ、日々を暮らすには不自由しない。現当主の歓待ぶりに、警戒しすぎたかと思ったのも本当だ。美濃国から連れてきたのは、下男が数人と侍女が一人だけ。
残りは故郷へ帰してやった。
これからどうなるにしろ、帰蝶は他国へ嫁いできた身の上だ。巻き込むのは最低限でいいと思っていた。侍女も連れてくる気はなかったのだが、泣いて縋るから折れてしまった。
「姫様? 殿様からは何と……」
返事の代わりに文の端がぐしゃ、と潰れる。
「由宇」
「は、はい」
「わたくしたちは織田家の人間になったのです。今のわたくしたちにとって殿様とお呼びするのは信秀様のこと。以後、父をそう呼ぶのは禁じます」
「ですがっ」
「由宇」
「……申し訳ありません、姫様」
「もう姫でもないのだけどね」
自嘲気味な言葉に、また由宇が頭をはね上げる。
それでも何も言わないまま、項垂れてしまった。彼女が何を悔い、何を恨めしく思っているのかは気付いている。乳兄弟として、実の姉妹のように育ったのだ。
(わたくしの代わりに怒って、泣いてくれる唯一の味方)
父・利政は率直な意味で、味方ではない。
あえて言うなら、志を同じくする者だ。それが必要と感じたら、娘であっても見捨てるだろう。出立前に託された懐剣にそっと手をやる。
『よいか、帰蝶。愛しい娘よ。その目で、しかと見定めてくるのだ。婿殿が噂通りのうつけであれば、この短刀で殺せ』
『ち、父上?!』
『夫として不足なしと思うなら、その知勇で支えてやれ。分かったな、帰蝶』
その場では「はい」と頷いたものの、意図するところが分からなかった。
父は一体、何を考えているのだろう。次期当主を殺しても、将来を嘱望されている次男がいる。現当主も未だ健在だ。どれだけ馬鹿にしていても、織田家の直系を殺されて黙っているとは考えにくい。
帰蝶がなんとか美濃へ帰りついた頃には、戦端が開かれている。
父は、利政は尾張国をも視野に入れているのだろうか。
織田家は織田家でも、せいぜい四郡を治めるだけの織田三奉行の一つにすぎない。尾張守護職である斯波氏の権威は幕府の衰退と共に揺らいでいるが、守護代は織田本家が代々務める。徐々に切り取っていくには、時間が足りない。
兄の義龍では荷が重かろう。
何故なら庶流でありながら、織田弾正忠家は美濃と三河を相手取ってきたのだ。
そして織田本家とも主従の関係を維持しつつも、友好的とは言えない。狙うなら分家から、と父は考えたのかもしれない。少なくとも信秀とは和睦を結べた。
子を娶せる縁談にも乗ってきた。
父は言う。今川義元は厄介な相手である、と。
信秀には北に美濃、内側に本家、そして東に三河を睨むだけの気概がある。今川家によって、三河一帯を治めていた松平氏は小大名に落ちてしまった。なのに弾正忠家は潰れない。
本家が健在というのもあるだろう。
だが、この先は分からない。父はそう読んでいるのだ。
いよいよ厳しい時代へ向かう中、息子を案じる気持ちは帰蝶にも分かる。そのために織田本家でなく、弾正忠家と縁続きになることを選んだ。
(いいえ、あるいは)
握りつぶした文を今一度、見つめる。
婚儀の顛末について父が知りたがるだろうと思い、一部始終を報告した件の返し文だ。感情を挟まないように書くのがとても大変だった。その苦労すら見抜いていた父が、腹を抱えて笑っている様もありありと浮かぶ。
『さすがは、うつけ殿』
帰蝶が一番気に入らない文を睨みつける。
婚儀が終えるまでは、帰蝶も美濃の人間だ。その大事な席をすっぽかすというのは、父である利政をもコケにする傍若無人な行状である。信秀には抗議の文を送るとしているが、帰蝶には父がとっくに許してしまっているようにしか思えなかった。
家臣にも義龍にも一つの失敗に対してひどく叱責する父が、だ。
油売りの商人から下剋上を成した男は、巷で大悪党とも呼ばれている。用いた手段が、非常に悪辣であると非難しているのだ。主君を殺し、政敵を殺し、邪魔なものは排除することを躊躇わない。
ゆえに非道な大悪党。
毒を持った蛇、美濃の蝮と呼ばれている。
そんな父のことを義龍は恐れつつも、毛嫌いしている。卑しい身分だとか、性根が腐っているとか、己にも同じ血が流れているのを知りながら悪舌を叩く。
虚勢を張らなければ生きていけない兄を、帰蝶は哀れだと思う。
いつか父に殺されるのでは、と疑心暗鬼に陥っている。それは元服をとっくに終えても家督を譲ってもらえない不満が、少なからず影響しているのかもしれない。
ならば、信長は次期当主に相応しいのか。
「おいたわしや、姫様」
隣で由宇がさめざめと泣いている。
文を持ったまま沈黙している帰蝶を、嘆きのあまりに声が出ないと勘違いしているのだ。その推測は大きく外れていないが、当たっているわけでもない。
父が認めた男、織田三郎信長。
初めて見た夫の姿は「粗野」の一言に尽きた。
野盗が紛れ込んだのかと、思わず二度見してしまったほどである。どこをうろついていたのか、泥まみれの汗だくで髪はボサボサ、赤くなった鼻の頭が愛嬌といえば愛嬌か。美形が多いと聞いていたわりには、期待外れと思わずにいられなかった。
荒々しく踏み込んできたくせに、呆然と立ち尽くす頭の悪さには絶望した。
挙句の果てに「きれいだ」とか褒め言葉にも聞こえない。
そんなのは美濃でさんざん耳にした世辞だ。おためごかしの美辞麗句で機嫌をとろうとは笑わせる。馬鹿にするのも大概にしろと叫ぶのは我慢したが、黙っているのは無理だった。
投げた盃もしっかり命中する。
武士のくせに、体も鍛えていない細い体には呆れ果てた。鍛錬不足だから、女の投げた物も避けられないのだ。あれは我ながら、いい投げっぷりだった。
「怪我で療養中と聞くけど、本当かしらね」
「仮病でございますよ!」
「義父様に殴られて、お空を飛んだらしいわよ」
「まあ、姫様らしくもない。人が空を飛ぶなんて荒唐無稽な話を信じていらっしゃるのですか。明らかに嘘と分かる噂を広めるなど、器の程が知れるというものです」
ぷんぷん怒っている由宇を見ていると、かえって冷静になれる。
「一応は夫だし、見舞いに」
「なりませぬ」
「由宇」
「敵の策でございますよ! ええ、断言できます。市井の娘たちを片っ端から手籠めにしている大うつけが、お美しい姫様に手を出さぬはずがありません。寝込んでいるふりをして、布団に引きずりこまれたら如何なさいますか」
「この短刀で胸を突くわ」
「姫様!? は、早まらないでくださいましっ」
「やあね。不埒者の胸を突くに決まっているじゃない。わたくしを端女同然に扱う男に容赦しないわ。たとえ政略結婚で成立した『夫』であってもね」
鼻息荒く力説していた由宇が、今度は真っ青になっている。
父との密談は彼女も知らないことだ。
国境には庵があるという。そこに手勢を潜ませて、逃げてきた帰蝶を助ける手筈もできているのだろう。言葉の綾で、懐剣を授けたとは思っていない。そういう冗談を言わない人間だ。
女に生まれたからといって、男に従うだけが生き様ではない。
帰蝶は蝮の娘だ。その異名を誇りとし、胸を張って生きていくのだ。
由宇:帰蝶の乳母の娘。一つ年上だが、帰蝶の方が落ち着いているので妹分のような扱いになっている。
調べたところ、戦国時代にも遊女はいたそうです。
有名な吉原遊郭ができる前は太夫と端女郎の二つだったようなので、本作では「端女」のまま表記させていただきます。




