【閑話】 荒子の犬
※本日、2話まとめて更新しています
利家たちは村への道を急いでいた。
野盗の話は随分前から、尾張国における悩みの種である。
北の国境付近によく出没するので、美濃国の斎藤家が裏で糸を引いているのではと疑っている。蝮の草庵が国境沿いにあるのも、疑惑の一因となっていた。
復興を目指す村は、北側の辺境だ。
そうでなくても何とかしたいと常々ぼやいていた主が、ここで何もしないわけがない。もう日が暮れようとしていたが、村へ向かっているのは確信があったからだ。
「おう、恒興」
「お前たちも村へ向かうのか? それなら、若様も村におられるのだろうな」
不満そうにしながら、諦めが大半を占める表情で恒興がぼやく。
「どうして城で大人しくしていただけないのか」
「無理だろ」
「ああ、無理だな」
「信長様じゃからのう」
三人三様の返事を受け、恒興が泣きそうな顔になる。
乳兄弟という信長に最も近い存在でありながら、尾張国へ戻った途端に距離を置かれるようになってしまった。特に利家は直接罵られたこともあるので、恒興の不満は知っている。
元服を終えてからは再び傍に置くようになったが、放っておかれた反動で行きすぎた言動が目立つ。信長には鬱陶しがられ、利家たちに八つ当たりしたくても表向きは疎遠になっている設定なので大っぴらに文句も言えず、生真面目な性格には辛かろうと思う。
だが信長は一度、懐へ入れた人間にはとても寛大だ。
恒興をどうでもいいとは思っていない。これは断言できる。
(それをオレが言って、信じてもらえるかだが)
万に一つも信じたとしても、今の状況は変わらない。
信長が変わるのを待つよりは、自分たちが変わるべきだ。
利家はそう考えている。信長のためなら、犬でいい。わんと吠えて、尻尾を振る馬鹿犬でいい。
信長に出会うまで、利家は荒子城のガキ大将だった。
前田家の息子というだけで、どいつもこいつも恐れ敬い平伏する。
地味な着物よりも派手な羽織の方が目立つし、格好良い。誰も認めてくれなかった美学を、信長はあっさり受け入れてくれた。一緒に派手な格好をするのが楽しかった。皆に何を言われても平然としている信長が、この世で一番格好良かった。
あれこれと聞いてくるのも信長だけだった。
肩で風を切って歩く背を追いかけるのが当たり前になるまで、そう長くかからなかった。
「あれ?」
利家は抜群に目がいい。
かの村へ近づいてきたのに、人っ子一人見当たらない。
そういえば信長が共同住宅とやらに集まれと命じていたので、皆はそこに籠っているのだろう。炊事の煙が出ていないし、灯りも見えないが間違いない。
「本当に若様が、こちらにいらっしゃるのだろうな?」
「ああ、たぶん」
「たぶん!?」
恒興の声が裏返る。
成政と藤吉郎は最近行動を共にすることが増えて、何やら悪企みの最中だ。やや歩みが遅くなっているものの、村への足取りに迷いはない。
恒興は藤吉郎のことを「下賤の民」という。
もちろん信長の前では絶対に言わないが、藤吉郎と直接喋っているのを見たことがない。利家の周りには、農民を見下している大人がほとんどだ。だから恒興の考え方が間違っているとも、正しいとも判別できない。
ただ信長は言う。
『毎日の飯になるもんを作っている奴らを馬鹿にするのは、明日から飯を食べませんと言っているようなもんだろ』
一瞬、意味が分からなかった。
それから大いに慌てた。
飯が食えなくなったら、飢えて死んでしまう。村で何人もの死体を見たから、余計に恐怖が募った。藤吉郎に対しても、心のどこかで卑しい身分の子供だと馬鹿にしていなかっただろうか。
田畑を世話する者がいなければ、飯が食えない。
それが理解できたら無性にありがたく思えてきて、藤吉郎には散々気味悪がられた。更には見かねた信長にハリセンでぶっ叩かれた。男の尻を追いかけ回すな、お前はそういう趣味に目覚めたのかと叱られ、必死になって否定したのも記憶に新しい。
あの日以来、藤吉郎を対等の人間として扱っている。
藤吉郎はとても頭がいい。
利家はもちろん、皆の兄貴分である長秀ですら思いつかない策を次々出してくる。信長が猿、猿と呼んで可愛がるのも納得できる話だ。恒興はそれがまた、非常に気に食わないらしい。
「そういや、佐久間様の姿も見えんのう」
「寒いから中に入ったんだろ」
「軟弱な奴! 俺なら、見張り番を買って出てやるぜ。中にいたら、襲撃されるまで気づけないまんまだろ。俺たちは三郎様も、村の奴らも守らなきゃならねえんだ」
「そうだ。若様には傷一つあってはならん」
「おお、恒興。お前も分かってるじゃねえか」
勇ましい成政の言葉に、恒興が頷いている。
「分かっちょらんのう」
「そうだな」
「お、利家はわしと同意見か」
藤吉郎が嬉しそうな顔をする。
あちらには届かない小さな呟きだったが、利家は耳もいい。しっかり頷いてやれば、藤吉郎は猿顔をくしゃっと歪ませた。何故か、しきりに頭を掻いている。
「信長様は、村の者を大事に思っていなさる。誰か一人でも死んだり、傷ついたりしたら、信長様はきっと悔やまれるに違いねえ。腕っぷしの無さを、いっつも気にしておられるんさ。大将だから後ろにでーんと構えると笑いながら、前に出られねえ悔しさを隠そうとなさるんじゃ」
利家は驚いた。
腕っぷしがない、ということはないのだ。信長は人並み程度に刀も槍も扱える。藤吉郎の発想を理解できるどころか、更に発展させることもできる。
頭が良くて、武芸に通じる。人柄もいい。
どこからどう見ても、武家の嫡男としておかしくない。利家は信長以外の主に仕えるつもりはなかったし、成政たちも同じ気持ちであるはずだ。
その信長が弱音を吐いていた。
藤吉郎が知っていた。利家は知らなかった。
「うおおおおお、さぶろおさばあああぁ!!」
「な、なんだ、ありゃあ。馬鹿犬め、いきなり走っていったぞ」
「信長様に会いたくなったんじゃろ」
「昼にも会ったばかりじゃねえか。本当に、三郎様が好きだな。そう思わねえか、恒興。あ? 恒興もいやがらねえ!」
「信長様に会いたくなったんじゃろ」
「同じことを二度も言うんじゃねえ! む、ムズムズしてくんだろっ」
狭い村だ。
彼らの会話もしっかり聞こえていたが、利家はそれどころではなかった。叫びながら走ったので、共同住宅の引き戸が動く。そこから現れたのは見目麗しく、年若い娘だったのだ。
一瞬、息をするのも忘れた。
猫を思わせる吊り目は気の強そうな印象を与え、赤い唇は熟れた果実のように艶やかだ。無地の着物はけっして派手ではないが、とても華やかな青だ。そして胸が大きい。さらさらの黒髪からはいい匂いがして、思わず触りたくなる。
「遅かったな」
見たこともない美しい娘は、よく知っている声で喋った。
「さ、さ、さささ……」
「もう少し遅かったら、帰るところだったぞ。さすがに化粧の落とし方までは知らないからな」
「三郎様あああぁ!?」
「声がデケェ」
小気味よい音と共に、慣れた刺激が頭を突き抜けた。
加賀様をこんな馬鹿犬にしてごめんなさい。
若いときはヤンチャだったけど、息子がでかくなる頃には落ち着いているということなので今は勘弁してやってください。
反省はしているが、後悔はしていない。




