221. 誤算
時は天正、冬の気配が近づく11月――。
今年の収穫祭も盛況だった。
食部門における一番の見どころは、米粉vs小麦粉vsそば粉の熱き戦い。うどん党、そば党の睨み合いに米粉が参入した形である。日本酒といえば米を原料とする清酒だが、最近は焼酎の人気が急上昇。芋、米、麦に加えて、そば焼酎の研究も進んでいる。
南蛮渡来のワインが参戦し、果実酒のバリエーションも増えた。
蒸留酒や発泡酒もほしい。美味い酒に美味い肴が揃えば言うことなしだ。タダ酒で、利き酒ができる試飲会も始めたものだから、あちこちで酔っ払いが続出。取っ組み合いの喧嘩はたちまち腕自慢大会になり、相撲トーナメントでは賭け札が飛び交う。
氏真が今川サッカーを、具豊が北畠ボーリングをそれぞれ披露していた。
そのうちに「ボールは友達だ」とか言い出したらどうしよう。どうもしないな、うん。サッカーもどきを始めたので、基本ルールを教えただけだ。ボーリングと張り合っている時点でなんか違うと思うのは俺だけか。
「へっへっへ、今年もたんまり儲けさせてもらったぜ」
「父上、悪徳商人みたいな笑い方はやめてください。それよりも銅銭の流通量はもう少し増やせませんか? 活版印刷の技術を用いれば、もっと作れるはずです」
「んー、今はこれが精一杯だな。お金じゃなくて、銅銭という細工物だと勘違いしている奴も多い。今日からコレ使えってやるよりは、徐々に浸透させていった方が混乱しないもんだ」
「そういうものですか」
納得したような、していないような顔で書類をめくる信忠。
俺たちは今、勘定方で仲良くソロバンを弾いている。いつものようにフラフラと城内を歩いていたら、小一郎に捕獲されてしまった。何日寝ていないのか分からない幽鬼みたいな顔で「にがしませんよおおお」と言われて、魔窟へ引きずり込まれたのである。
ちなみにお冬と賦秀も、当たり前みたいな顔でソロバン弾いていた。
全然終わらない。終わる気がしない。なんでこんなにあるんだ。テンプレートに従っていない報告書は読まずに突っ返した。何故か俺の分だけ、陳情書が混ざっている。
「父上、こっちに回さないでください」
「やかましい。いずれ全部、お前がやるんだ。今やっても同じだろ」
「これは父上宛てですよ。ちゃんと読んでいるんですか」
「織田家当主ってしか書いてない。お前でもいける」
「雑務もきっちりやってこそ当主だと以前、仰っていたではないですか」
「だからお前に回してる」
「今はまだ父上が当主ですよ!」
ああ言えばこう言う。本調子を取り戻した信忠は厄介だ。
お互いに忙しく手を動かしつつ、口も動かす。目は書面の文字をひたすら追いかけている。足の感覚がなくなってきた。頭の中で数字がワルツを踊っている。
楽しい時間はあっという間だが、苦しい時間はいつまでも終わる気がしない。
そんな時だった。
「大殿、若様! 一大事でございますっ」
部屋中に響いていたソロバンの音が止まる。
俺と信忠は顔を見合わせ、ほぼ同時に立ち上がった。足早に廊下へ出ていくと、報せを持ってきた小姓も慌ててついてくる。
移動した先では信純が待っていた。
先に報せを聞いていたようで、すぐにでも発てるよう支度を済ませたようだ。俺が部屋に入ってくると、珍しく余裕のない表情で見つめてくる。
「今は何も聞かず、行かせてほしい」
「分かった」
「ありがとう」
どこか泣きそうな顔で礼を言い、賦秀たちと入れ替わりに出ていく。
すれ違ったお冬にも気付かなかったようだ。信純があんなに急ぐ理由は一つしか考えられない。お艶の方、あるいは岩村城で何かあったのだ。
部屋に残っているもう一人へ視線を向けた。
「藤八郎、何があったか話せ」
「は。先程、岩村城より急使がまいりました。武田軍の襲撃を受けたとの由」
岩村城には信直が詰めている。
お艶の方は坊丸を連れて収穫祭を堪能し、ちょうど先日帰っていったばかりだ。城内に入っていればいいが、そうでない場合は安否が気になる。岩村城がある東美濃は信濃国に接しているが、信濃の国人衆は武田家当主である勝頼に従順ではないと聞いていた。
(ダム建設の件は上手く話を通したはずだが、何があった?)
考えに沈む間も、利之の説明は続く。
武田側の陣容は不明。あの辺りは険しい山道が多く、守りやすい土地だ。信直はあえて出陣せず、籠城する構えだという。襲撃を受けたといっても、まだ小競り合い程度か。だが、これから先はどうなるか分からない。
「籠城を選んだのは正しい判断だ。奥平と同じように『太郎を出せ』と言っているのだとしたら、わざわざ顔を見せてやるようなものだからな」
「ふん、また『太郎義信』か。信忠、行ってこい」
「! はい、お任せくださいっ」
ぱっと顔を明るくした信忠が踵を返す。
賦秀もそれに倣おうとしたが、同じように部屋を出ていこうとしたお冬の手を掴んだ。社交ダンスのように、くるりと一回転させて俺のところへ放る。びっくりした顔の娘を抱き留めた頃にはもう、二人の足音は聞こえなくなっていた。
「うー、置いてけぼり」
「医療班の出動は命じてないぞ」
「でも父上、大叔母様が心配なの」
嫌な予感がするの、と呟く。
消え入りそうな小さな声だったにもかかわらず、俺の耳にはっきりと聞こえた。それは今まで何度か味わった悪寒を伴い、じっとりと生温い汗が背中を滑り落ちる。
勝頼派にとって、太郎義信は不要な存在だ。
武田の忠臣・山県昌景などは、見つけ次第殺したいと思っているだろう。何故なら勝頼に不信感を抱いている者には、ちょうどいい神輿になるからだ。織田としては、知らぬ存ぜぬを貫けばいいと思っていた。
太郎はいない。それは生前の信玄も、はっきりと告げていたことで――。
「……っ、出陣する! お冬、ついてこい」
「うんっ」
「藤八郎、俺の具足をここに」
「御意!!」
俄かに慌ただしくなる城内から厩へと足を向ける。
幸か不幸か、信忠たちはまだ出発していなかったようだ。若衆の何人かが手を止め、俺に対して礼をとろうとする。不穏な空気を感じてか、馬たちは落ち着きがない。そんな中を縫うように歩いて、愛馬の下へと辿り着いた。
一瞬、目が合う。ちょうど水を飲んでいた彼女は鼻を鳴らし、軽々と跳躍した。
「う、うわあっ」
「大殿の御馬が!」
周りの動揺などお構いなしで、ずいっと体を寄せてくる。
「相変わらず、賢い奴だ」
その背に鞍が乗り、手綱がつけられる。俺は具足を纏い、刀を帯びた。
長谷部国重の作と伝わる打刀は、とても切れ味がいいので気に入っている。短筒と印籠も左右から届き、それぞれ装備する。最後に、黒の陣羽織を肩に引っかけた。
そこへ城内から駆けてくる者がいる。
「信長様、お待ちください!」
「おう、恒興か。ちょうどいい、留守を任せる」
「東は若様に任せると仰っていたではありませぬか」
「状況が変わった。これより岩村城の救援に向かう! 信長に続け!!」
「ち、父上! くっ、支度を急げ。お一人で向かわせてはならぬっ」
「俺が行こう。勘九郎、お前は軍を率いて追いかけよ」
「ああ!」
とか何とか慌ただしいやり取りを経て、俺たちは岐阜城を出た。
東海道は整備を進めているが、信濃方面はほとんど手を付けていない。無闇に伐採すれば山崩れが起きるし、山を切り開いて平野とするには技術力が足りない。そもそも信濃国は今も武田領であり、織田領ではない。ちなみに美濃国の北には飛騨国があるわけだが、こちらは姉小路家の領土だ。現当主の頼綱とは、将軍追放後も友好的な関係を続けている。
これからは東山道の整備も推し進めるべきか。
(収穫期が終わるのを待ってたんだろうな。……空気嫁だクソが!!)
見通しが甘かった、としか言いようがない。
美濃統一したばかりの頃に比べれば、かなり警戒レベルが下がっていた。信玄亡き後、武田家にかつてほどの勢いがなくなっていることも一因している。正直、舐めていた。謙信と頻繁にやり合っていたからこそ、織田領への影響が少なかっただけだ。
三方ヶ原のことを思い出す。
完璧な負け戦だった。俺が参戦していれば違ったかもしれないなどと考えたこともあるが、相手は戦上手の猛虎だ。純粋に騎馬隊だけが強くて戦国最強を誇れるわけがない。勝頼自身は戦の経験がほとんどなくても、古参の家臣たちは信玄の指揮下で何度も戦っている。
越後の軍神相手に何度も、何度も。
(坊丸と又六郎を置いていくんじゃねえぞ、叔母上!)
以前は苦にもならなかった山道が、忌々しいほどの悪路に思えた。
姉小路頼綱...三木自綱から改名。最近、悲願の飛騨国統一を成し遂げた。妻は斎藤道三の娘(濃姫の姉)。
天正年間に入ってから父三木良頼(姉小路嗣頼)の病没で家督を継いだが、それ以前から父の名代として織田家との交流がある。




