196. 虎よ、虎よ
冒頭部分はざっくり三方ヶ原(前哨戦含む)
※タイトル元は某SF小説じゃなくて、詩の方です
明けて元亀3年(1572年)1月。
俺はその報告が全て終わるまで、微動だにしなかった。
私室である奥の間には俺と、信盛だけだ。いつも開放している障子も襖も締め切って、どでかい火鉢が我が物顔で鎮座している。正直、これがないと無理。凍え死ぬ。
「以上でござる」
「そうか」
小さく呟いて、背を向ける。
去年の秋頃のことだった。天竜川上流にある二俣城陥落の報せに、家康たちはすぐさま迎撃準備を整える。山越えするのと、平野を駆けるのとは進軍速度が全く違う。たちまち井伊谷城も奪われ、直虎たちは浜松城へ落ち延びた。
織田からは佐久間信盛率いる軍勢が一万。
徳川は三河国防衛にも兵力を割かなければならなかったため、遠江国で戦ったのは八千ほどしかいなかった。対する武田軍は三万の大軍である。
今の武田領から考えて、文字通りの総力戦だ。
あくまで東美濃の戦線は織田軍の足止め。浜松城の家康を討ち取るのが目的だと、誰もが考えていた。天竜川から広がる扇状地はなだらかな坂であり、自然が生み出した豊かな平野だ。相良油田のこともあって、信玄は遠江国に的を絞ったとみえる。
岐阜を発った佐久間軍が到着するまでは、油田開発と警備にあたっていた勝豊隊が徳川軍と共に戦った。信包は前線に出なかったというが、どこまで本当かは分からない。
戦力差はいわずもがな。
次々と落城の報せが舞い込む中、籠城か出陣かで意見が分かれた。
そして議論の末、浜松城での籠城を選ぶ。俺が信盛にそう言い聞かせたのもあるが、大軍に有利な平野で戦うなんて自殺行為だ。ましてや、後世には徳川側の大敗として伝わっている。正信は家康の下へ戻る気がないらしく、半兵衛は何故か反抗期。信純はまだ怒っている。
軍師不在で何ができる?
とにかく冬まで耐えればいい。雪で帰り道が閉ざされるし、向こうは遠征軍だ。二俣城でかなり手こずったらしく、武田軍の略奪行為は目を覆わんばかりだったという。
だが、家康は浜松城を出た。
南下してくるとばかり思っていた武田本隊が、西へ進路変更したからだ。理由はよく分からない。信玄の病状が悪化した、とも考えられた。一度は籠城を決めた家康が城から出た理由も、俺にはよく分からない。
『眼前を素通りされるなど、我慢ならぬ』
とか何とか叫んだらしいが、家康の台詞かも定かでない。
浜松城に接近中であった武田軍には、信玄の姿もあった。遠江国北部は既に奪われ、三河国内の状況も曖昧な状況下で、まともな人間が極度の緊張感にどれだけ耐えきれるか。武勇一辺倒の三河武士といえども、怖いものは怖い。だがプライドが勝って怖いと言えない。
そんな彼らを慮って、家康が突撃したとも考えられた。
不幸中の幸いだったのは、俺が三方ヶ原について家康と話したことだろう。台地で待ち受ける武田軍を見て、家康はすぐさま撤退を決めた。通常の戦は、戦端をひらくまでに地図で確認しながら皆で陣容を吟味する。
軍勢の展開や戦運びなどを確認して、開戦に至る。
信玄は戦上手と呼ばれていても、昔ながらの戦を好む。相手を徹底的に潰すよりも、双方の軍事力を見定める戦い方だ。有利不利が明らかになったら、停戦協定や和議を結んで双方撤退。勝てなくても負けなければいい、が信玄の考え方だ。
盤上の駒を動かすような戦は、あんまり好きじゃない。
家康は信玄の用意した盤上へ引きずり出されてしまった。早めに撤退を決めたので歴史的大敗までいかなくとも、徳川軍は多くの犠牲を払うことになった。援軍として参加した信元率いる水野軍、佐久間軍、平手軍も同様に戦死者を出した。
「……汎秀が、逝ったか」
五郎右衛門久秀の弟で、平手家の三男坊。
喘息の持病持ちだったために戦線へ出ることはほとんどなかったが、頭のいい男だった。生姜入り蜂蜜飴で喉が楽になったと喜んでいた姿が思い出される。やせっぽちの体に、親近感を覚えたのかもしれない。万年反抗期な兄よりも、何かと気にかけてやったのに。
「俺じゃない奴を守って死ぬ、とか」
家康は少数の護衛と共に浜松城へ帰還。
あまりにも酷い格好だったからか、供連れが少なすぎたからか。一度は疑われて追い出されそうになったり、城門を閉める閉めないでモメたりしたそうだ。結局は夜半まで解放したままだったというが、敵軍が攻めてくるかもしれないと思ったら怖くなって当然である。
家康には情けない肖像画と、いくつかの格好悪いエピソードが残った。
ついでに「三郎兄上の言いつけは絶対守る」を家訓にする、などと宣言していたらしい。汎秀は織田軍の株を大いに上げ、その遺骸は遠い遠江国で手厚く葬られた。宇佐山に骨を埋めた信治に倣って、遠江の民を守りたいという汎秀の遺志でもあった。
「半介」
「はっ」
「武田軍は、本当に撤退したんだろうな?」
「相違ござらぬ。あまりにも見事な引き際にて、徳栄軒の病状はかなり深刻であると推測されます」
「無念だろうな」
ぽつりと漏らした言葉が誰に向けてのものか。
気付かない信盛でもないだろうに、何も言わずに視線を落とした。
監視対象を逃した責任があるからと、久秀は自主謹慎中だ。動けない自分の代わりに弟の汎秀を向かわせたのだと思いたい。病弱で長生きできないだろうから、死に花咲かせようなんて考えだったら許さない。
いや、もう死んでいるから文句も届かない。
信玄は国へ戻れたのだろうか。どこかで陣中での病死と聞いたような気もするが、この世界がどこまで後世に伝わる歴史通りなのか分からないから判別つかない。
はっきりしているのは、遠江国北部は徳川領にすぐ戻る。
越中一揆も鎮圧された。
残るは北条家だが、今川氏真を唆して相良油田を狙うなら容赦はしない。汎秀の眠る遠江国を守る、という口実も増えた。織田管轄にするつもりは毛頭ない。
誰が何と言おうと、徳川家に管理させる。
「……半介」
「はっ」
「しばらく、城を空ける」
「御意」
「止めねえのかよ」
「甲斐に赴くのは初めてでござる」
思わず目を剥いて、何か言うために開いた口を閉じた。
佐久間信盛はこういう奴なのだ。
「好きにしろ」
「はは」
勘定方にいた信直を捕獲し、三人で美濃国境を越える。
恨めしそうな秀長には気付かないふりだ。
あの部署が常に人材不足である理由の一端は、秀長が厳しすぎるせいもある。前勘定奉行の貞勝の上を行くと専らの噂だ。あまりの激務に夜逃げする者も多く、出自問わずに高給職という売り文句は詐欺も同然とブーイング。お多福面がないのでお冬も顔を出さなくなり、唯一の潤いすら失われたと嘆かれる始末だ。
俺のせいか? 違うだろ。
ところで慶次が「交番」の話を聞いて、治安維持隊を結成した。
奴と仲がいいのは揃って人相が悪いせいで、なかなか子供たちにも懐いてもらえない荒くれ者だ。町の平和を守る正義の味方なら女子供にモテるかもしれない! という下心満載の動機はともかく、織田領にあるいくつかの大きな城下町で見廻りしている。
大通りを爆走する「熊」の噂は、たぶんソレだ。
彼らが女子供にモテる日は遠い。
「熊、美味しいです」
「そうだろ、そうだろ。肉を柔らかくするコツとアク抜きは、鹿や猪肉で練習したからなあ。じっくり煮込んで、味がしみ込んだ肉は美味い。味噌は神が与えたもうた奇跡よ、アーメン!」
「あーめん」
「らーめん」
「やめろ、半介。食べたくなる」
顔をしかめて首を振る。
スナック菓子やファーストフードが食べたくて、薬草に詳しくなったなんて誰にも言えない話だ。毒対策もあったとはいえ、塩と香辛料だけで食事は格段に美味しくなる。信州の森は、子供の頃に親しんだ森とよく似ていた。
甘い果実に感動し、苦い草に舌が痺れる。
獣に追われ、追いかけ、臭くて固くて閉口した。ついでに腹も壊した。今思えば、全力で自然と遊んだことになるのだろう。さんざん遊び倒しておいて、子供には勉学だ武芸だと厳しく言いつける。奇妙丸たちが突発的暴走をするのは、抑圧された反動かもしれない。
ふと沈みかけた思考が、音に反応した。
「殿」
「待て、動くな」
とっさに信盛たちを止めた俺へ囁く者がいる。
「武田軍の斥候が接近中」
「……半介、てめえ嘘吐きやがったな」
「嘘とは心外な。武田軍が遠江から撤退したのは事実で」
「シッ」
音と気配に集中しているため、信盛と視線は合わない。
ざくざくと雪を踏む音は確実に近づいていた。
三方ヶ原の戦いは12月の内に終わっている。雪の降り始める時期が早かったため、城攻めから野外戦への誘い出しを図ったのだろうと思う。速やかに撤収すれば、とっくに遠江・三河両国から武田軍はいなくなっているはずだ。
この森は、三河国の北に位置する。
三河攻め担当は武田家臣・秋山虎繁、山県昌景。このうち、秋山軍は本格的な遠江侵攻まで東美濃にちょっかいを出し続けていた。あの陰気そうな熊面は粘着質な性格だったようだ。のらりくらりと避ける織田軍に見切りをつけたか、三河国境へ進路を変更。山県軍は東三河の城をいくつか落とした後に、遠江国へ入った。
そこまで思い出して、はたと気付く。
「もしかして家康じゃなくて、俺を誘い出そうとしていたのか」
「え?」
「今頃気付くとは、さすがは大うつけ殿ですな」
「昌景……っ」
「太郎様の亡霊までご一緒でありましたか。これは僥倖」
抑揚のない声が場を縛る。
腰に手をやったままの信盛が、俺に耳打ちした。武田軍に囲まれている。斥候どころか精強赤備えの山県軍が、熊鍋をつつく三人を完全包囲とは笑わせる。
「ズバリ! 藪をつついて虎を出す作戦」
「恐れながら殿、日ノ本には野生の虎などおりませぬぞ」
「言葉の綾! 虎は虎でも――」
「お館様がお待ちだ。ご同行いただこう」
「待て、昌景! どういうことか説明しろっ」
「そこの馬鹿殿にでも聞けばよろしい」
背を向けた男は、さも忌々しそうに吐き捨てる。
信直と信盛の視線を受け、俺はぽりぽりと首の後ろを掻いた。
同行しろとか言っておきながら、一人で行ってしまった昌景には相当嫌われているようだ。ここにいる二人同様、主君の思惑に振り回されたといってもいい。
三方ヶ原に俺がいたら本当、どうなっていただろうな。
天才軍師の手腕で盤上をひっくり返すが如く、戦況は一変していたかもしれない。汎秀は死なずに済んだかもしれない。終わったことをぐだぐだ考えるのは、俺の悪い癖。
「この近くに庵でもあるのかねえ」
よっこいせと腰を上げつつ、俺はぼやく。
荷物を持って信盛たちが立ち上がれば、後方でじゅわっと煙が上がった。もったいないことをする。まだ温かい汁が残っていたのに、鍋ごと引っ繰り返しやがった。武田軍は大勝を収め、浮かれまくっていてもおかしくないのに空気が妙だ。
いよいよか、と内心ごちた。
尾張の虎の死に目には会えなかったが、甲斐の虎は死ぬ前に会ってくれるらしい。そのために信直を連れてきたのだし、願ったり叶ったりではある。美味い匂いをさせるところに人も、獣も誘われるものだ。
「前言撤回」
「独り言が多い、は変わらぬの」
はふはふと息をしながら、老いた虎が笑う。
「やれ、信純ではないな。よう見えぬ。近う寄れ」
「お館様のご命令だ。従え」
「…………父上」
「四郎か?」
「太郎でございます」
「太郎は死んだ」
はっきりと言われ、信直が息を飲む。
それから一言、二言ぼそぼそと何かを言い交わした。どんな内容だったのかは知らない。俺も、武田家臣も、傍にいながら聞こえないふりをしていた。
漂う強い臭いに鼻をつまむ。
痩せこけた老爺の目はギラギラと、かすれた声はゼイゼイと、体の一部を動かす度にギシギシと聞こえる。会わなければよかった、と小さな後悔が刺さる。
ここはまだ信濃国だ。
しかし信玄はもう、動けまい。瀕死の病人を搬送可能な医療ベッドも、受け入れてくれる病院もない。わずかな医療知識しかない俺にも、手の施しようがないと分かる。
信直が手を握り、何か言っていた。
信玄は何故か俺を見つめていた。
「そうじゃな。おぬしなら、きっと――」
もごもごと口は動いていたが、音にはならなかった。
甲斐の虎までが、俺に何か託そうとしているのが気に入らない。体ごとあっちを向けば、誰かがくすりと笑うのが知れた。気になっても確かめることはしなかった。
それが武田信玄の最期だった。
前書きの続き。
どっちも古い作品ですが、特に小説については読後の保証できません。色々凄い話です。おかしな書評が検索上位に出ていまして首を傾げた代わりに、内容よりも視覚情報でおなかいっぱいになった結果ラストまで読みきれなかった過去を思い出しました。
最近、編集しきれていない話が続いている気がします。読みづらかったらすみません。精進します。




