【閑話】 功成り名遂げて身退くは天の道なり
※今回は本多正信視点です(半生記っぽい考察は無し)
※前話に続いていますが、徳川サイドが憶測で話し合っているだけなので読まなくても問題ありません(きっと)
明日も早いということで、信長は寝所へ向かった。
異母弟・信包をはじめとする織田衆も場を辞し、広間には徳川側の人間が残る。鋭い視線を家康に固定している正信は、はたしてどちら側といえるのか。笑っても好印象を与えない顔と言う自覚はあっても、信長の前では笑みを絶やさなかった。
ニヤニヤ笑いの悪人面に、薄ら寒く思った者は少なくない。
松永弾正のお墨付きがあるからか、信長は全く疑っていないのだ。それこそ悪事を企むだけでも潰す、と言わんばかりの信包に睨まれるまでもなく。他でもない正信自身が、信長の態度に戸惑っている。
おそらく松永弾正も似た感情を抱いたはずだ。
信長は「尾張の大うつけ」と呼ばれ、その二つ名は広く知られている。およそ常識では考えられない言動、型破りな施策、戦においては負け知らず、家臣団のみならず民からの信頼も厚い。
『よいか、佐渡殿。あの方を決して怒らせてはならぬ。ちょっとだけ試すのも勧められぬ。腹の内が分からぬからといって策を弄してみよ。手玉に取られるのは貴様の方だ』
要するに、信長は一筋縄ではいかぬ者。
そう理解していた正信は、岐阜からの旅路で驚かない日はなかった。信包の監視があるため、かろうじて顔に出さなかっただけだ。供が小姓衆だけなら、本多正信らしからぬ醜態を晒していたに違いない。
そういう意味で、腰が抜けたらしい直虎にほくそ笑む。
おそらく過去に何人もの才知溢れる者が、ああして信長にしてやられてきたのだろう。激怒したかと思えば、身内の恥ずかしい話を持ち出しては笑わせ、気が済んだからといって酒を愉しみ、眠くなったと寝所に引っ込む。自由だ、自由すぎる。
結局、直虎の問いかけには答えなかった。
「嫌われたかもしれん」
「殿の自業自得です」
「ど、どうしよう。どうすればいいと思う、忠勝?!」
「知りませんよ」
青ざめる家康に、とことん冷たくあしらう本多忠勝。
これでも徳川家随一の忠臣として自他ともに認められる側近だ。もう一人の幼馴染はよほど正信と顔を合わせたくないらしい。旅には同行しているはずなのに、全く顔を見せない。
気配ごと断つ服部正成や滝川一益とは違う。
あれらは武家でありながら、士ではない。
ただの道具として扱えばいいものを、家臣の一人として遇している辺りは家康と信長は似ている。だから早い段階で同盟を結ぶことができた。先の様子からして、家康は過去に何度かやらかしている気がする。
「よくもまあ、生きてこられたものですね」
「貴様!」
「いいんだよ、忠勝。それよりも正信、妙案はないかな? 平然と振舞われておられるけど、きっと三郎兄上は私の狙いに気付いてしまった。もしかしたら同盟破棄もありうる。勘気を解いてもらうために、この遠江を渡すわけにもいかないし」
「家康様!?」
呆然としていた直虎が正気に戻った。
ようやくこれで話が進む、と正信は内心で息を吐く。永禄年間に三河国で一向一揆が起きるまで、家康には己の持てる全てを叩きこんできた。一揆は最終試練であり、家康だけに従う忠臣の篩い分けという目的もあったのだ。
おかげで今は「犬のような」忠臣が徳川家に揃っている。
仮に武田信玄率いる精鋭が襲ってこようとも、あの恐ろしい虎の策略に嵌ろうとも、家康だけは必ず生還させてみせるだろう。何があっても揺るがぬ団結こそ、今の家康に必要なものだ。
家康さえ生き延びれば、挽回の機会はある。
正信と同じように一揆に参加したため、歴史から消えていった一族も少なくない。遠江国は一揆の心配がない分、旧今川家臣であった国人衆の没落が痛い。家康が浜松城に移ったのも、今の遠江国が脆すぎるからだ。
統治者の存在は大きい。
そこにいるだけで、周囲へ影響を与える。
織田信長はその「影響力」が尋常ではなかった。家康の下を離れて八年以上、放浪生活で様々な男たちを見てきたが信長は別格だ。ずば抜けて頭がいいわけでなく、武勇に長けているのでもなく、織田家当主としても足りないところだらけだ。
そんな信長が、たった数年で征夷大将軍に次ぐ地位を手に入れた。
織田家の急成長には、一族と家臣団の尽力がある。
織田信長が凄いのではない。信長に影響を受けた人間たちが、持てる才能を遺憾なく発揮するから織田家は大きくなったのだ。この短期間で正信が受けた効果を鑑みるに、一族と側近は相当侵されている。一種の病だ。
残念ながら例外には含められない家康は、まだ震えている。
どうしよう、どうしようと呟いては直虎に宥められていた。全く以て情けない姿だが、これでも一生涯を支えるべき主と定めた存在。放っておくわけにもいかない。
「家康様」
「何だ、どうした?! 妙案が浮かんだか!」
「次郎法師は、側室に向きませんよ」
「うぐ」
「……私の対応が間違っていたというご指摘は、甘んじて受けます。ですが遠江を守るため、この身を犠牲にすることも厭わぬ覚悟です」
「そこから間違っていると、何故気付かない?」
「えっ」
「まあ、確かに」
思わぬところから同意が得られた。
おそらく忠勝はこの件に関して、何も聞かされていなかったのだろう。事前に知っていたら間違いなく止める。まず信長が受け入れるはずがないし、遠江国を織田家の管理下に置くことも考えていなかった。あくまでも件の相良村だけに、焦点を合わせていたのだろう。
直虎がいらぬことを漏らしたせいで、増援を呼ぶことになった。
「なし崩し的に、結果論として遠江国内に織田軍を置こうという考えでしたら……そうですねえ。とんだ見当違いの大失態の下の下の愚策、としか言いようがありません」
「ううう」
頭を抱える家康を見やり、直虎がすっくと立ちあがる。
嫌な予感がした。
「次郎法師、止めなさい」
「寝所の場所は分かっています」
「これ以上、あの方を怒らせるなと言っている。止めろ。無駄だ」
「女であることを今使わず、いつ使えというのです!?」
「直虎」
「……っ」
「駄目だよ、その言葉は。君自身をも貶めるだけじゃない。井伊家復興に手を貸して、この井伊谷城の守りを任せた私をも貶める発言だ。撤回してほしい」
さっきまでの姿は偽物とばかりに、家康は冷然と告げる。
尼削ぎの髪が揺れて、ストンと座り込んだ。
それを見て、最終手段と考えていた男二人が胸を撫でおろす。正信が縛ることを考えたのは信長の過去話を聞いたせいである。一瞬遅れて自覚し、軽い自己嫌悪に陥った。
軍法に通じた者としてあるまじき短慮だ。
「直虎には悪いけど、本当に側室として迎えてくれるかは望み薄だと思っていた。今日見た感じだと、可能性は全くないね」
「ええ」
忠勝と正信が頷けば、直虎一人が眉を寄せる。
「からかい、弄ぶ相手でしかない、ということでしょうか」
「直虎、三郎兄上に武将として認められたことを忘れたの?」
「あれはっ」
「井伊谷城が少し前まで敵の手に落ちていたことまでは、さすがに三郎兄上もご存じないだろうけど。織田民部殿はどうかなあ。城郭の造りを観察していたみたいだし、気付いているよね」
「それどころか、織田の内情を詳しく探っていることも知られてしまったでしょうな」
「うう」
「尾張守様は、そのような些末事など気にされぬ」
「些末事とは何だ!」
聞き捨てならないと直虎が吠えれば、忠勝がぎろりと睨む。
「そもそも次郎法師、貴様が余計なことを口走るからであろうが。我も詳しく聞いたわけではない。だが、相良村の黒い水はただの毒にあらず。毒であったとしても、毒として使うつもりは毛頭ない。尾張守様はそういう御方だ」
「だよねえ。ああ、本当に失敗した」
「し、しかし、毒であることは明白で……!」
「人間でも獣でも、あれを間違って飲むことはない。毒と断言するにはその根拠が必要だ。だから尾張守様は、殿に確かめた。人に飲ませたか。獣が飲んだのか」
「人にも獣にも飲ませるものか! 臭くて近寄れず、臭いだけでも死に至る。あれが毒以外の何であるのか、私が知りたいくらいだっ」
「康政の指示だね?」
柔らかな声で問われたにも関わらず、直虎は口を引き結ぶ。
忠勝は「あの馬鹿」と呻き、正信は人の悪い笑みを深くし、家康は困ったように眉尻を下げた。宴席に顔を出さなかったのは幸か不幸か。主に直虎が矢面に立たされた形になったものの、康政が持論を展開して面倒なことになったかもしれない。
「頭が回るだけの忠犬には、躾が必要ですね」
「ま、正信……」
「あいつのことだ。話を聞いて、功に逸ったんでしょう」
「やれやれ。これは言わずにおこうと思っていましたが、隠すほどに暴走する者がいるのでは話になりませんな。勝手に動くのなら、家康様のご迷惑にならぬように立ち回らねば」
「それは貴様の経験談か?」
「さてはて」
奸臣め、と忠勝が呟く。
康政を庇おうと口を開きかけた直虎だけが、一人取り残されている。
分かっているのは自分たちが「先走って、しくじった」という一点のみだ。相良村の黒い水は「毒」である。信長が認め、他の誰もが暗に肯定している。
『毒も使いようによっては薬になる』
あの思わせぶりな一言が気になって仕方ないのだろう。
直虎の祖父は毒を盛られて死んだ。相良村は遠江国東部にあって、北条氏の調停により今川領へ戻した駿河国に近い。近すぎるのだ。
近づくだけで死に至るなら、広範囲に効果を望める。
敵地へ毒水を運ぶだけで、大きな打撃を与えることができる。康政はいつまでも織田家に甘えていては、いずれ本当に属国として飲み込まれると案じていたらしい。有益な情報を交渉手段にしたいと考えた辺りまでは、容易に予想がつく。
正信は深々と溜息を吐く。
まったくもって、至極真っ当な考え方だ。戦でも、人付き合いでも、ましてや国政に絡んでくることなら上手く駆け引きしようと考える。手札は多い方がいい。武器にも防具にもなる。
「思考が読めても何をするか分からぬ相手に、勝てるわけがない」
「正信は考えていることが分かるのか!?」
「分かりやすい方ですよ、尾張守様は」
「腹の探り合いなど、力なき者がやることだ。俺は好かん。尾張守様は隠さず、臆さず、私利私欲で動く。乱世の申し子というべき存在よ」
「えっと忠勝、それは織田民部殿の前では言わないでね……」
不思議そうな顔に不安を駆られて、家康が「絶対だよ」と念を押す。
信長が家族を溺愛しているのは有名だが、織田兄弟はそんな信長に命を捧げられるくらい懐いている。実際、五男・信治は南近江の人柱になった。弟を失った悲しみは深く、敵勢力は一兵残らず殲滅されたと聞く。
そして今、急速に土地開発が進んでいるという。
古くからある東海道よりも、中山道の方が早く整備されるかもしれない。道行く商人たちの冗談めいた会話も、正信たちにとっては全く笑えない話だった。
「黒い水の件ですが」
ようやくか、という忠勝の声は聞こえないふりだ。
「燃料として使われるものだと考えられます。いつか奥羽山脈が禿山脈になる、と嘆いておられましたのでね。目的は木材消費を抑えること。毒を薬と成すには加工が必要でしょうが、その手段もご存じであるかと」
「何故、それを正信殿が知っておられるのですか」
「……次郎法師。心が折れる寸前まで追い詰められたのは察してやるが、少しは己の頭で考えよ。今言ったことは推測にすぎん。毒を撒いて敵兵を殺すなど、あの方はやらぬと断言もできる」
「やらないだろうねえ」
「家康様まで!」
「わざと曖昧な情報だけに留めたのは、竹中殿の策か。やっと分かった。毒水の所在を知りながら武田軍が動かないのは、三郎兄上の動きを見定めているからだ。どう使うのかを明らかにしてから、安全に奪い取るつもりだったんだろう。北条も、今は武田と同盟関係にあるし。余計な手出し無用、とでも言い含めてあるんじゃないかな」
「殿。この話、康政が聞いたら――」
「大変だ! 半蔵っ」
そうして少しばかりの騒動の後、井伊谷城は眠りについた。
家康の懸念は的中する。
信長自ら行った実地検分の完了を見計らったかのように、武田軍が遠江国攻略を本格化したのだ。井伊谷城を含めた山側の城がいくつも奪われた。しかし相良村へ至ることなく、唐突に撤退を開始する。
そして相良村は、相良油田と呼ばれるようになった。
「非常の器」本多正信...
忠勝を含め同族にも嫌われるのは、見た目以上に性格が悪いから。
榊原康政には「腸の腐った奴」とまで言われたせいで、徳川軍における悪役担当にして名参謀。家康には大変気に入られており、側近というよりは「友」ポジション。
武勇を誇る三河武士にしてみれば、性質が違いすぎて合わなかったらしい。
直虎さんはキャンキャン騒いでいますが、若気の至りで黒歴史の一ページを刻んだと思っていただければ。後に「魔王の側室候補」とか呼ばれるようになります。
未遂なので、からかいのネタ。
発信元は正信。ノブナガの嫁は三人とも普通じゃないので、直虎も普通じゃない扱いされます。そんな義母を虎松は誇りに思う、かもしれない。




