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ノブナガ奇伝  作者: 天野眞亜
雌伏編(天文13年~)
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16. ドクゼリ

 東の空が白む頃、小走りで駆け込んできた女がいた。

 厨に踏み込むときには、これでもかというくらいに周囲を警戒している。神経質な性格なのだろう。何度も胸元を確認しつつ、十分な余裕のある戸口を小さくなって跨ぐ。

 むわっと蒸気のこもる中を、数人の女たちが忙しそうに動き回っていた。

 最も年嵩と思われる中年女が、ひょいと振り向いた。

「あれ、今日は遅かったねえ」

「も、申し訳ありません」

「いいよ。近頃の若様が、やたら早起きなのが悪いのさ。今度は何を企んでいるんだか、廃嫡を聞かされて自暴自棄にならなきゃいいんだけど」

「そうですね……」

「もしかして朝に弱いのかい? 若いうちに鍛えときな。嫁に行ったら、姑さんからここぞとばかりに攻撃されちまう」

「はい、気を付けます」

 口の達者な飯炊き婆である。

 声をかけられた時には心の臓が跳ね上がる思いをしたが、大丈夫だ。怪しまれていない。ひとしきり喋ってスッキリした顔で、汁物の鍋を覗き込んでいる。

 うん、あれがいい。

 そうと決まれば、鍋にとりつく隙がほしい。不自然に思われないためには彼女たちを手伝べきだと分かっているが、ぎりぎりまで隠しておきたい。早くどけ、早くそこをどけ。

 あっちに行って。

 そんな思いが届いたのか、くるっと中年女が振り向いた。

「味見」

「あ、はい」

「腹が減ってるなら、これで我慢しな。仮にも若様の朝餉をつまみ食いしたとあっちゃあ、即座にコレだからねえ」

 首をかっ切る動きに、女はぎこちない笑みを浮かべた。

 どの道、待っている未来はそれしかない。見つかっても見つからなくても、既に地獄への道行きは始まっているのだ。戻れない一本道の先は、闇。

「ん? なんだい、それは」

「あ、あの、こっ、これは」

 汁物の味をみるには、匙で掬って舐める。

 だが中年女は腹をすかしている女のために、わざわざ小皿によそってくれたのだ。困ったことに、それを受け取るためには手を出さなければならない。なんとか隠したまま受け取れないかとモゾモゾ動かしたら、それが見つかってしまった。

 必死に記憶を手繰り、言われたことを思い出す。

「とても滋養のつく、草です。苦いので少量だけなら、何かに混ぜてしまえば若様も気付かないのではないかと」

「あんた、……まさか」

 中年女が目を眇める。

「若様が好きなのかい?」

「そ、そうなんです!!」

 緊張の極みにあった女は、甲高い悲鳴のような声で答えた。

 どくどくと早鐘を打つ胸が苦しい。噴出した汗が全身をびっしょりと濡らしていた。大それたことをしようとしている恐れからか、体の震えも止まらない。

「とにかく、この薬草・・を――」

「違うだろ」

 ぽんっと肩に誰かの手が乗る。

 その声を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。


**********


 きゃーっ、と女たちの悲鳴が上がる。

 そんなに俺の登場を喜んでくれるなんて照れるぜ、フッ。

 なーんて、冗談です。おばちゃんの目線がものすごく怖い。戦国時代の女たちは、実は強かった! とかいう新説が生まれそうだ。

 おっと忘れるところだった。

 気絶した女の手から、そっとソレを抜き取る。

 可哀想に手が赤く腫れていて、震えながら呼吸も不規則だ。呼吸困難と痙攣、明らかな中毒症状だ。汗をかいているのに体が冷たい。これは急いだほうがいいかもしれない。

「若様! まだお食事はできておりません。このような所に足を踏み入れるなど、身分ある御方のなさることでは」

「はい、ごめんなさい。ついでに、この人も連れていくぞ。なんか本当に具合悪そうだし」

「先程の会話はお忘れください。この娘のためにも」

「分かっている。婚儀を控えている身だし……って、そっちはどうなるか分からんか」

 後半はおばちゃんに聞こえないレベルで小さくぼやく。

 廃嫡決定したら、道三も意思を変えるかもしれない。織田分家の、弾正忠家の後継じゃなくなった人間に可愛い娘を嫁がせようなんて思わないだろう。史実的には、娘を可愛がっていたらしい。美人の嫁さん、欲しかったなあ。

「邪魔して悪かった。朝餉はいつも通り、部屋に運んでくれ」

「承知いたしました」

 二度と来るな、っていうおばちゃんの目が怖い。

 俺が厨に来たのは全くの偶然だ。

 この時代の飯の作り方を見て覚えようと思って、見つからないように隠れていただけなんだよな。まさか毒混入の現場を目撃することになるとは思わなかった。

 まるで名探偵か、敏腕刑事みたいじゃないか?

 じっちゃんの名にかけ…………あ、じいちゃんの名前知らねえや。

 ちなみに狙われたのは俺、ノブナガ。そうかあ、俺ってマジで命狙われてんのか。

 軽く動揺しながら、足をひたすら動かしている。

 横抱きにしている女もすごく軽い。ほっそい体しているし、まだ少女くらいの年頃じゃなかろうか。黒髪を飾るのは丸紐一本だ。

「若」

「ナイスタイミングだ、一益。ドクゼリの解毒方法知っているか?」

 別名オオゼリ。

 七草のひとつに数えられるセリによく似ていることから、間違えて食べて中毒死する奴がいるらしい。沢彦にそれを聞いた時には、軽く血の気が引いたものだ。中毒症状の説明は三流ホラーも真っ青な内容で、夏になったら怪談語りだすタレントを思い出してしまった。

 おかげで、形状もしっかり覚えている。

 手が傷だらけなのはしっかり握りこんでいたからか。傷口から毒が染み込んでいったのだろう。とっさに包んだ懐紙は、血と草の汁で汚れていた。

「若」

「早く助けてやってくれ。たぶん利用されただけなんだ」

「…………」

「まさか解毒方法がないとか言わないよな? あるだろ、ほら。傷口から吸い出すとか、水分を与えて強制排出させるとか」

「若」

 若、若うるせえんだよ。なんとかしろよ、何のための舎弟だ。

 なんのための忍だ。俺の役に立つために、一益はいるんだろうが。その俺が女を助けろって言っているんだぞ。お願いじゃない、命令だ。お前は臣下なのに、主の命令が聞けないのか。

 自分で自分が何を言っているのか分からなかった。

 ぎゃあぎゃあと喚く声が、横滑りする。


 ぱたり、と手が落ちた。


 辺りに静けさが戻ってくる。

 まだ夜が明けたばかりだ。あちこち騒がしくなってくるのは完全に日が昇った頃で、城内に動き回っている人間は限られていた。

 細くて白い足が、土の上に投げ出されていた。

 草履はここまでくる間に脱げてしまったのだろう。もっと慎重に運べばよかった。汗にまみれた肌に髪が貼りついている。一筋ずつ払ってやる俺の方が震えていて、彼女はもうぴくりともしなかった。

 可哀想に。

 一瞬だけ浮かんだフレーズをかき消すように、俺の中で激しさが駆け巡る。

 厨で働いている女たちの中で、この子が一番若かった。いずれ誰かのところへ嫁いでいくのだろうが、城で働けるくらいには家柄もちゃんとしていた。

「俺が殺した」

「若!?」

「そういうことにしておけ」

 静かに、ゆっくりと噛みしめるように、俺は告げる。

「この女は俺をかばって、俺の代わりに毒を含んだんだ。俺を殺そうとしたんじゃない。毒入りの飯は既に作られていて、うっかり者の娘がつまみ食いをした」

 一益の目が限界まで見開かれている。

「それは」

「噂として広めろ。廃嫡のことで少しは減るかと思ったが、俺を狙っている奴は相変わらず馬鹿だな。あるいは『俺が殺した』と吹聴するのを期待したか、まあ……どうでもいい」

 すぐに浮かんだのは飢饉の村、そして信行だ。

 奴らは、何が何でも信行に織田家を継がせたいらしい。思い通りの傀儡にならないのは薄々気付いているだろうに、俺がまともな死に方をしなかった件で動きを制限するつもりか。正義感が強く、曲がったことが大嫌いな弟だ。

 お前のせいで死んだ、と言われたら罪悪感で苦しむに違いない。

「腐ってやがる」

 いい加減、キレた。

 あっちもこっちも手を出す余裕はないし、飢饉の村は超難題だ。今まで以上に城を留守にする――今回は親父殿の命令だから堂々と抜け出せる――ことで、家督問題にまつわるゴタゴタに直接関わらなくて済むと思っていた。甘かった。

 死んだ娘は、親に届けてやらねばならない。

 骨の感触が伝わる肩に力が入って、壊しそうだと慌てて力を抜く。さっきまで動いていたのに、今はよくできた人形のようだ。痛みを訴えることもなければ、ここから逃げ出すこともない。

 その日の晩。

 城下町のある家で、夜通し慟哭の声が上がっていた。

 何故どうしてと叫んでも答える者はない。噂を知った者たちが、娘との面識もないのに追悼の言葉を告げていった。ひっきりなしにやってくる弔問客のせいで、俺を毒殺しようとした一件は市井に広く伝わっていく。

 娘は沢彦の読経で送られ、荼毘に付した。

 さすがに俺は葬儀に参列できなかったので、心ばかりの金銭を包んだ。長秀や恒興には止められたが、これきりだと言い含めた。

 これっきりだ、次はない。

 その言葉の意味を知るのは、俺だけだった。


毒の知識はうろ覚えだったので、wikipediaを参照しています。

見分け方としてセリの葉は丸みを帯びているのに対して、ドクゼリはトゲトゲの葉で痛そうな見た目です。生息地に多少の違いがありますが、日本でドクゼリ中毒がないわけではないので、作中に使わせていただきました

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