168. 活版印刷はじめます
神社巡りツアーは歴史の大河に消えていきました
永禄12年(1569年)を迎えた。
雪が酷くなる前に神社巡りができて良かったと思う。
熊野大社は出雲大社と並んで出雲国一之宮なんて呼ばれていて、熊野三山とは別だということも初めて知った。東北にも熊野大社があるらしい。どんだけあるんだ、熊野のお社。
熊野三山には嘉隆も参拝し、心ばかりの寄進をしていた。
何でも荘園の収入が減ったせいで、社殿の管理も厳しい状況だという。貧乏な生活に耐えられなくなって寄進を募り、貴族や豪族との癒着が強くなって、堕落していったのは仏僧だけじゃない。そして時の権力争いに巻き込まれ、衰退していった一族も少なくなかった。
生臭い話だが、切実さは伝わる。
「出雲国は……そのうちな」
ぴくっと反応した鹿頭が、しょんぼりと項垂れた。
犬か、貴様は。
上洛なんかしたくないと言っているのに、また俺は京屋敷に来ているのだ。熊野三山は山登り、伊勢神宮はひたすら移動してばかりで、ろくに家族との触れ合いもできなかった。それでも国外旅行なんて嬉しいと喜ぶ吉乃たちに癒される。
そういえば、帰蝶とも新婚旅行の一度きりだもんな。
「伊勢の帰り道で、お五徳の強襲を受けた時にはビビったわ」
「一の姫様ですか? 三河へ嫁いだという」
「ああ」
勝久の問いかけに軽く頷く。
ズルい、ひどい、の恨み言は幼い頃からの定番だ。思いっきり拗ねては何かしらを与えられて、ころっと機嫌を直す。気性が激しいわりに扱いやすい彼女が、神社巡りに参加したい一心で馬を飛ばしてきた。ちなみに夫の信康も一緒だ。
鰻の手土産はまあ、美味しく頂いた。
長利謹製のタレを更に改良して、鰻の調理方法も日持ちしやすいように工夫したようだ。味は缶詰の蒲焼である。前世ではお世話になっていたなあ、なんて久しく覚えなかった懐かしさに囚われた。
三人の嫁、奇妙丸を除く四人の子供たち。
もう揃うことはないだろうと思っていた家族の顔を眺めているだけで、俺はもう感無量だ。そこに娘婿と鶴千代も混ざっているし、お市と長政はいない。改めて考えてみれば、お艶を娶った信純が織田一門衆で最も俺に近いのか。
信広は娘しか生まれず、信包以下弟たちの子供は幼すぎる。
「だからって何してもいいとは言わんがな! 公方様がルール無視して何でも好き勝手にやりまくっていたことを諫めろとは言ったが、俺に何でも許可を求めるようにしろとは言ってねえ!! このままだとマジで、山城国と近い場所に城を新築するハメになんだろうがっ」
「そ、そうですね」
「勝久様、俺にも分かるように説明してください」
「なんで京屋敷にいるんだよ、尼子主従」
「はい。私にも何かできることはないかと思いまして」
仕事を寄越せ、というわけか。
尼子衆は今、水軍として新編するべく嘉隆が鍛えているはずだ。そろそろ貿易を始めないと、ヨーロッパから帰ってくる船が到着する前にタイムリミットが来てしまう。宣教師の黒い噂も気になるし、九州とのツテがほしい。
目指すは小早での商品運搬だ。
嘉隆には小馬鹿にした顔で見られたが、使えるものは何でも使いたい。大きな川だって立派な流通路だ。海賊を何とかして、多少の荒れた海でも安定して移動できる船が――。
「資金がいるな」
「今こそ活版印刷をはじめましょう!!」
「えっ、ヤダ」
目指せ「ノー」と言える戦国武将。
そろそろ頃合だとは思っていたが、思わぬところから提案されて少なからず驚いている。尾張国の識字率が一定水準を満たした今、読むことへの関心が高まりつつあるのだ。他に娯楽がないもんだから、貸本屋と筆屋が大儲けしている。木炭ペンも庶民価格で売り出そうかな。
「貴様、聞いているのか!?」
「聞いてる聞いてる。勝久、誰に吹き込まれたんだ?」
「……村井殿です」
熱弁を振るっていた勝久は、たちまち萎む。
詳しく説明させてみると、俺が活版印刷の「早くて」「簡単な」方法を知っているはずだと言われたそうな。この時代では義昭が一乗院門跡として在籍していた興福寺、京の五山――天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺――で木版印刷が行われている。
ローマ字に比べて、日本の文字はかなり複雑だ。
崩し文字が一般的である点や漢字の数が膨大すぎるため、どれだけ木型を作っても足りない。たくさんの文字を読めるようにするには、小さい文字を並べる必要がある。ハンコを想像してほしい。あの小さいものを大量に作らなければならないのだ。
しかも木版は摩耗しやすい。
名前は忘れたが、活版印刷を発明したヨーロッパの技師は天才だ。
「ヨハネス・グーテンベルクです」
「おう、それそれ……って、どこから湧いた!?」
「お邪魔していマス、ノブナガ様」
フロイスが、にこにこと無邪気な笑みを向けてくる。
ヨーロッパの印刷技術について話を聞くため、勝久が呼び寄せたのだという。鹿頭が不満げにしている辺り、主従間で意見の相違があったと思われる。そりゃあそうだ。自分よりも、よく知らない相手(それも外国人)を優先されて面白いわけがない。
「ご存知ですか、信長様。耶蘇会が所有する聖書は、印刷技術の結晶なのです。残念ながら南蛮の言葉を理解することはできませんが、全く同じ文字が整然と並んでいる様子はとても美しいと思います」
「そ、そうか。ヤドカリの聖書は美しいのかあ」
勝久の勢いに若干引き気味に相槌を打った。
「違いますよ!」
「イエズス会のことデス。勝久殿は、我が国の文化に興味がありマス」
「しばらく会わないうちに日本語が上手くなったなあ、フロイス」
「ありがとうございマス。エエト、お褒めに預かりキョーレツシゴクです」
「恐悦至極、な」
「ハイ。まだまだ修行が足りませんネ」
ときどき入る妙なイントネーションはご愛敬だ。
外国語を習得するには、その国で生活するのが一番手っ取り早い。フロイスは布教のために来日したわけだが、日本人を「野蛮な民族」と見下した素振りは全くない。神の教えの通りに「愛すべき隣人」として接してくれている。
「……ん? 印刷された聖書?」
ドロステンにもらった英語版は手書きだった。
「手書きもありマス。写本しマス」
「ああ、そういうことか。以前取り寄せた印刷物は楷書だったんだよなあ」
「経典ですから」
俺は生温い笑みを浮かべた。
ヨーロッパでも日本でも、最初に印刷されたのが宗教関連書籍である理由は一緒だ。需要がなければ無駄になる。そして手書き文字より、楷書の方が読みやすい。
「フロイス。欧米……南蛮の印刷は金属製の活字を使っているんだよな」
「ハイ」
「印刷機を輸入するにしても、モノがでかすぎるか。対価にできそうなもんが思いつかないし、俺が欲しいものを他人任せにするのもなあ。あ、そうだ。フロイス、頼んだ品物っていつ届くんだ?」
「早くても来年デス」
「そうか、楽しみだな。っと、印刷の話だったか。活字を作ることから始めないとダメなんだが、そもそもアルファベットじゃあ意味がない。五十音のひらがなオンリー本じゃあ、読みづらいし。どうあっても漢字が必要になる」
一ページずつ木板を作る方法は、江戸時代の版画そのものだ。
コピー機のない時代にカラー印刷まで生み出したのだから、どんだけ暇だったんだと言いたくもなる。それだけ江戸時代は平和だった、ということだ。今からじゃ考えられないくらいに。
「俺ならできる、だと? 吉兵衛め」
「何でもやります」
「勝久様にここまで言わせておいて、できぬとは言わせんぞ」
「でき、る」
やり方は分かる。材料もある。
「問題は……」
「ごくり」
「俺が壊滅的に不器用だという点だ」
「そんなの関係ねえ!! ふざけているのかっ」
「止めなさい、幸盛」
「だから印刷そのものはできるって言ってんだろ。事業計画組まないとダメな案件なんだよ。ん~、定型文なら何とかなるかな。フレーズごとに区切って、それを組みかえればいいわけだから…………将軍の名を借りて細工職人に競わせるか? 万が一、上手く行っても五山がイチャモンつけてきそうなんだよなあ。パクったとか何とか」
「いたもん? ぱ、ぱく」
「聞いてはなりません、勝久様。悪魔の呪文ですっ」
「違いマス。ノブナガ様は悪魔ではありません」
「貴様は黙っていろ!」
鹿頭が勝久を押さえている。
俺を殴りかかろうとした時とは逆だ。
どっちにしろ失礼極まりないことだが、主従漫才に構ってもいられない。貞勝が言い出したのなら、おそらく「今」必要だと判断したのだ。あるいは仕事をくれくれ言ってきた勝久に辟易したのか。
交渉事はあんまり得意そうじゃないもんな、勝久。
軍事訓練以外は、常に鹿頭がぺったり張りついているし。
「おい、鹿頭」
「なんだ、黒づくめ」
「手先は器用な方か」
「貴様よりは数段上だと言っておく」
「幸盛!」
「ならば、尼子衆に活版印刷の極意を授ける。儲けの一部は再興資金に充てろ」
「あ、ありがとうございます」
「フロイスは布教の合間でいいから、こいつらに協力してやってくれ」
「分かりましタ」
「……何を企んでいる」
素直に喜んでいる勝久とは違い、幸盛は険しい顔だ。
そんなに色々企んでいるように見えるのか、俺は。
「織田家主導でやると、俺の半生記が印刷されるんだ……」
「は?」
「勝久、軌道に乗るまでの完全フォローは約束する。だから半生記の印刷だけは、それだけは阻止してくれ。特に俺の小姓衆、御伽衆は要注意だ。奴らには活版印刷へ関わらせるな」
「は、はあ。承知しました」
「おかしな奴だな。自分の評判を上げるためには、最も簡単で確実な方法ではないか。しかも家臣がやりたがっているのに、それを阻もうとするとは」
忠義に応えないやり方が気に食わない、と幸盛。
その隣でなんとなーく理解を示している勝久には気付かない。最初の活版印刷本に勝久の半生記(完全創作)が誕生したら、一体どうするんだろう。どうせマゾ疑惑のある幸盛のことだ。勝久のためとあらば、喜んで苦難の道(という名の活版製作)に勤しむに違いない。
「皆で協力して頑張りまショウ」
「いや、フロイスは手伝わなくてもいいから」
「ええ!? 困ります。フロイス殿の知恵が必要なんですから」
「貴様、先程の言葉と矛盾しているぞ。当然、私は不眠不休で尽くす覚悟が出来ている」
「頼りにしていますよ、幸盛。共に良いものを作りましょう」
「もちろんです!!」
何故かフロイスも混ざって、三人で団結している。
うん、勝手にやってくれ。俺は知らん。
それから数年後、織田流活版印刷が完成した。
信長は「織田流」とつくのを非常に嫌がったが、その理由までは定かでない。崩し字で綴られた一枚分を木版に刻むもの、定型文を楷書で綴った「活字ブロック」と呼ばれる金属板を組み合わせるもの、の二種類が尼子家によって生産されている。
また信長は「天下布武」の朱印を所持していた。
鹿の角を素材にして、名工の手によって彫られたものだという。これに憧れた武将たちはこぞって花押の印字を作ろうとしたが、盗難・紛失が相次いで次第に廃れていった。
織田流活版印刷は単一色である。
気まぐれに発行される瓦版には文字以外に絵が描かれており、文字が読めない者にも分かりやすく工夫されていた。印刷に関わった細工師は数多くいたが、瓦版の絵師は謎に包まれている。細工師の一人だったとも、やんごとなき身分の人だったとも云われた。
そして不思議なことに信長は、自分の半生記の出版を厳しく禁じた。
代わりに「織田全集」は多く印刷され、絵入りのものも出回った。
手習いの基本として重宝され、裕福な家に一冊は必ずあると言われるほどだったという。こうして織田家は大きな収入源を得て、ますます繁栄していくのだった。
悪魔じゃないよ、魔王だよ。
とか言ったらフロイスが本気にしそうなので自嘲しました。
交易の品と共に悪魔祓い師が上陸したら、今度は陰陽師の末裔とガチバトルに……あいや、この時代は力技で化け物退治しちゃうツワモノがいました。何も、問題は、ない




