序 炎の中で
時は戦国、場所は本能寺。
後に三英傑の一人に数えられる男の命運が今、尽きようとしていた――。
どぉん、どぉんと音が爆ぜる。
聞こえてきた方向を見やり、煙立ち込める中に立つ男が一人。
「やりおるわ、キンカン頭め」
どこか楽しげに言い、折れた槍を投げ捨てた。
早い段階で真っ二つにへし折れてしまったのだが、二刀流をやってみたかったので両手でぶん回していたらボロボロになった。それなりに銘ある業物だったが、ここまで使い潰せば槍も本望だろう。
柄が焼かれ朽ちても、刃は打ち直して何とかなるかもしれない。
どうせ焼け跡を総出で探し回るのだ。
土産の一つもなくば、骨折り損というもの。
男はうそりと笑い、腰に帯びていた大小に手をかける。もちろん、抜いたのは太刀の方だ。これまた業物の一振りであったが、無造作に振り下ろした先で斬れたのは焼けた襖だった。
ばらばらに崩れ落ち、そこから新たに火の手が上がる。
「ふん」
たちまち炎の壁になって、雑兵の寄せ手を阻んだ。慌てて後退する明智兵を一瞥し、悠然と奥へ足を進める。奴らには、炎の向こうへ消えていったように見えただろう。
「上様、信長様!!」
大声で呼ばわりながら、駆け込んできた青年はくすぶる炎も構わず片膝をついた。
その手には血塗れた刀があり、体中のあちこちが裂傷と火傷だらけの痛々しい姿だ。煤で汚れた顔を上げ、ひたと男へ目線を合わせる。
「蘭。まだここにおったか」
「どこまでもお供いたします」
「酔狂な奴……」
「上様には言われたくありませんね」
苦笑交じりにこぼせば、晴れやかに生意気な口を叩く。
「他は」
「敵は二条城奥まで入り込んでおります。この炎で昼のように明るくなった反面、煙が立ち込める屋内は視界が悪く…………お味方も苦戦している様子」
「であるか」
「信長様……」
太刀をひっさげ、男は俯いていた。
後をついていくために立ち上がった蘭丸は、その顔を窺い知ることができない。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ蘭丸の方が高いのである。
その心中、如何ばかりか。
蘭丸ですら口惜しさに胸が焼けんばかりだ。あれだけ可愛がっていた重臣に裏切られる辛さ、悔しさは筆舌に尽くしがたい激情で荒れ狂っているに違いない。
織田上総介信長は、良くも悪くも情に厚い男だ。
「明智十兵衛光秀…………許すまじ……!」
今日の日まで抱いていた敬意と好感は全て反転し、深い憎悪が沸き上がる。
心の隅々まで真っ黒に染まりかけた頃、立ち尽くしたまま動かなかった男に変化が現れた。小刻みに震えている。煙のせいでよく見えないが、傍近くに控える蘭丸には分かった。
「の、信長様?」
「くく…………くはははは! あっはっはっは!!」
「信長様!? 何を笑っておられるのです」
気でも触れたか。
上体を反らして、それは豪快に笑っている。可笑しくて仕方ないという顔だ。面食らって硬直している蘭丸の前でひとしきり笑い、目尻に浮いた涙をぐいと拭う。
「あー、笑った。はー、おかしい」
「あの…………何故、お笑いに?」
気狂いになったのか、などと問えるわけがない。
この身果てるまで共に逝き、冥府までついていくと決めているのだ。よりによって、主の手で倒れるのは避けたい。本当に狂ってしまったのなら、蘭丸の手で終わらせる。賢き者と称賛された知性で決意と覚悟を定めると、ぬめる刀の柄を握り直した。
「いやあ、こんなに上手くいくとは思わなかったな。さすが歴史の補正力。規定伝承だか何だか知らないが、大筋さえ変えなければ小細工は可能ってか。つーか、俺が存在している時点で色々変わっちまってるんだよな。まあいいか、こまけーことは別に」
「…………は?」
「おう、蘭丸。どこまでもついてくって意思がまだ変わってねえなら、ついてこいよ。運が良けりゃ、どこかに落ち延びられる。おっと今ここで説明を求めるのは止めろよ? 後で話してやるから」
「し、しかし、これだけ炎が」
「それなんだよなあ。この時代の科学力じゃ、火事を消し止めるのは不可能だ。ましてやオール木造建築。月夜も美しい夜なもんだから、燃える燃える」
やはり主は、気が狂ったらしい。
饒舌に語りながら、笑みにゆがんだ口元は戻らない。道化っぽく振る舞う仕草は見覚えのあるものだったが、蘭丸は一度決めたら覆さない頑固者でもあった。
「上様……」
「ん?」
「お命、頂戴します」
「えええぇ、なんでェ!?」
間抜けな悲鳴を切り裂いて、白刃が男を狙う。
へっぴり腰の太刀がかろうじて、それを受け止めた。
「は、話し合おうっ。そんな暇ないけど。今まさに焼け崩れそうな寺の中で殺し合いとか、マジでないから。ほら、命あっての物種って言うだろ?!」
「我らの命運は既に尽きました。上様の哀れな姿、これ以上見ていたくはありません……っ」
「あ、うん。織田信長はここで死ぬけど、俺は死ぬつもりないし」
「な…………まさか貴様は、偽物!? おのれ、上様をどこにやったっ」
「ちげーよ! 俺、ノブナガ。アイアム信長。でも織田信長はここで死んだことにしとかないと収拾がつかないの。歴史上、そーなってんだよ。俺がそれに従うつもりはないってだけの話」
「意味が分かりません。そして蘭は惑わされません!」
蘭丸は完全に頭へ血が上っていた。
かろうじて急所を狙おうとしているものの、構えも何もなっていない信長(仮)の手でいなされている。手合わせなど一度もしたことはなかった。信長(仮)は槍を扱っても、刀は愛でるものだとか言って使わなかったのだ。
滅茶苦茶な動きで、悉く止められ、少しずつ蘭丸の頭も冷えていく。
森家の血は剣豪の血だ。
鬼武蔵の異名をとる森長可はそれこそ鬼のような容赦ない戦い方をする。人を斬らせて長可に勝る者などいまい。蘭丸は小姓として召し抱えられたが、鍛錬は欠かさなかった。
主君には敵が多い。
殺すためでなく、敵を制すための戦い方を学んだ。主君を守るためとはいえ、小姓が人殺しをするのは外聞が悪くなる。そう諭してくれたのは、他でもない信長だった。
殺すよりも、制す方が難しい。
今思えば血気盛んな少年の心は、言葉巧みに誘導されたのだろう。五感を鍛えまくったおかげで信長(仮)がさっきから、チラチラと余所見をしていることに気付いてしまった。
受けて流し、無様によろけつつ避けながら、徐々にどこかへ移動している。
ふと煙の動きが変わった。
どこかへ流れていく。いや、風の吹き込む方向に自分たちは進んでいる。
「あら、楽しそうね」
「お濃!」
「濃姫様、ご無事でしたかっ」
「この人が生きているのに、わたくしがどうにかなるわけじゃないじゃない。万が一にも颯爽と助けてくれるかもしれないって待っていたんだけど、それも飽きたから出てきたのよ」
ふふん、と笑う美女。
余裕たっぷりに見えるが、裾を上げたせいで足首周りが煤だらけだ。袖も一部が焼け焦げ、艶やかだった髪も灰まみれである。後ろに控える傍仕えも似たような様相で、今にも倒れそうな酷い顔色だ。
「蘭丸、追手が来たわ。相手なさい」
「で、ですが」
「…………まさか説明していなかったの?」
「てへっ」
濃姫の素早い蹴りが、信長(仮)の股に吸い込まれる。
乱れた裾をささっと直して、何事もなかったかのように彼女は命じた。
「この場に限り、不殺を免除します。やりなさい、森成利」
「ちょ、お濃。それ…………俺の、台詞……」
「お黙りなさい」
「……はい」
若干前かがみになって、しょぼんと項垂れる壮年の男。
何の茶番だと思いながらも、蘭丸には考えている暇がない。濃姫の言う通り、運よく炎を潜り抜けてきた明智兵が襲いかかってきたのだ。それこそ気が触れてしまったのか、獣のように吠えるだけの突進だ。
旧主への謀反、炎上する寺院内での殺し合い。
これで正気を保てという方が難しい。残虐非道で民百姓まで恐怖伝説が伝わる織田信長を討とう、というのだ。修羅の覚悟ができているのは、明智光秀のその周辺だけだろう。
蘭丸は憐憫の情が沸き、せめて一刀のもとに切り伏せた。
「というわけで、行ってくるわ」
「せっかちな人ね」
「上様? どこへ行かれるのですか」
逃げるのではないのか。
蘭丸が十人ほど斬った頃、聞き捨てならないやり取りに思わず振り向いた。
「兄上っ」
「は!?」
崩れ落ちる敵兵の向こうには、半ば二度と会えぬと諦めていた弟たちの姿があった。彼らも負けず劣らずの酷い有様だが、蘭丸の視線を受けてニヤリと笑う。
「油断大敵火事ぼーぼー、ってね。あ、今の状態だと笑えないや」
「坊丸、力丸! お前たちも無事だったか」
「もっちろん」
「ちょっと危なかったけど」
「力丸、それは言うなって!」
「ナイスタイミングだ。お前ら、お濃を頼むぞ」
「ですから、上様はどちらに!」
もう疑ってはいなかった。
時々南蛮語が混じる話し方は、蘭丸の知る信長にしかできない。大うつけと呼ばれながら、それを嬉しそうに受ける大器の持ち主である。
顔立ちは平凡で地味。派手な服装は、周囲にそれと印象付けるためだけのもの。後は寝るだけだった時間の襲撃だけに、信長は色を抑えた無地の着物である。焼け焦げた部分をそのままに、全身に墨と灰を塗りたくっている。
これでは誰も、織田信長とは思うまい。
明らかに何かやろうとしている男は、ちょこんと首を傾げた。
「野暮用」
「…………あなた、護衛は三人もいらないわ。一人くらい連れていったら?」
「じゃあ俺が! …………御方様の護衛をいたします、力丸も一緒に」
蘭丸の睨みを受け、すごすごと引き下がる坊丸。
末弟のこれみよがしな溜息に怒って拳を振るい、濃姫に足を踏まれていた。たちまち悲鳴を上げかけたが、大慌てで羽交い絞めにした力丸の手で塞がれている。
「……なんというか」
気が抜ける。
少し前まで、死を覚悟していたのだ。できれば怨敵・明智光秀の首を獲ってからだと思っていたが、主君・信長の安否を優先した。
おそらく、その判断は正しかった。
「さて行くか」
「はい。蘭がお供します、どこまでも」
先に告げた台詞に寸分違わぬ意思を込めて、ほんのわずかでも疑ってしまった己を深く恥じながら、薄汚れた中年男のような主君を見つめる。
今も昔も、この人ほどに素晴らしい器を見たことがない。
その考えは奇抜で、およそ常道というものを知らぬようでいて、人間心理を真っ向から突いてくる。ゆえに多くの人が慕い、織田木瓜の旗印に集うのだ。
信長は前を見ていた。
いつでもそうだった。誰よりも遠く、遥か先を見つめていた。
そしてニヤリと笑う時、何かが起きる。
あっと驚く何かを傍近くで見られる権利を、蘭丸はこれからも手放したりはしないだろう。沸き立つ胸を抑えつつ、深呼吸をする。
燃え盛る炎へ突っ込んでいく背を、蘭丸も迷わず追いかけていくのだった。
次から始まります